たとえばわたしの魂が、きみの夢で生きるなら

一澄けい

ワンルームにはおもいでがいっぱい

誰かに呼ばれたような、そんな気がして、私の意識はふわりと浮上した。

視界の先には、燃えるように真っ赤な、夕焼けが広がっている。まるで血液のようにも見える、どこか不穏な空の色を背景に、よく見知った少女が、私に背を向けて立っていた。


「クチナシ」


静かに、私は少女の名を呼ぶ。幼い頃から何度も呼んで、もう、とっくに呼び慣れてしまった幼馴染の名前だ。いつも私が名前を呼ぶと、嬉しそうに振り向いて駆け寄ってくる。まるで子犬のように人懐こく、朗らかなのが、そのクチナシという名前の幼馴染なのだ。

だけど、今日は違った。少女はいつものように、私の声に反応して、くるりと振り向いて。

しかし、それだけだった。

少女は、クチナシは、寂しそうな笑顔を浮かべて、ただその場に佇んでいる。いつものように、駆け寄って来ることも、嬉しそうな、笑顔を浮かべることもなく。

「クチナシ……?」

私はなんだか不安になって、もう一度、彼女の名前を呼んだ。しかし彼女はなんにも言わないまま、私を見つめるばかりだ。

「———」

クチナシが、何かを言ったような気がした。だけど、何を言ったのかが分からない。まるで見えない壁があるみたいに、彼女の声は何一つ、呼吸の音さえも、私の耳には届かなかった。

何を言ってるのか、分からないよ。そう言おうとした、その時だ。

びゅう、と、強い風が吹いた。その風に驚いて、私は思わず目を瞑る。


そして、再び目を見開いた時。少女の、クチナシの姿は、私の目の前から忽然と消えていた。

慌てて、辺りをきょろきょろと見渡す。そこで初めて、私は、自分が見知らぬ学校の屋上のようなところに居ることに気がついた。

私は吸い寄せられるかのように、フラフラと、転落防止のフェンスの側まで近づく。

そしてそこから下を見下ろして、そして、後悔した。

眼下に広がる地面には—幼馴染が、見るも無惨な姿となって倒れ伏していて。


そして私は、いつもそこで、夢から覚めるのだ。



「いやああああああ!!」

目が覚めて真っ先に耳に届いたのは、空気を切り裂かんばかりの、まるでサイレンのような自分の叫び声だった。

がばり、と薄い毛布を跳ね除けるようにして身を起こす。床で寝てばかりの身体が、ギシギシと嫌な音を立てて軋んでいるような心地がするが、そんなもの、ばくばくと、まるで飛び出んばかりに暴れる心臓を前にすれば、どうってことはなかった。

はあ、と、震える息を吐いて、無理矢理に心臓を落ち着かせようとする。しかし、その程度で、暴れるように鼓動する心臓が落ち着くわけがない。

だって、あの夢の中の光景は、きっと現実に、起こったことなのだから。


幼馴染の少女—クチナシが死んだのは、中学に進学して暫く経った、初夏の頃だった。

クチナシの通っていた学校の通路に血塗れで倒れていたところを、用務員さんが発見したらしい。死因は、屋上からの転落死。一時は、他殺の線も考慮して捜査が進められていたそうだが、現場の状況から自殺の線が濃厚だという結論に至り、捜査は打ち切られたそうだ。

らしい、というのは、私はそれらの事実を、テレビのニュース越しにしか、知る由がなかったからだ。

私は、なんにも知らなかった。彼女のことを。彼女が自殺を選んでしまうほどの、悩みを抱えていたことも。

中学に進学して、地元の市立中学へ入学した私とは違って、クチナシは、名門の私立へ入学した。進学先が分かれてしまった私たちは、クチナシの進学先が全寮制だったことも相俟って、疎遠になっていった。

中学に進学するまでは、あんなにも毎日、一緒にいたにも関わらず。

だけどそれが、彼女をこんなに追い詰めて、一人でこんな決断に至らせる理由にはならない。なってはならなかったのに。

彼女を一人で苦しめてしまった。その後悔は足枷のように、未だ私を縛り続けている。

例えば、毎日のように見る夢。彼女が死ぬ瞬間を、まざまざと見せつけられる悪夢。

彼女を助けられないことが確約された悍ましい夢を、私は、彼女が死んだあの日から、毎日のように見続けている。

まるで彼女が、私を許さないと言っているかのように。

彼女は、私を恨んでいるのだろうか。きっと、恨んでいるのだろうな。たった一人の大切なあなたを、助けることさえしなかった私のことを。

あなたが苦しんでいる間、のうのうと楽しく生きていた、私のことを。

だからせめて、ほんの少しでも、罪滅ぼしをしたいのだ。

その為だけに、今日も私は、息をしている。

「おはよう、クチナシ」

私は壁一面に貼られた、クチナシの写真をそっと撫でた。

笑顔のクチナシ。泣いているクチナシ。拗ねているクチナシ。

クチナシが気に入っていたお洋服。クチナシが好きだったぬいぐるみ。

この部屋には、沢山のクチナシの面影が眠っている。

クチナシが死んでから、数年が過ぎた。きっと外の世界には、もう、クチナシのことを覚えている人なんて、片手で数えるくらいしか居ないだろう。

だから私が、あなたのことを覚えていなくちゃ。クチナシを二度死なせないように。

例えあなたに恨まれたって、悪夢に魘される毎日が続いたって。それでも私は、あなたを忘れずにいたいのだ。

思い出は風化していく。あんなにも鮮明に憶えていたはずのあなたの声だって、最近はめっきり、思い出せなくなってしまった。

これがあなたへの罪滅ぼしなのか、今はもうそれさえ、分からなくなっている。

「……ばかだなあ、わたし」

こんなことをして、何になるっていうんだろう。罪滅ぼしをしたところで、クチナシはもう、何処にもいないのに。

だからきっとこれは、私のエゴだ。罪滅ぼしという言い訳に、後悔という言い訳のその内側に、丁重に何重にも包み隠した、私の執着の塊だ。

私がただ、あなたを忘れられないだけ。

私がただ、あなたの居ない世界で、生きていけるほど強くないだけ。

だからこそ、今日も、私は。

あなたの面影に包まれたこの部屋で、あなたの幻覚に縋りながら、みっともなく生きていくことしかできないのだ。




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