かくして私はドレスを着る
夢も見ないような眠りの後、メイドがおっかなびっくり持ってきた湯で顔を洗い、次いで体を拭いた。
何日も汗や泥を浴びた肌は随分と汚れていて、メイドは持ってきた湯桶のお湯が真っ黒になってしまったのを見てびっくりしていた。
「酷い汗ね」
「は、はい・・・・・・」
「朝食の後、湯浴みがしたいわ。準備しておいてちょうだいな」
「わ、わかりました、お嬢様・・・・・・その」
「なぁに?」
このメイドは近郊の村から奉公に来ている娘で、よく働いてくれるいい子だわ。頭の巡りも悪くない。だから次の質問を、私はよく噛んで聞いた。
「お嬢様は・・・・・・今まで、どこへ・・・・・・その・・・・・・」
口に出して、しまった、というような顔をしているメイドに、私はにっこりと微笑んで答えた。
「ちょっとしたお出かけだったのよ。気にしちゃいけないわ・・・・・・さ、今日の着替えを出して?」
見かけた使用人や奉公人たちが、揃いも揃って幽霊でも見ているような目で私を見ていた。
きっと彼らの中では、私は
朝食に出された焼きたてのパンとアツアツのベーコン、滋味たっぷりのスープをいただいた。はちきれるほど胃の中に詰め込みたい気持ちはぐっとこらえ、程々に口に運ばなければいけないわ。父がいれば、ここにライスのポリッジと塩味のきついピクルスが加えられるはずだ。
「お父様はお見えにならないの?」
「だ、旦那様は、昨日から他所へお出かけに・・・・・・まだお帰りではありません」
給仕する使用人は口ごもりながら答える。私は「そう」と、興味なさげに答えた。
食後、湯浴みをして肌の隅々に残る汚れをしっかり落とし、手ずから聖霊銀のリボンを洗った。これに私は大層救われた。織り目の煌めきに今は亡き母、そしてニンジャとして私を鍛えたアヤメの面影を見て、私はリボンに頬を寄せた。
・・・・・・湯浴みから出て着替え終えた頃、外が騒がしくなっていたので窓から外を見ると、供の者をつれた馬上姿の父が見えた。
私は部屋を出てエントランスへ下りた。そこには強弓を腋に挟んで、片手に野鳥を二羽掴んでいる父が、朗らかに笑って立っていた。
「おお、帰っていたか、ウラーラ。ただいま」
「はい。お帰りなさいませ、お父様」
なんて事のない親子の会話だった。私の冒険なんて、はじめから何もなかったかのようだったわ。
昼食の前に、野外服から屋内服に着替えた父に呼ばれ、彼の部屋に入った。
父スプリングガルド候の部屋は武功で立身した異邦人らしく仕上がっている、と言っていいでしょう。すなわち、武勲を立てた記念を記した武具が飾られていて、所々にノーランドー風ではない調度として、丈の長い草を編んで作ったマットが敷かれている。
「食事の足しにしてやろうと獲物を探し回って、結局は鳥が二羽だけとは、俺の腕も鈍ったものだ」
「あら、親子二人の食卓には十分ですわ。それでも、アンリ殿下が行幸された折りにはもっと立派な物を用意欲しいですけれど」
「ふむ。そのアンリ殿下だが」
不意に父の放つ空気が変わり、怜悧な眼差しが私を射抜く。
「実はお前がいなくなったのと時を同じくして、大公家からアンリ殿下も逐電されたと連絡があってね。今頃は大公家の家来たちがノーランドー中を探し回っていることだろう」
「まぁ、そのようなことが」
私が感情の振幅を膨らませる「発心」をとりながら、さも初めて聞いた凶事に悲しみ深く嘆いて見せると、父は口の端を吊るように薄く笑った。
「・・・・・・白々しいぞ。ウラーラ。どこまで知っている」
救国の英雄、野山を駆け抜け敵を狩る天才たる父は、机の上に手を組んで顎を乗せた。
「お前を都へ送り出した日に、早馬で大公家の使いが知らせてきた。貴家の紋章をつけた馬車が襲われ、息女が行方知れずになっていると。御者も馬車も手つかず、ただし中に乗せた娘だけがいなくなった格好で帰ってきたのがその日の夜だ」
「それでは供の者たちは無事に帰ってこられたのですね。よかった」
「よくはないぞ。御者はお前を守れなかったと悔やみ、禄に飯も食わず引きこもっているし、その時に使った馬はよほど怖い思いをしたのか今でも大人しくならない。何よりその後、肝心の大公令息殿下まで行方知れずになったと聞かされ、こちらは上へ下への大騒ぎだ」
「その割には、悠々と狩りになど出かけられていたようですが」
「あんなものは方便さ。ちょいと身軽な手勢だけで、領国の境を歩き回って、そのついでに森や廃墟に潜伏する
「なるほど。それではほどなく、大公家から殿下発見の報が届くでしょうね」
嬉しいことだわ、と私は微笑む。
「まるで見てきたかのようだな。・・・・・・なぁウラーラ。お前にアヤメを仕えさせ、身を守る術を身につけさせようとしたのは確かだが、それは何も一人で荒事を解決させるためじゃないんだよ?」
「あら。お父様は私がなにがしかの事件を解決したとお思いですの?」
「したんだろう? 見たら分かるよ」
ニヤッと笑って父は言った。
「まぁ、なんとなくそうだろう、という直観は、あった。虫の知らせという奴だな・・・・・・それでも、何もせぬと言うわけにはいかないから、ああして破落戸狩りをしていたってわけだ。領主なんてなるものじゃないな」
ジャーダイ女伯爵が聞いたら火を噴いて怒り狂いそうなことを言って、私の父、かつて流浪の異邦人だった侯爵は、机の引き出し口から小箱を取り出して、私に手渡してくれた。
「開けてみなさい」
「はい。・・・・・・まぁ、これは・・・・・・リボンですね」
「ああ。それも聖霊銀を織り込んである。お前の母が遺してくれたものと同じようにね」
小箱の中には丁寧に畳まれた一本のリボンが入っていた。父が言うように、目を凝らして見ればその織り目には聖霊銀の糸が織り込まれた事による不思議な光沢が認められた。
「同じような物を探すのに苦労したよ。持って行きなさい。見綺麗な姿で大公令息に写し取ってもらうためにね」
「はい。でも・・・・・・」
私は小箱からリボンを取り出し、髪を纏めている形見のリボン、此度の冒険行で幾度も助けてくれたリボンと見比べる。織り目、柄ともに甲乙付けがたい、見事な二本のリボンだわ。
私はそれを髪の右房に一本、左房に一本結ぶ。長く垂らした帯目が肩に掛かって、自分にも他者にも目を楽しませてくれるでしょう。
「こうすれば、より一層よく見えると思いますわ。ね?」
「・・・・・・なるほど。そうするか」
ちょっと困ったな、といった目で、しかし笑いながら父は言ってくれた。
つまり、父はこの新しいリボンを与えるから、今後は危険な真似はするなよ、と仰ったわけね。でも、私はそうするつもりはないわ、と示した。
生みの母、そして育ての母と呼べるアヤメの与えてくれたものも、父の示してくれる愛情や信念も、どちらの私のもの。
きっと私は、これからも何か危機があれば、養った意志と技で自分や大切な人や物をまもるでしょう。
「まったく、お転婆娘め。令息殿下に愛想尽かされても知らないぞ」
「あら、そんなことはありませんわ。ええ、ありませんとも!」
背中に負った、あのアンリ殿下の温もりを思い出して、私は力強く答えるのでした。
そして、それから暫く経ち。
私は大公家所有のタウンハウスに招かれ、アンリ殿下が筆を走らせているキャンバスの前に座っていた。
アンリ殿下の眼差しは、優美さの中に鋭さが加わってとても素敵だった。時折、モデルを務める私の所作が変わっていないかと観察する目つきにドキッとする。私の中の秘密まで見通されてしまうかも・・・・・・なんて思ってしまう。
ユーガ団長によって発見されたアンリ殿下は、そのまま大公家の元へ送られて療養された。御殿医の見事な腕前によって体力を回復した殿下は、今は血色もよく、こうして長い時間絵筆を握っていられるほどになった。
伝え聞くところでは、やはりジャーダイ女伯爵は殿下誘拐を企図した罪で牢獄へ送られる運びとなったようだ。
また、ジャーダイ家お抱えの教師、ルオキーノの私物から邪神の信徒であることを示すメダリオンが見つかったらしく、一連の事件が邪神信徒の残党による企みであったことが認められた。ジャーダイ家は廃絶とされ、マリンカ・ジャーダイは監獄に繋がれる沙汰となったけれど、貴人待遇ではあるらしい。すなわち、広い部屋、十分な衣食住、獄内の内庭での散策の自由、外部へ連絡する手紙の検閲を受けること、等々。
犯した罪を思えば同情はしない。惨い扱いを受けているとは言えないわ。
ジャーダイ伯領はそのまま没収され、やはり大公家所領となった。おそらく、諸々の手続きを経てゆくゆくはアンリ殿下の所領となるのではないか、と噂されているわ。
世間から見れば、民草に優しく心篤い大公令息は利己的な理由から誘拐された、哀れな被害者なわけで、その心身の賠償として加害者の財産を召し与える裁定は異様な事とは思われないでしょう。「・・・・・・うん。動いていいよ、ウラーラ」
「はい。・・・・・・はぁ」
「ふふ、そんなに緊張しなくてもいいのに。モデルになるのも今日が初めてじゃないだろう?」
「あら、酷いわ殿下。乙女をあれほど凝視しておいてそんな物言い、悲しいことを仰らないで」
「い、いやぁ、これは芸術のためだよ。そんなやましい気持ちで見ているわけじゃ・・・・・・」
「まぁ、それじゃ殿下は私に魅力がないというのですね。いつも私、殿下に会うときは身も心も丹誠込めて磨き込み、胸をときめかせておりますのに・・・・・・」
胸をこみ上げる衝動に肌の下が震え、瞼に滴が浮かぶのを、ハンカチのレースで押さえる。
アンリ殿下はそんな私を見て立ち上がり、私の肩に手を置いた。
「さぁおいでウラーラ。まだ完成とは言えないけど、十分君の魅力が写し取れているはずだよ」
殿下に促され、私はイーゼルの前に立った。まだ筆の跡も乾ききらない肖像画がそこにあった。
間違い間違いなくそれは私、ウラーラ・スプリングガルドの今を写し取ったものだ。赤銅色の髪に結ばれた二柄のリボンの彩り、それと対照するドレス、そして、私の表情も。まるで鏡で見るように、見事な筆致で描かれていた。
「完成した暁には、スプリングガルド候にお贈りしたいと思っている。君と結婚した後も、寂しくならないように」
「・・・・・・素敵なお考えだと思いますわ。父も喜ぶことでしょう」
自分に置かれた彼の手に自分の手を重ねる。温もりが伝わり、ぼんやりと幸福な気持ちがひろがってうっとりしてしまう。
「・・・・・・おっと。いけない、ドレスが汚れてしまうよ」
「構いませんわ。それに、私はアンリ様の絵を見るのが好きです。でも、お身体はお大事にしていただきたいわ」
アンリ殿下にはノーランドー各地から絵画の依頼が舞い込んでいる。お世辞にも頑健とは言えない殿下だけど、依頼には可能な限り答えるべく、いつも絵筆を握っているわ。
「ありがとう。でも絵を描くのは僕にとっての義務みたいなものだから。・・・・・・君は呆れるかもしれないけど、誘拐されてから頭に浮かんだ構想があって、今も描いている途中なんだ」
「まぁ! あれほどの目にお遭いになったというのに、それを絵に使うなんて」
信じられない、と言いたげな私の顔を見て、いたずらっぽく笑った殿下は、布で隠されていたその描き途中の絵を、私に見えるようにした。
「僕は、どうやら何者かの手によって救い出されたらしい。らしい、というのは、一緒に救い出された者たちがいて、その者らがそう言ったからだ。僕は見ていない。天上に暮らす神々かと見紛うような超人的な動きで邪神の住処から僕を見つけだし、風のように消え去ったという。でもどうやら、僕の無意識の中にその人を見たのかもしれない。脳裏に残っているその記憶のままに筆を走らせてみたんだ・・・・・・」
そこには、なるほど、一柱の女神とおぼしき女性像が描かれていた。古い神殿らしき廃墟の中、傍らに横たわる血を流す若者の前に立っていて、身体をひねり、何物も纏っていない美しい裸体を見せている。
「この絵は完全に僕の趣味で描いているから、いつ完成するか分からないけど、今回の事件を忘れないためにも、きちんと完成させるつもりさ」
「そうですの。・・・・・・ええ、とても良い、絵になると思いますわ。でも・・・・・・」
「でも? なんだい?」
「この「女神」、誰かに似てはおりませんか?」
「え・・・・・・あっ」
ふふ。どうやらアンリ殿下は私が言い出すまで、本当に気づいていなかったらしい。
ふにゃふにゃと言い訳をする殿下を笑いながら、私は嬉しかった。
あの危険な冒険行の記憶が、アンリ殿下の中にもある。私一人だけの記憶だとするのは少しばかり寂しいもの。
ああ、でも。
私は殿下の描いた「女神」の裸体を見た。
私、こんな体つきだったかしら?
でも一つ分かることは、この女神の図像が完成する頃には、私はアンリ殿下と結ばれるだろうということだ。
この絵を見ていると、私はそれを確信できるのだった。
全裸令嬢 ~ドレスを着るのは冒険の後で~ きばとり 紅 @kibatori
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