勇気と智謀の少女オデュッセウス ~トロイア戦争を1ヶ月で終わらせる英雄~

山原くいな

第1話 絶世の美女ヘレナとその求婚者たち

~紀元のはるか以前、アカルナニア地方、ストラトスの街~


 アカルナニアの王、テュンダレオスの屋敷は英雄で溢れかえっていた。いずれもテュンダレオスの娘にして、ギリシア最高の美女とされるヘレナに求婚しに来た者だった。


 ヘレナの従兄弟である【鋼の意志】ペネロペウスは、求婚者ではなかったがテュンダレオスに呼ばれて屋敷を訪れた。求婚者も贈り物の数々もとても母屋には入り切らず、求婚者は祈祷所に、贈り物の財宝は外に山と積み上げられていた。


 祈祷所に入ったペネロペウスは英雄の多さ以上に、その異様な雰囲気に驚いた。どの英雄も表向きは和やかに談笑しているが、内実殺気に満ち溢れている。考えてみれば当然だった。求婚者はライバルなのだ。これだけ多くの英雄の内、結婚できるのは一人だけである。


 祈祷所の二階でペネロペウスはテュンダレオスに挨拶した。


「イカリオスの息子【鋼の意志】ペネロペウス参りました」


「ああ……ペネロペウスよく来てくれた……」


 テュンダレオスはひどく疲弊していた。まだ40過ぎのはずだが眉間には深く皺が刻まれている。ペネロペウスは知恵に欠ける欠点を自覚していたが、それでもテュンダレオスが何に悩んでいるかはわかった。求婚者の内、誰の所にヘレナを嫁がせるかで悩んでいるのだ。


 テュンダレオスは困りきった様子でペネロペウスに語った。


「一階の広間を見ただろう。誰か一人を選べば、他の求婚者達は黙っていないだろう。誰を選んでも恨みを買うし、争いになるかもしれない。何か良い知恵はないかとそなたを呼んだのだが……」


「贈り物の数で決めてはいかがでしょうか? 一番財力のある者であれば姉上も喜ぶでしょう」


「財力で言えばスパルタ王【天佑の王】メネラオス殿だろう。贈り物の数も一番だ。今日は兄の【王の中の王】アガメムノン殿が代理で来ておられるが……。」


 【王の中の王】アガメムノンはヘレナの姉であるクリュタイムネストラの夫だった。ギリシアに乱立する諸侯の中でも有力な一族である。ペネロペウスにはスパルタ王が婿に適任の様に思えたがテュンダレオスは言葉を続けた。


「しかし英雄は富より武勇を重んじる。財力や贈り物の数で決めれば腕に自慢のある英雄たちは納得がいかないだろう。アガメムノン殿はともかく弟のメネラオス殿は武勇に欠けるとの噂だ。今日この場に来ていないのも道理が行く」


 ペネロペウスは話せば話すほど、争いは避けられないように思えてきた。特に妙案も思いつかず、居心地が悪くなったペネロペウスは席を外しヘレナに挨拶に行った。


 ヘレナは祈祷所の二階にある「アテナの間」にこもっていた。扉をノックし呼びかける。


「姉上、ペネロペウスがご挨拶に参りました」


「入って下さい」


 ペネロペウスは扉を開け中に入った。部屋の中は女神アテナの石像が中央に立っている他はひどく簡素だった。ヘレナは部屋の奥の質素な椅子に腰掛けていた。ギリシア最高の美女とされるヘレナは憂いを含んだ瞳をペネロペウスに向ける。従兄弟で幼い頃からの知り合いであるペネロペウスもその美貌に息を呑んでしまった。


「よく来ましたねペネロペウス、貴方も求婚に来たのですか?」


「えっ……いや……」


 その言葉にペネロペウスは真っ赤になり言葉も返せずしどろもどろになった。ヘレナは妖艶に笑みを浮かべ


「本当に貴方は嘘をつけない正直者ですね。全く変わらないので安心しました」


 と愉快そうに笑った。


「姉上……この度は誠にめでたく……」


 そこまで言ってペネロペウスは言葉がつげなくなった。ヘレナに対する自身の好意が見透かされてしまい、恥ずかしさのあまりうつむいてしまう。その様子を見てヘレナは声を上げて笑う。恥ずかしい反面、ヘレナが楽しそうに笑う姿を見れたのはペネロペウスにとって幸福だった。


 そんなやり取りをしている内に外が騒がしくなった。何の騒ぎかとペネロペウスが外の様子をうかがうと、一人の背の低い人物が衛兵に押し留められていた。全身をローブに包み、フードを目深に被っているせいで顔は口元しか見えない。


「イタケーの王、ラエルテスの息子、【勇気と智謀の英雄】オデュッセウスが求婚の挨拶に参りました」


 声は少し高いがよく透き通り二階に響き渡った。ペネロペウスには「オデュッセウス」の名前に聞き覚えがあった。ギリシアの最果てイタケーの王にして、知恵者で有名、余りにも知恵が回るため「オデュッセウス(嫌われ者)」の名を名乗るようになった英雄だと。


 対応に出たテュンダレオスは迷惑そうに出迎えた。


「オデュッセウス殿、求婚者には一旦一階の広間で待つようにお願いしております。ヘレナに直接会うのは今少し控えられたい」


「テュンダレオス殿、それが恥ずかしい話ですが、私は父の遺言に従い求婚に参ったものの、広間にいるのは一騎当千の英雄たち。我が国は財力に乏しく大した贈り物もできませぬ。すっかり自信を無くし、どうせ選ばれぬならギリシア随一とされるヘレナ様の美貌をひと目見たいと参った次第です」


 話を聞いていたペネロペウスは呆れ返った。どうせ結婚できぬのならヘレナを見ようと言うのだ。その上大した贈り物もできないというから迷惑極まりない。テュンダレオスは嫌悪感を隠そうともせず


「そういうことでしたらお引取り願いたい。広間の求婚者たちを見たでしょう。いつ争いになるやもわかりませぬ。見たところ貴殿は体も小さく武芸の腕もたかが知れている。争いに巻き込まれれば命は無いでしょう」


 ペネロペウスは随分失礼な物言いだと思ったが、よくよく考えれば先に失礼を働いたのはオデュッセウスの方であった。しかしオデュッセウスは少しも気分を害した風でもなく


「ふむ……お暇したいのは山々ですが、様子を見たところ、テュンダレオス殿は婿選びに難儀しておられるのではないですか? あの求婚者たちを見る限り、誰を選んでも事は上手く行きますまい。英雄たちが殺し合うのは言わずもがな、テュンダレオス殿も恨みを買うやも知れませぬ」


 ペネロペウスはオデュッセウスの言葉に驚いた。こちらがずっと気にしていたことを1から10まで言い当てたのだ。オデュッセウスは更に言葉を続けた。


「私は不肖【勇気と智謀の英雄】の二つ名を名乗る者。もしよろしければこの場を上手く収める妙案を一つ出しましょう」


「……妙案とは是非お聞きしたいものだが」


「条件がございます。此の度の求婚者たちから贈られた財宝の数々、その半分を頂きたい。呑んでいただければ妙案を授けます。もちろん上手くいかなければ財宝は頂きませぬ。ペネロペウス殿!」


 いきなりオデュッセウスに名前を呼ばれたペネロペウスは驚きながらも前に出た。


「【鋼の意志】と名高いペネロペウス殿は正直を絵に書いたような好人物と聞きます。この誓いの証人となっていただきたい。私がこの婿選びを上手く収められたならば財宝の半分を頂く。もちろん失敗し、求婚者たちが争ったり、テュンダレオス殿が恨みを買って襲われるようなことがあれば、財宝はいりませぬ」


 ペネロペウスはテュンダレオスを見てそれで良いか視線を送った。テュンダレオスは元々金に困っていないし、もし上手く場が収まるのならば贈り物の半分を渡すのはやぶさかではないだろう。ペネロペウスは頑固な正直者であったから証人となったならば反故にはできない。


 テュンダレオスは少し考えて小さく頷いた。その様子を見てペネロペウスは高らかに叫ぶ。


「良いでしょう! この【鋼の意志】ペネロペウスがお二人の証人となります。オデュッセウス殿、妙案をどうか授けてください」


 オデュッセウスはフードから見える口元を微笑ませ、テュンダレオスにそっと耳打ちした。聞いたテュンダレオスは目を丸くし「なるほど……」と呟いた。オデュッセウスはローブを翻して祈祷所の二階にある「祭祀の壇上」に立った。「祭祀の壇上」は儀式に際し人々に説教する神官が立つ場所で一階の広間を見下ろすことができる。


「英雄たちよ! 我が名はイタケー王ラエルテスの息子【勇気と智謀の英雄】オデュッセウス! 此の度身もわきまえずヘレナ殿に求婚に参った!」


 ペネロペウスはオデュッセウスが英雄たちに呼びかける様子を近くで見ていた。一階の広間に集まった英雄たちの視線はオデュッセウスに集まっている。とても好意的な風には見えない。だがオデュッセウスは構わず呼びかけ続けた。


「ギリシアの英雄がこれほど一同に介する機会もあるまい。だからこそこの場で言わせてもらおう。我がギリシア民族は主神ゼウス様の加護を受けこのギリシアの土地を代々守ってきた。だが東にはトロイア王国、地中海にはミュケナイ人が我らの土地を脅かす。我々はこの侵略に力を合わせて立ち向かわねばならぬ」


 話がヘレナへの求婚からそれてくると、英雄の中からはオデュッセウスの呼びかけに「そうだそうだ!」と同調する者が現れ始めた。オデュッセウスの言葉はギリシア人が大事にする名誉心や功名心に訴えるように感情を帯び始めた。


「この場に集った英雄たちは同じ気持ちだろう。しかし皆が求婚を呼びかけているヘレナ殿はギリシア最高の美貌にして、異民族にもその美貌は知れ渡っている。この内に誰が結婚できるかはわからないが、恐らく異教の蛮族共もこのヘレナ殿を奪わんとその機会を狙っている」


「そんなの許せるか!」

「蛮族共にヘパイトスの鉄槌を!」

「ヘレナ殿は我々が守るのだ!」


「そうだ! ヘレナ殿は我々が守らなければならない。ここに集まった求婚者達はみなヘレナ殿の幸福を願っている。そこで私は皆と誓いを立てようと思う」


 そう叫んだオデュッセウスは短剣を取り出すと手のひらに浅く突き刺した。血が滴り落ち神殿の大理石の上に滲んだ。


「もしヘレナ殿とその婚約者を引き裂く者が現れたならば、私は黙っていない! この神殿は私の血を吸った。この血盟に従い、私はヘレナ殿とその婚約者殿を命を賭けて守る! 賛同してくれる英雄はこの神殿に血を刻んでくれ!」


 広間には英雄たちの歓声が響き渡った。みな次々に腕に剣を刺し血を流している。知恵の回らないペネロペウスにもオデュッセウスの意図がわかった。英雄たちはヘレナとその婚約者を守る血盟を結んだのだ。これでもしヘレナが他の英雄と結婚したとして文句を言うことはできない。名誉を重んじるギリシアの英雄にそんなことはできない。


 オデュッセウスは英雄たちの様子を見て満足そうにうなずくとテュンダレオスの元で二、三話した後、すぐにいなくなってしまった。テュンダレオスはオデュッセウスの策があまりにもうまくいったので大いに喜んだ。


 その後ヘレナの婚約者にはスパルタ王【天佑の王】メネラオスが選ばれた。ペネロペウスはその場で行われた婚約の儀に参加しヘレナに祝いの言葉を述べた。争いに至らずに済んだことに安心したのか、ヘレナの憂いを含んだ表情もいくらか柔らかくなっていた。


 ペネロペウスは安心してストラトスの街を離れた。帰りの船の中、ペネロペウスは自身の腕に残った血盟のための傷を見てオデュッセウスを思い出した。武勇を重んじるペネロペウスであったが、オデュッセウスのその知略を目の当たりにして、まさに【勇気と智謀の英雄】の名に恥じない男だと思った。ペネロペウスはオデュッセウスに尊敬の念を深くした。





 安定は長く続かなかった。ヘレナは三年後、トロイア王国の王子パリスに誘拐されてしまう。ギリシアの英雄たちは血盟に従い、トロイアとの血みどろの戦い「トロイア戦争」に赴くことになる。ペネロペウスも、メネラオスも、アガメムノンも、そして血盟の首謀者であるオデュッセウスも……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る