釣瓶落としの後始末
湊咍人
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「酷いこと、しちゃったな」
ほんの少しのすれ違いであった。互いに言葉が足らず、真意に届く前に霧散してしまった。
一年以上も同棲生活を続けている彼の言葉は、あまりにも正当で無意味なものであった。昔から私は体が弱かった。それ故、私にとっては致命的で、他の人にとっては普遍的な症状に気付くことができた。
できてしまった。
病状は初期状態。治療費も保険から下りる。完全寛解する可能性も十分にあった。
何より、これ以上彼に心労をかけたくなかった。だから伝えなかった。
そして、事態は最悪の展開を迎えた。
想像を遥かに超える速度で進む転移と、雨後の筍の如く姿を現す合併症。
幼少期より痛めつけられてきた体は、いとも容易く病魔に屈した。
「だって───言えないよ......」
体調を崩す度に、甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれた彼の姿を思い出す。
支えあう、だなんて綺麗ごとを口にすることすら憚られる私に微笑みかけて、「僕も君に支えられているんだよ」だなんて言って。
そう言って、頭を優しく撫でてくれる関係性に浸り甘えていた。
死ぬことは怖い。でも、彼と死に別れることは死ぬよりつらい。
死んでもいいから、彼と共に居たかった。
「───っ!!」
涙で歪んだ視界を、激しい頭痛が押しつぶした。平衡感覚は眩暈によってミキサーにかけられ、体を支える筋肉は虚脱感により内部からくりぬかれた。
頭痛にも、眩暈にも、虚脱感にも慣れていた。それらの苦痛が一度に押し寄せようと、階段の手すりに掴まってもたれかかる事ぐらいはできた。
ただ、溢れ出した涙が私へと牙をむいた。お前には涙を流す権利などないとでも言うように。
手すりを掴もうと伸ばした手は、虚しく空を切った。左腕に掛けるはずの体重は行き場を失い、私の重心を手すりの外側に移動させた。
原因は何だろう。
ここ最近頻発していた体調不良が同時に発生したことか。しゃがみ込む前に手すりに体重を掛けようとしたことか。
私の身長が成人女性の平均を大きく上回っていたことか。デザイン性を重視し、手すりがあえて低く作られていたことか。
そのどれもが、ある側面を捉えて居るに過ぎない。本質はそこではない。
ただ、運が悪かったのだ。大洋で複数の波が重なり合うように、私は世界のうねりに殺されるのだ。
そこに、私は不思議なほど安心させられていた。
「遺書、書いててよかったな」
昨日書き終えた遺書は、どこに置くべきか迷った結果として机の上に置いてある。私物も殆どが処分済みで、彼と両親に大きな負担をかけることはないだろう。
まるで投身自殺でもしたみたいと、本物の浮遊感に包まれながらふと思った。数秒後に訪れる死をずっと恐れていたはずなのに、今の私は妙な感慨すら抱いていた。
それでも、願わくば。
左手に輝く指輪が、右手に移る時を───
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