母、卒業。

雪鳴清楽

第1話 高志の卒業

 「おはよう。」


 朝6時30分。笹木高志たかしは2階から1階の居間へ降りてきた。わが家は2階が子ども部屋になっていて、俺、高志はいつも身支度を全て済ませてから朝ご飯を食べに向かう。


 「おはよう。今日パンだから、自分で焼いてね。」


 「うん。」


 雪子ゆきこは朝食と弁当とを一緒に作る。だから、パンの日にパンを焼くのと、ご飯の日にご飯を盛り付けるのとは、食べる人がするのが笹木ささき家のルールだ。


 「高志、おはよう。」


 恭介きょうすけさんが散歩から帰ってきた。恭介さんは毎朝、雪子の次に目覚めて、散歩に行くのが日課になっている。出社時間が遅めの恭介さんは散歩帰りのジャージ姿のまま新聞を広げ、朝食をとる。


 「雪子、今日の夜ご飯は、寿司でもとるか。」


 「そうね。私もケーキ食べたいなって思ってたの。」


 「じゃあ、ケーキは頼んだ。寿司は、私が頼んでおく。」


 今日は笹木家にとって、少し特別な日なのだ。それを意識して、雪子も恭介さんも、夜ご飯は特別にしたいと考えていたのだった。


 「じゃあ、俺はどうしたらいい?」


 「あんたは寄り道しないで帰ってきなさい。」


 「はい…。」


 俺は笹木家唯一の学生。だから、何を買ってくるでもなく、早く帰ってくることが仕事だった。


 「実は、遊ぶ約束しちゃってるから、ご飯の時間までに帰って来れば行ってもいい?」


 「そうだな…。」


 新聞を広げたまま、恭介さんが回答を濁す。


 「今日はみんなで食べる日なんだ。6時には帰って来いよ。絶対だぞ。」


 「わかりました。」


 「雪子も6時で間に合うか?」


 恭介さんは新聞から目を外して、キッチンに立つ雪子に尋ねた。


 「うん。今日は定時で帰ろうと思ってたから、駅前でケーキ買っても、6時には帰ってくるよ。」


 「そうか。じゃあ、よろしくな。」


 「ごちそうさま。」


 早食いの俺が一番ノリで食べ終わった。これでも子どもの頃は少食でよく母を困らせていたらしい。食事が終わると、出来上がった弁当を持って高校に向かうのがいつもの流れ。


 「雪子。」


 食器を片付けながら、声をかけた。


 「弁当、ありがとうな。」


 真正面を向いて言うのは照れ臭いから、冷蔵庫に貼ってある雪子の給食献立表を見つめながら、つぶやいた。


 「ちょっと奮発したんだからね! 今日のは。いっぱい食べるんだよ。」


 「うん。いってきます。」


 「いってらっしゃい。」


 俺は雪子が作った弁当を持って行った。

 今日で最後の弁当を持って行った。


 笹木家で、俺の次に家を出るのが雪子だ。恭介さんは食事が終わるとコーヒーを2杯いれて、雪子の支度が済むのを待つ。そして、雪子がすっかり身支度を済ませたところで一緒にコーヒーを飲むまでが、恭介さんのルーティーンだった。


 「雪子。」


 恭介さんが声をかけた。


 「なに?」


 「わかってると思うけど、ケーキ、4つ頼むな。」


 「4つ? それとも、ホールにする? もう、ホールケーキなんて食べられなくなるでしょ?」


 「いやいや、もう若くないんだ。そんなにたくさん食べられないよ。」


 「わかった。じゃあ、4つね。」


 「うん。頼んだ。」


 コーヒーを飲み終えると、雪子は保育園に出勤する。恭介さんも身支度を整え、会社に向かう。

 今日は2月28日。笹木家は俺、高志の高校卒業を翌日に控えた、特別な日を迎えていた。


  *


 今日の授業は3時間で終わり。中身は、さまざまな配布物の返却と、明日の卒業式の予行練習。座って立って、お辞儀して。そんなことの練習に一日呼び出されるのは少々シャクだが、約1か月ぶりに友達と会えるのは嬉しいものだ。

 午前中で終わるから、弁当はなくてもいいのだが、今日はどうしても、雪子の弁当が食べたかった。


 「おう、高志。こんな時まで弁当かよ。」


 「ああ。弁当作ってもらえるのなんて、今日で最後だからな。」


 「そうだよな。俺らは最後の購買買ってくるよ。」


 こんな日に弁当を持ってきているのは、俺だけだった。明日の卒業式が終わると、昼食を食べることもなく、この学校に別れを告げなければならない。3年通ったこの校舎に通うのも明日で最後だ。

 春からは上京して、大学で経済学を学ぶ予定だ。まだ受験は継続中で、滑り止めしか結果が出ていないけれど、どう転んでも、上京することは決めている。

 思えば、小学生の頃から、お金に苦しい家なのかもしれないと思っていた。恭介さんも雪子も休みなく働いて、出前や外食は年に数回しか食べられなかった。中学校から高校に行くときに、私立に行く友達もいたけれど、わが家は公立校一択だった。

 経済に興味を持つのも必然だった。なぜこんなにうちは辛抱しないといけないのだろうと、子どもながらに思っていた。経済について勉強できる大学は家の近くにない。どうせ勉強するなら、都会に行って、いろんな人に出会って勉強するのがいい、と言ってくれたのは恭介さんだった。

 色々調べて、勉強したい大学を自分で見つけた。合格するために必要な勉強も、塾なしで偏差値を上げた。奨学金の借り方も勉強した。引越しやなんかにかかるお金は、お年玉貯金とアルバイトで貯めたお金をあてるつもりだ。

 家では頑張っている姿を見せるのが恥ずかしくて、この教室に残って勉強することが多かった。2月に家庭学習期間に入ると、教室から街の図書館に場所を変えた。でもやはり、一番勉強したのはこの教室だった。


 今日の弁当は、焼きそばと冷凍のハンバーグ、それと、ニンジンとブロッコリーを茹でたやつだった。

 母さんが作ってくれた弁当だった。

 雪子が今日という日にこれを作るのは、さすがだなと思った。ソースの味とともに、この街で過ごした18年間がよみがえってくる。弁当がなかなか食べられなかった幼稚園のころから一緒の友人たちとも、もう毎日会うことはなくなる。ぎゅうぎゅうに机が並べられた教室も、ありきたりの学ランも、何も変わらないように見える街並みも、急に焼きそばのソース色に染まって、エモさを感じさせる。


 ブー、ブー、ブー!


 あと一口で食べ終わるというときに、スマホが鳴った。

 ラインなら2回きり、通話なら4回以上のバイブが鳴るはずだ。聞きなれない通知にすぐに画面を確認した。


 「笹木高志 様

 一般入試B型選抜結果のお知らせ…。」


 メールだった。それも、大学入試の合否連絡だ。正式には郵送で届くのだが、最近はこうやってメールでも通知が来る大学もあるようだ。第一志望の大学なだけに、少々緊張したが、このまま結果を確認することにした。

 おそるおそる、スクロールすると、結果が出てきた。


 「経済学部 経済学科 合格

  経済学部 国際経済学科 不合格

  経済学部 地域経済学科 合格」


 第一志望の経済学科に合格した。相当冒険した国際経済学科は落ちてしまったが、自信がなかった地域経済学科も合格している。

 よかった。これで決心がついた。

 カバンの中から、残りわずかのルーズリーフを一枚取り出した。

 最後の弁当、最後の一口を味わった。残っていたのは母さんが作った味の焼きそばだった。


 「ごちそうさまでした。母さん。俺、卒業するよ。」

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