第2話 恭介の卒業

 「いってきます。」


 「いってらっしゃい。」


 何度となく、繰り返した朝。今日でこの生活も、あたりまえではなくなる。


 毎朝、毎朝。高志と雪子を見送ってきた。そんな今日で終わり。2人が家を出てから、スーツに着替える。そして、出社する。

 高志がここまで大きくなるまでに、そこそこ、それなりの地位を築いてきたつもりだ。給料が上がったか? といえば、雪子の収入に頼ってしまうこともあったくらいだが、私は社内での出世よりも、家庭での安定した生活を選んだまでだ。

 毎日決まった時間に帰宅し、雪子が作った料理を高志と食べる。

 それが私の幸せ。


 「結婚したら、毎日一緒にご飯を食べようね!」


 妻と付き合っていたとき、そんな約束をしたのを、妻はずっと覚えていて、たまたま仕事で帰りが遅くなると、噴火の如く怒り出すような妻だった。家族そろって食べることは簡単なようで、非常に難しい。私は決まった時間に帰って来るのに苦労しているのに、高志は家庭学習期間でも決まった時間に起きて、朝食を一緒に食べていた。その几帳面さは妻に似たのだな、と心の中にしまっていた。


 「恭介さん、お弁当、持って行ってね。」


 わが家の「母」が、弁当を持たせてくれた。


 「今日で最後だったな。」


 「うん。明日は高志の卒業式で、そのあとは作れなくなるから。」


 「いままでありがとうな。」


 「うん。」


 雪子は少し顔を赤らめて、返事をした。自分は少し小ぶりな弁当箱を持って、私にはその2倍くらいの弁当箱を残している。


 「雪子。いってらっしゃい。」


 「いってきます。」


 わが家の「母」が家を出た。


 誰もいなくなった家の中を、残ったコーヒーを含みながら見回す。高志が小さかった頃につけていた、柱の身長記録は、小学生になったところで止まっている。今はもう、その倍近い身長になっている。

 それにしても、わが家はずいぶんと片付いている。会社にある私のデスクは常に散らかっているので、この綺麗さは雪子がしっかりしているから保たれているのだろう。居間の一角にある仏壇スペースに目を向けると、新しい花が供えられていた。きっと雪子が用意してくれたんだ。そんなに気がきく雪子に「ケーキは4つな」なんて、ちょっと言い過ぎだったのかもしれない。


 「すみません。今夜の出前をお願いしたかったのですが。」


 「はい、よろこんで!」


 「松寿司1つ、お願いします。」


 「松1つですね。お時間は?」


 「夜6時、18時に届けてください。」


 「わかりました。お名前、ご住所、お願いします。」


 「はい。笹木恭介といいます。住所は…。」


 会社についてから注文してもいいのだが、時たま忙しくて電話すらかけられないということもあるので、今日ばかりは絶対に注文しなくてはならないと考え、受話器を取った。

 松寿司はいつも注文している寿司屋で、一番豪勢なセットメニューだ。妻が好きなウニもしっかり入っている。高志が好きなサーモンも、雪子が好きな鉄火巻きも。少々値は張るが、今日贅沢をせずに、いつ贅沢ができるんだと考え、思い切った選択をした。雪子に怒られるかな? でも、今日なら許されるはず。


 「ご注文確認させていただきます。笹木様、松寿司1つ、18時、夜6時でお間違い無かったでしょうか?」


 「はい。お願いします。」


 「お箸、茶碗蒸しは3つでよろしいでしょうか?」


 「いや、4つお願いできますか? 追加料金が必要なら払いますので。」


 「いえ、サービスですのでお代は変わりません。それでは夜6時にお届けにあがります。」


  *


 いつも通り、駅に向かう。

 いつも通り、電車に乗る。

 いつも通り、会社に行く。


 今日が2月28日であること以外、何も変わらない一日だった。年下の上司から仕事をうけ、年下の後輩から人生相談を受け、気がつくとこれといった成果がないまま昼休みになっていた。これもいつも通り。


 弁当箱を開けると、思わず息を呑んだ。

 妻が子どもたちに作っていた弁当そのものだった。ご飯に焼きそば、そして茹で野菜がいくつか。

 わが家は基本的に全員同じ弁当を持っていくので、私がこの弁当なら、高志も、雪子も、同じ弁当ということになる。彼らはこの弁当箱に、何を想うのだろう?

 高志が小さかった頃は、少食で、幼稚園に持っていった弁当をいつも残して帰ってきていた。その残りを食べるのは私の仕事だった。高志の背が伸びず、私の腹が出てきたのはそのせいもあるのかもしれない。家でもなかなか食べない高志に妻がよく作っていたのが焼きそばだった。具材は豚肉とよく炒めた玉ねぎだけ。ソース味が高志のお気に入りだった。

 今ではなんでも食べる青年になったが、この焼きそば弁当を見て、高志はあの頃のことを、思い出してくれるだろうか?


 雪子の焼きそばは、少々味が控えめな、やはり雪子の焼きそばだった。でも、たまに、あの頃の焼きそばの味になる。ソースで濃く味つけられたあの焼きそばの味が。

 周りで一緒に弁当を食べている同僚が何人かいたはずだったが、気づくと全員席を立って、別の場所で食べているようだった。さらに焼きそばの味が濃くなる。

 ふと顔をあげると、いつも乱雑なデスクに置かれた書類が、さらに曲がって見えた。


 ポタ。


 焼きそばを摘んでいた右手に雫が落ちる。慌ててポケットからハンカチを探す。

 ない。

 そうさ、このだらしない私がハンカチを持ち歩く習慣など、あるわけがないのだ。もしや、と考え鞄の中をあさってみる。


 あった。


 雪子が鞄の中に、ハンカチとポケットティッシュを忍ばせていた。ティッシュには妻が好きだったウサギのキャラクターが描かれている。


 「雪子。母、合格。」


 その成長が喜ばしい反面、ここまで苦労をかけてしまったことに、また、想いがあふれてしまう。少ししょっぱくなった弁当を完食し、私は休暇をとる算段をとった。幸い、今日の午後はこれと言って急ぎの仕事がなかったので、年下の上司に嫌な顔されることもなく、帰路に着くことができた。


 たった3時間。

 ほんの少しだが、雪子のためと思い休暇を取ったのは実は初めてだった。雪子が帰るまでの3時間。私はいつも雪子がしてくれている家事を全てやることにした。洗濯、掃除、茶碗洗い。そして今日と明日の服の支度。雪子がしたら、なんてことないのかもしれないが、私がすると、逆に後退してしまうこともあり、難航した。


 「ただいま。おい、何してんだよ!」


 雪子より早く帰った高志が見かねて、洗濯機の前にこぼれた洗剤を拭いてくれた。


 「高志、おかえり。早かったなぁ。」


 「ああ。俺以外にも家でご馳走するんって家があって、早めに解散することにしたんだ。」


 「そうか。」


 「俺も弁当箱、自分で洗いたくなっちゃって。最後くらいね。恭介さんもそんなところだろ?」


 「ああ。ご覧のとおり、結局汚してばかりだけどな。」


 洗濯機の前は洗剤だらけ。食器洗いも、掃除機も全部中途半端で、雪子が帰る午後6時はもうすぐそこに迫っている。


 「なあ、恭介さん。」


 「どうした、こんな時に。」


 洗濯機の前の洗剤はきれいになったが、肝心の水が出てこなくて、男2人が洗濯機の周りで右往左往しているという時に、高志が話しかけてきた。


 「そうだ。合格したよ。大学。」


 「そうか。おめでとう。」


 「実は、もう住むとこ決めててさ。今週末に一回東京に行くよ。そこで契約して、来週には都民になるつもり。」


 「早くないか?」


 合格した。までは想定内だとして、すでに家が決まりつつあるとは初耳だった。素直な感想がとなりの風呂場にも、大きく響く。


 「恭介さんにも雪子にも、心配かけたくないからさ。滑り止め決まった時点で考えてたんだよ。」


 「そうか。お前もできた息子になったな。昔は私が弁当食べてやってたのにな。」


 「ああ、それ。俺も弁当食べながら思い出したよ。その節は。どうも。」


 周りのことを考えて、先々を見通して行動できる、できた息子に育ったのが誇らしかった。


 「母さんにも、伝えるんだぞ。」


 「ああ、雪子にはラインしたよ。『おめでとう、うれしいよ』だってさ。」


 「違う。お母さんに伝えてきなさい。」


 高志は一瞬動きを止めて考えこんだが、事態を把握して、居間のに急いだ。


 「あ、これか?」


 洗濯機の上にあった蛇口をひねると、水が流れる音がした。


 「よし! 洗濯できるぞ!」

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