春
アネモネの季節
「
母さんの明るいアルトボイスが家の中に響き渡った。
洗面所で歯磨きをしていた僕は、のんびりと手を動かしながら「はーい」と声を上げる。
リビングの方からバタバタとせわしなく聞こえる母さんの足音。その音に、水やりする暇もないほどに切羽詰まっているのだろうということがわかる。きっと今夜も遅いに違いない。
そんな忙しない母さんの趣味はガーデニングだ。と言っても、育てているのはアネモネという花だけなのだが。
アネモネはキンポウゲ科のイチリンソウ属で、別名は
僕が幼いころから、母さんは毎年秋に欠かさずアネモネの球根を買ってきて、家の花壇に植えている。
どうやら父さんからプロポーズの時に紅白のアネモネの花束をもらったことが、アネモネへの過剰な愛のきっかけになったらしい。
バラの花ではなく、アネモネというところが父さんらしいと思った。少しずれているというか、変にロマンチストというか。
歯磨きを終えると、リビングの横にある客間へ向かい、裏庭に続いている大窓を開けた。
顔を上げると、絵の具で塗ったような青色が空のキャンパスいっぱいに広がっているのがわかる。
「良い天気だなあ。こんなに暖かいと昼寝したくなっちゃうな」
両手を上げて、降り注ぐ太陽光を身体全体に浴びる。そんな春の日差しは、柔らかく暖かい。
「あ、こんなことしてる場合じゃないか」
窓の下に置いてある庭用サンダルを足にひっかけて、僕は目の前にある花壇まで歩を進めた。
一メートル×五メートル四方で石の枠で囲われた花壇。
仕事で家に帰らない日も多い母さんの代わりに、この季節はいつも僕がアネモネたちの世話をしている。
「今年もきれいに咲いてくれたなあ」
それから花壇脇にある蛇口で先端にシャワーノズルの付いたホースを手に取り、蛇口をひねって花壇のアネモネたちに雨を降らすように水をかけた。
ガーデニングは母さんの趣味でもあるけれど、アネモネの花は僕も好きだ。毎年見ていて愛着があるというのもそうだが、こうしてあまり会話をする機会のない母さんとの繋がりを感じることができるからである。
僕の両親はアニメ制作会社に勤めており、日々激務に追われている。締め切りが近いと、会社に泊まり込みになることが多くなるのだ。
母さんと違って、ほとんど会社で過ごしている父さんとはあまり話す機会はないのだが、もちろん父さんとも良好な関係である。
「正直! そろそろ出るわね!」
「はーい」
「今夜も遅いから、ごめんけど夜は外で済ませておいて」
母はリビングの窓から顔を出し、両手を顔の前で合わせながら僕にそう言った。
「わかった。そんなに気にしないでよ。二人が忙しいのは分かってるつもりだからさ。良い作品、つくってきてよ」
「もちろんよ! じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
母さんを送り出し、花壇の水やりを終えた僕は、玄関にあるスクールバッグを手に持って家を出た。
四月――アネモネが綺麗に咲く季節。
今日から新学期が始まるのであるのだ。
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