第52話
「ありがとな、ユキの我儘聞いてくれて」
「それはいいが…なんで止めなかった」
胸を揉むにしろ風呂に入れるにしろ、止める手立てはあったはずだ、と言外に攻める
「過去の自分に折り合いをつけたいんだって言ってた。お前を好きだった過去の自分から、妹としてお前を好きな自分に変わるための決別式だって」
「…あえて止めなかったのか」
「ああ。いつまでも引き摺ってほしくないからな。お前を好きだったってのを聞いたのは先週の木曜日で、ちょっとお前を恨んだ。けど過去のことは仕方ないし、お前が手を出したことはないみたいだからいいやと思ったんだよ」
「決別のために胸を揉む意味はあったのか?」
「それは…確かめたかったんだ。まだ未練を持ってるかを」
「お前がいるのに?」
「人を一人しか好きになれないほど、人間の心は堅牢じゃない。二人好きになることもある。だからそれがないことを証明したい、ってさ」
「風呂については?」
「それが本当の決別式だ。妹として世話を焼いてもらって、過去に好きだった事実を文字通り水に流す。そしてこれからは、先輩の夫婦じゃなく兄夫婦に接するんだ、ってな」
「…戸籍上はどう頑張っても他人だ。遡り血の繋がりがわかったとて…」
「戸籍なんかどうでもいいんだ。戸籍上は他人でも心を通わせれば兄弟にもなれるし、戸籍上兄弟でも会わなくなることもある」
「それはそうだが…」
「だからユキが妹になるための、っていうからいいよっていったんだ。俺は今でも妹と風呂に入ることはあるし、今後もある。だからお前もたまにやってやってくれ」
「…今日だけじゃないのか」
「胸揉むのは今日だけだよ」
笑いながら煙を吐き出す
「浮気じゃないってわかってるしな。それならいいんだ」
「…そうかよ。風呂んなかでヤッてるかもしれねぇだろ」
「妹とすることもないわけじゃないだろ、知らんけど。まぁヤッたら殺すけど」
「…お前の許容範囲がわかんねぇよ。元カノのときは俺が会うのもだめだって言ってたのに」
「それは元カノのことを信用してなかったからだ。お前を信用してても、お前が襲われる可能性を捨ててなかった。今は違う」
「そうかぁ?」
「ユキはお前が本気で嫌がることはしない。だから襲わない。それに、あの子も浮気される辛さは知ってる」
「…へぇ。よく知ってんな」
この言葉は霊斗に向けられたものだ
夜斗が唯一、雪菜が落ち込んでるのを見たときの話だ
その理由は簡単だ
「浮気された上に、2個年上の男に売られかけてた雪菜のことを知ってるとはな」
「…教えてもらったんだよ、ユキに。襲われかけて、お前に助けられた。その時に惚れたんだ、って」
「………」
夜斗がまだ高校二年生になったばかりの頃の話だ
校舎裏で行われていた乱交パーティーに出くわした夜斗は、無理やり服を脱がされかけていた雪菜と目があった
明確に助けを求めていた雪菜を助けるため、一度は辞めた暴力を使ったのだ
それ以来は一度も、ただ暴虐のために力を使ったことはないが
「お前は危険を顧みなすぎる」
「…お前にまで言われたか」
「お前は人を頼れない」
「…まぁ、そうだな。人が傷つくくらいなら…」
「だからこそ、お前は弱くて強い。お前が傷ついて悲しむやつが、少なくとも3人もいたんだぞ当時」
「3人?」
「紗奈さん、俺、天音だ」
「お前も…天音も、か…?」
「ああ。今はもっと増えた。煉河も、弥生さんも、ユキもお前が傷つくことを許さない。二度と、お前が一人で死にかけるのは御免被りたいね」
吸い終えたタバコを屋外用の灰皿に入れて、もう一本火をつける
一服じゃねぇのかよ、という夜斗の小さな呟きはなかったことにされた
「傷つく、か」
「お前は自分の心の痛みに気づかない。いや、気づけないってのが正しいな。だから、周りの人が気づいて止めてやらなきゃならん」
「…そうかもな」
明確に自覚していた訳では無いが、多少意識していた事実だ
かつていじめられていた頃にも笑っていられるほど痛みに無頓着で、浮気されても笑顔でいた夜斗
一番近くで見ていた雪菜は勿論、一歩引いてみていた霊斗ですらも、心を病んだ
「ま、それがいいとこなのかもしれないけどな。だからユキも、かつて好きだったのかもしれない。けど嫁の元想い人について考察をしてやるほど酔狂な人間じゃねぇよ、俺は」
「…そうか」
「けど、嫁が兄として見るお前にあえて文句を言うなら、もっと人を頼れ」
「…そうするよ。可能な限り努力する」
「今はそれでいいや。ほら、弥生さん来たぞ」
目の前に車を止めて、窓越しに夜斗を見るのは無論弥生だ
中から夜斗を見つめるだけだ。「話があるなら続けて」と目が言っている
「すまんな。またくる」
「おう、ありがとな送ってくれて」
「おう」
夜斗が立ち去り、霊斗はため息をついた
久しぶりに感じるため息だ
「ユキ。満足したか?」
「そこまでやってとは言ってないけどね。けど、これで頼るようになるかな」
「さぁね。あいつの性格上すぐには無理だよ。けど、弥生さんに甘えるようにはなるんじゃないかな、とは思ってる」
「そうなるといいけど。霊くんも、頼られたら拒否しないでよ?」
「わかってる。頼っていたやつに頼られて拒否するほど薄情じゃないよ、俺は」
背後を振り返ることなく、夜斗を見送る
どうやら弥生はドアを少し開けて覗く雪菜に気づいたようだが、あえて言わないことにしたらしい
指を一本立てて雪菜に目を向けた
(貸しってこと、かな。どうやって返そう)
「ユキ?」
「なんでもない。寝よ、明日も仕事だし」
「そうだな」
霊斗は雪菜の肩を抱きながら家に戻っていった
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