噂の君は
新学期――中学二年生の春。教室に行くと、昨年度も同じクラスだった子達と初めて顔を合わせる子達が半々くらいの割合でいた。
窓から二列目。後ろから二番目の席に、
少し目にかかる長い前髪。頬杖をついたまま口を少しへの字にしながら速水君は本を読んでいた。
「声、掛けてみようかな」
と歩み寄ろうとした時、
「華弥! 今年も同じクラスだね!」
昨年度も同じクラスだった女の子に声をかけられ、速水君の元へ辿り着くことはできなかった。
彼とは一年同じクラスなんだし、また機会はあるか――
と今回は速水君のことを諦め、今年度のクラスの空気作りに専念することにした。
嘘の彌富華弥をクラスメイトに売り込むことは、私が学園生活を送るうえで大切ことなのだ。
たとえそれが、つらく苦しくても。
そして、まんまと嘘の私を受け入れたクラスメイトたちから、速水君の過去を仕入れることに成功した。
意外にも小学生の時はもっと社交的だったとか、友人の喧嘩に油を注ぐようなひどい奴だったとかそういう話。
その話を聞いて、彼にも裏の性格があり、何かのきっかけで裏が表側に出てしまったということなのだろうか、と思った。
だがそれは、あくまで私の憶測に過ぎない。
もしも噂通りの酷い人間なのであれば、彼を紗月に近づけるわけにはいかない。
けれど百聞は一見に如かずというし、その情報通りの人間かどうかは、私のこの目で確かめよう。他人は信用出来ないのだから。
それから速水君に対してなにか行動を起こすことなく、気がつけば二ヶ月も経過していた。
窓の外には雨粒のアクセサリーで着飾った紫陽花が顔を出し、連日続いている鈍色の空は『この場所こそが我の居場所だ』と言わんばかりに、そこから移動するつもりがないように見える。
「なにそれ、マジウケるんだけど!」
手を叩きながらバカ笑いをする女の子の声でハッとした。
そうだ。私は教室にいるんだった。
「ひでぇなあ。彌富、慰めてくれよー」
腕で顔を覆い、泣いたふりをしながら男の子はそう言った。
「もう。よしよし」
私は作り笑いをして、泣いたふりの男の子を慰める。
この男の子、なんて名前だっけ?
とふと思う。けれど、どうでもいい人にいちいち名前を確認するのは少し面倒だ――というのは建前だったりする。
本当は自分を売り込むことに懸命になりすぎて、その相手の顔と名前までを覚えられないというのが真実なのだ。
身体を動かすのは得意なのだけれど、頭を使うのはからっきし。つまり、物覚えが悪いのである。
「彌富は本当に優しいよなあ」
「もーう華弥ちゃん、みんなに甘すぎだよー」
「そう、かな?」と苦笑い。
私がそんな返しをしても、特に気にかけることもなく、彼女たちは自分たちの会話に興じていた。
この子も誰だっけ? よくある苗字だってことだけは覚えているけれど。まあ、いいか。
こんな調子でもクラスメイトと表面上は良好な関係を築けているから、不思議だなと自分でも思う。
教室では生徒たちが仲良しグループで固まって、それぞれの休み時間を過ごしている。
しかし私は、仲良しでもなんでもないグループの中で愛想笑いを浮かべつつ、適当に相槌を打っているのだ。嘘の仮面は今日も健在である。
本当に疲れる。ため息を吐きたくなる思いをこらえ、私は笑みをひくつかせながらも必死にそれを保った。
それから話に参加することが面倒になってきたあたりで、私は視線を話しているクラスメイトから外す。そして、その視線を彼に注いだ。
速水君と同じクラスになってもう二ヶ月。こうしてふとした時に、彼を観察することが私の癖になっていた。
速水君は今日も一人でつまらなさそうに読書をしている。前髪は最近切ったようで、目にはかかっていない。
「移動授業の時も一人だし、体育のペア競技は誰とも組まずに先生と……そこまで孤独を貫く姿勢もなかなかすごいよね」
誰にともなく私は小さな声で呟いていた。
そんなに人と関わらないのに、どうして紗月のことを助けたんだろう。やっぱり紗月が可愛いからなのかな。男の子なんて、みんな女の子の身体のことしか考えていないのかな――
そして速水君への不信感が募り始めていたある日のこと。学校に行く途中で速水君を見つけた。
彼はいつものように孤独だったけれど、そんなことは気にもせず、学校に向かって歩いているようだった。
「なんで私、こんなにコソコソしてるんだろう」
いつもの私――嘘の仮面をつけた私なら、誰とでも仲良くなれるはずなのに。
でも、なんだか彼にはそれが通用しないような気がした。
いや。そうであって欲しいと願っているだけなのかもしれない。
彼が私と同じで、何かを抱えていると思いたいだけなのかもしれない。
信号に差し掛かった時。彼の前を歩いていたお婆さんが集団でいた女子中学生の一人の腕がぶつかり、派手に転倒した。
ハッとした私は駆け寄ろうとすると、それよりも早く速水君がお婆さんをおこして、集団でいる女子中学生たちへ怒りながら何かを訴えていた。
「はあ? このババアが勝手にぶつかったんでしょ? うちらがとやかく言われる筋合いなんてないんだけどー」
「こんなところで固まっていたら、この人だけじゃなく他の人にも迷惑だろ! 周りを見てみろよ!」
女子中学生たちは周囲をキョロキョロすると、自分たちに冷たい視線が飛んでいることに気付き、ばつが悪そうに歩いていった。
「悪いねえ」
とお婆さんは申し訳なさそうな顔をして速水君に言う。
すると速水君は首を横に振った。
「僕のことはいいんです。それよりも、病院に――」
「そこまでしなくても大丈夫よぉ。あなたも学校に遅れちゃうから、早く行きなさいな」
お婆さんがそう言って微笑むと、
「わかりました。でも、どこか痛みがあったらちゃんと病院に行ってくださいね」
速水君は少しホッとしたような顔で答えた。
「わかったわあ。本当にありがとうねえ」
お婆さんは笑顔でそう言ってから、ゆっくりと歩いていく。
速水君はお婆さんが見えなくなるまで、心配そうにその背中を見つめ、それから歩き出したのだった。
「確かに。あんな彼なら、目の前で起こる悪事を許しておけないって思うのかもね」
もしかしたら、私のことも彼は救ってくれるかもしれない――そんな『希望』をほんの少しだけ、私は抱く。
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