3年ちょっとでゾンビになる
つかだあや
第1話 起きたので、顔を洗おう
朝起きたら顔を洗う。しもむらで買ったお気に入りのピンクのふわふわうさぎのスリッパがぬれないように、両足を少し開けながら腰を屈めて洗面台で洗う。洗顔ソープは使ったほうがいい派と朝はいらない派に分かれるらしいが、私は断然、洗顔ソープ派だ。思春期特有の、おでこと頬の赤ニキビが少しでも良くなるように祈りをこめて顔を洗う。
生活雑貨店で買ったこれまたお気に入りのピンクのふわふわタオルで顔を拭く。この毛足の長いタオル地が顔をおおう瞬間がたまらなく好きだ。気持ちいい。
感触を楽しんで、プハッと顔をあげる。まゆ毛の太い、切れ長の目が鏡に映る。肌の白さに、某清涼飲料水のCMに出ているモデルを思い浮かべて、ちょっとだけ得意げになる。
「いっ……」
顔をふいたタオルを持つ右手に衝撃が走った。かばうように左手で右手を押さえる。指先を見た。
「あー……」
右手の薬指の爪がはがれて、そこから黒い肉の塊がはみだしていた。ゾンビ化が進んでいるのだ。
「……しょうがない」
黒い肉の塊に帽子のようにちょこんと乗っている爪をつまみあげて、ゴミ箱にポイっと捨てる。昨日の夜、ドゥ・メイクのマニュキュアを塗ったばかりだけど、しかたない。うっすらピンクのラメ入りでキラキラ光ってきれいだったんだけど、しかたない。そう言い聞かせて、なごりおしげにティッシュと抜け毛が入ったゴミ箱の一番上に鎮座する右爪を見つめる。やっぱり、きれいだ。でも、しかたない。
「お母さん、包帯ある?」
洗面所から出て母を呼ぶ。返事はない。わかっていたことだ。でも、呼びたい。
リビングの棚から救急箱を見つける。その場で包帯を取りだすと、右手の薬指に巻いた。
「ふむ……」
我ながら意外ときれいに巻けた。これなら戸棚に指をはさんだくらいで押し通せるだろう。
リビングとつながったキッチンに立つお母さんを見た。お母さんは包丁で何かを剥いている。きっと、朝食用の果物だろう。お母さんはいつも果物をむいてくれる。この時期ならリンゴかな? 昨日、お店でたくさん売っているのを見た。リンゴはそんなに好きじゃない。でも、お母さんの気持ちがありがたい。
私はお母さんの隣に立つと、そっとその手から包丁をとった。コロコロコロッと、手からリンゴが流し台に転がり落ちる気がした。でも、気のせいだ。
「お母さん、もういいから。休もう」
私はお母さんの腰に手をそわせると、そのままリビングに誘導した。ソファに座らせると、リモコンでテレビをつける。
パッとテレビが点灯して、ニュースキャスターの男の人が現れた。画面に映る人間の姿に、私はひどく安心する。どうやら世界はまだ大丈夫みたいだ。
ニュースキャスターは落ち着いた声で、淡々と話す。
「本日のゾンビ病発病者数は全国で8792人。〇〇県では639人。依然、多い状況で……」
私は速攻テレビの電源を切った。気が落ち込むような暗いニュースばかりだ。お母さんの隣に座って、ため息をつく。お母さんの肩にそっと頭をもたれると、わずかに体がピクッと動いたような気がした。
「……」
私は立ちあがり、伸びをした。パジャマからお腹が見えて寒い。そろそろ冷える季節だ。
お母さんが買ってきたピンクのネコの腹巻をしよう。
「うわっ」
振り返ると、そこにお父さんが立っていた。
「なんだ、お父さん、急にそこに立ってないでよ」
私はドキドキする胸を押さえて、軽く笑う。
大丈夫。私は平気だ。
細胞壊死黒化病(通称ゾンビ病)が世界中に広がって、六年。依然、原因はわからない。ウイルスなのか、環境汚染なのか、はたまた神の鉄槌なのか、全てがわからないまま、人々は突然、黒い肉の塊に成り始めた。最初の内は、人類はいろんなことを試した。それこそ、薬を作ってみたり、手術したり、放射線をあててみたり、健康療法、デトックス、祈祷、実にさまざまなことを試した。だが、そんなことはなにひとつ無駄だった。原因がわからないまま、人々は肉の塊に成り果てる。ただ、ひとつわかっていることは、発症してから、成り果てるのには、早くて一年、遅くて三年かかるということだ。
この事態に、政府はベーシックインカム制度を取り入れた。国民一人当たり十五万、月々口座に振り込まれる。まるで、人類の終焉を、残りの余生を楽しめとでもいうかのように。
だが、そんなことは重要ではない。人々はもっとも大事なことに気づいた。それは、『食べ物』だ。輸出入が止まると、保存のきかない食べ物が真っ先になくなる。そのため、人々は苦心し始める。食べ物をいかに手に入れ、いかに作り出せるか。
人類の終焉の時、人々は『いかに食べるか』に腐心する。
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