おはようエンカウント
東の地平線から朝日が昇って森に暖かい光が差し込まれる。見上げれば、今は無人になって廃墟に戻った塔が長い陰を伸ばしているわね。
昨晩の行為が心を乱す、なんてこともなく、私は木の上で微睡みから目覚めた。
朝日に照らされた自分の体を見る。泥と血で汚れ、髪は固まってる。なんとも散々な格好だわ。
鉄心の術のお陰で暑さ寒さも感じず、今の自分を見てもただ、汚れているだけ、としか思わない。でもそれがよくないことだとアヤメは確かに言っていたわね。鉄心をやり続けてはいけないと。
そうなれば、一刻も早く人里にたどり着いて衣服を手に入れて鉄心を解きたいところだけど、そうは行かない事情があるわ。それは盗賊の大将から頂戴したメダルにあった。
私は朝日に照らしてメダルの細部を見た。精巧な彫刻のされた見事なメダルだわ。他にも彼が懐からこぼしていた金貨も拾っていたのでこちらも見る。こっちも鋳造されて比較的最近のものね。
こんなものを人攫いの報酬に盗賊へ渡せるなんて、どうやら私はとんでもない大物の恨みを買っていたらしいわね。
でも考えてみれば、ぽっと出の侯爵家の娘が遙かに格上の大公家と婚姻しようとしてるんだから、恨みなんて幾らでも買っているのでしょうけど。
それでも、今回の仕様は見て見ぬ振りはできないわね。私を王都から離れた土地までさらい、ドレスを破り、辱めて閉じこめようとしたのだから。
特にドレスを破られてしまったのが悔しいわ。アンリ様に褒めていただけるものと、つましい家政をやりくりして拵えた逸品だったもの。
・・・・・・決めたわ。今回の黒幕をとっちめるまでは、鉄心を解かず、ドレスを着ることもしない。かの邪知暴虐の輩に、このウラーラ・スプリングガルドが天誅を示してくれるわ。
さし当たっては、この泥と血で汚れた体を清めたいわね。それにここがどこの国かを調べないと。
砦を囲む森の先に小川があると話していたはず。水源があるなら、近くに集落もあるかもしれないわ。
そうと決まれば後は行動あるのみ。私は手がかりになるメダルと金貨を髪の間に挟み、木の上から飛び降りた。
地面には木の根が這い回り、倒木や切り株、深く窪んだ水たまりなどもある。それらを跳ねるように、あるいは飛ぶように私は潜り抜けて森の中をひた走った。
走っていると体にうっすらと汗をかき、まだ暖まりかけの空気が体中をすり抜けていく感触があった。これはドレスを着ていては得られない感覚だわ。
目の前に飛び出した横枝に飛びつき、反動で前に跳躍、宙で体を回転させて枝葉の間を掠める。きっと同じ年頃の娘なら青草の先で肌を切り裂き、血だらけになってしまうことでしょう。
そんな具合に森の中を駆け抜けていたら、水の流れる音が聞こえて、私は立ち止まった。
耳をすませて方向を定め、そちらへ進んでいくと森がとぎれ、馬車が三、四台が通れそうな幅がある川が流れていた。
ふと、その十分な水の流れを見ていると急激に喉が乾いてきて、私は逸る気のままに川縁に手を着けた。掬い取った水は澄んでいて、変な臭いもしなかった。
一息にゴクリ。
「はぁ・・・・・・」
体中の詰まった部分が広がるような感動を覚えるくらい、それはおいしかったわ。ただの水なのに。
思い切ってもう一掬いして飲み込み、ようやく気が落ち着くと、今度は川に入って体を清めた。泥と血が流れると下の肌が露わになり、髪の間から汗と一緒に汚れが抜けてさらりとなった。
ようやく人心地した私は岸に戻って陽に体を当てて体を乾かす。濡れたままだと体力を奪われるからね。
川を下るか遡るか、考えた結果、下ることにしたわ。上流に人の生活があればもっと川が汚れているでしょうし。
注意しなければいけないのは、私はいま裸であるということ。急に目の前に裸の娘が現れて何事か誰何したりしたら肝を潰すこと間違いないわ。
だからまずは先に人を発見して、相手に見つからないように後を付け、もっと人のいる場所へ案内してもらうことにするわ。
そうして私は川に沿って移動を始めた。川縁は砂地になっていて歩きやすいのはありがたいわね。川に入ってわかっていたけど、流れは穏やかだし、それほど深くもない。きっと水草の陰や水底には魚もいるのでしょうね。
そんなのどかな川だからこそ、人の気配がしないのは気になった。人の集落が近ければ、鳥や魚を捕らえるための仕掛けくらい落ちていそうなものだけど、そんなものも見あたらない。人攫いがいるかも知れない森の近くでは仕方ないかしら。
川に沿って歩き、暫く経った。水以外、ほとんどなにもお腹に入れていない私は空腹を覚えるばかりだったけど、心配はしていなかった。空腹に耐える訓練はしてきたもの。
・・・・・・今思えば、アヤメが私にしてきたことは貴族令嬢の護身としては過剰だったわね。普通の娘は大の男を拳で打ち負かしたり、砦の壁を這い降りて野山を駆けめぐったりはしないでしょ、まして、全裸で。
でもまぁ、いいわ。お陰で私はこうして無傷でいられるし。問題はこうしている間もアンリ様は私のことを心配しているでしょう、ってこと。
きっとトゥールーズ家にも途中で私が拉致されたってことは伝わっているだろうし、捜索隊も出されていると思う。でも、今のままでは捜索隊に発見してもらうわけにはいかないわ。だって、私裸なんですもの。
嫁ぐ予定の家の者たちに『あの娘は裸で歩き回るような娘だ』という印象を与えてしまうのはよくないわ。
なんとかして、黒幕を暴き出してからドレスに着替えて見つからなければいけないわ。はたして、どうすればいいかしら・・・・・・。
そんな風に今後の行動を考えながら歩いていた私は、次第に人の痕跡が川縁に現れつつあるのを見つけた。人が川で水を汲んだり、魚を釣ったりして出来ただろう跡が見つかったわ。きっと遠からぬ所に人の住む場所があるに違いないわ。
と、私が周囲への注意を広げていた時のことだった。
「た、助けてぇー!」
水を蹴立てて走る音とともに声がした。助けを呼ぶ叫びだった。
私はそれを聞いた途端、一心に声の主のいる方角へ走り出したわ。助けを求めているのですもの。
周囲の景色が流れるように過ぎ去り、気づけば視線の先に動く二つの陰が見えた。
それはまだまだ子供といえる人影を、その三倍はあろうかという巨大な躰の熊が追いかけているものだったわ。
私は咄嗟に川縁に転がる石を拾い、熊に向かって投げた。
「キエェイ!」
拳大の石は風を切り、鋭い爪を振り上げて今にも子供を切り裂こうとしている熊の鼻先を強か潰した。
「ゴァァ!」
おぞましい鳴き声をあげて驚いた熊が身じろぐ。私は叫んだ。
「逃げなさい!」
子供は何が起こったのかまだ理解できないのか、倒れたまま固まっていた。私はさらに叫ぶわ。
「立って! 逃げて! 早く!」
「・・・・・・は、はい!」
よろよろと立ち上がった子供は体勢を取り戻しつつあった熊から全力で逃げていった。それを見た私は再び石を拾い、熊に向かって投げた。
「キエェイ!」
「ゴアァァ!」
今度は熊の方が早かった。熊は目の前に飛んでくる石を、その巨大な腕で払ってみせた。
そして熊の視線はさっきまで追いかけていた子供から、目の前に走り寄ってくる裸の私に向かった。鋭い歯が並ぶ口からだらりと涎を垂らし、獰猛な意志がはっきり示されていたわ。
小さくて肉の少なそうな獲物より、あっちの方が柔らかくて、肉がたくさんありそうだ、といわんばかりに、熊は吼えた。
「ゴガァァァ!」
「ふん。獣にやられるものですか」
私は腕に巻いていたリボンを解く。目測で迫る熊までの距離を測り、急停止する。その反動を使ってリボンを投げた。
リボンは引き延ばされながら熊に迫って、そのエッジが毛皮を掠めた。手応えからして、熊がまったく堪えていないのは明らかだった。
そこで私は手首を使ってリボンを操り、熊の首と片腕を巻き取った。熊は自分の躰にまとわりついた物を振り払おうと暴れる。それに引っ張られたリボンに私は躰を任せ、宙に飛んだわ。
宙を舞いながらリボンの聖霊銀を伸縮させ、さらに加速をつけた私は、振りかざされた熊の爪をかわしてその背中に取り付いた。熊の毛皮はごわごわして肌に刺さって不快だわ。
目の前から獲物が消え、代わりに背中に異物が張り付いたことに熊は驚き、後ろ足で立ち上がって身を震わせた。私はそれに耐えながら、リボンを引き延ばして熊の頸に巻き付ける。
流石の私も熊に力で叶うとは思っていない。その鋭い爪や牙も、分厚い毛皮も驚異だわ。それでも、生き物である以上頸を締め潰されて生きていられるものではないわ。
私は渾身の力を込めてリボンを引っ張り、併せてリボンをめいっぱいまで縮めるようにその仕掛けを手繰った。腕を伝ってギリギリと熊の肌の下で肉や神経が千切れる感触があった。
頭部へ血が通わなくなった熊は大きく一吼えして、力なくその場に倒れた。私は最期まで力を抜かず頸を締め続け、倒れた熊の心臓の鼓動が止まるのを認めてようやく手を離した。
「ふぅ・・・・・・」
緊張が解かれて全身から汗が吹き出たわ。それにしても熊の毛皮ってどうしてこうチクチクするのかしら。
熊の躰から降りて私が熊の死を確認していると、さっき逃げていった子供が近づいてくるのがわかった。
「あら、逃げなかったのね」
「あ、あの、助けていただいて、ありがとうございます・・・・・・」
「人助けは人の道ですもの。当然のことよ」
そう答えるものの、子供は伏し目がちで私のことを見ていなかった。・・・・・・そうね、今の私は裸だもの。
「あ、あの、おねえさんは、どうして裸なんですか?」
「これには色々と深いわけがあるんだけど・・・・・・それより、あなたに聞きたいことがあるの」
私が子供に歩み寄ると、相手はかなり動揺していた。
「そ、それ以上近づかれると・・・・・・!」
「なぁに?」
「め、目のやり場に困ります!」
「そんな年でもないでしょうに。おませな子ね」
困ったわね、こうなるから人目につかずに人を探していたんだけど。
私は途方に暮れて辺りを見回す。すると、子供が熊に追われてやってきた方向で何かがひらひらと動くのが見えた。
「あれ・・・・・・」
「え?」
「あれを貸してちょうだい」
それは川で洗われていた織物だった。藍や緑に染められた質素で、地元で消費されるような生地だったけど、身体を覆うのには適当な代物ね。
子供は川縁でその織物を洗っている所で熊に襲われたのだと教えてくれた。
「いつもならもっと下流で洗うんです。でも下流は今は使えなくて・・・・・・」
「どうして使えないの?」
織物を身体に巻き付けた私に、子供はパンを分けてくれた。久しぶりの固形物の食事を流し込む私に子供はまた伏し目がちになった。
「それは・・・・・・いじめられるから・・・・・・僕は織物屋の子供で、他の子は馬や羊の世話で食べている家の子ばかりで・・・・・・うちはあいつらの親から毛皮や羊毛を貰わないと仕事が出来ないから・・・・・・」
「親同士の関係を笠にしているのね。やり返してやりたくはないの?」
「それは! ・・・・・・そうしてやりたいけど」
先の言葉が先細りになって子供はそっぽを向く。可哀想な子。お陰でこの子は死にかけたわ。私が見つけなければ熊の餌食になっていたというのに。
そうかといって、私にしてあげられることはない。私にはやることがあるのだから。
「そうだ。少年・・・・・・お名前は?」
「ぼ、僕はリュー」
「そう、リュー。このメダルと金貨に見覚えはないかしら」
私は髪の中に挟んでいたメダルと金貨を出して見せた。リューは驚いて渡されたものを見ているわね。
「わぁ、これ、本物? 金貨なんてはじめて見たよ。このメダルもキラキラしてるね。あ、でもこの紋章は知ってるよ」
「本当!?」
「うん。だってこれ、多分御舘様の紋章だよね? こっちの金貨にも・・・・・・うん。ほら」
リューは懐からくすんだ銅貨を出して、私に見せた。それはかなり擦り切れているけれど、金貨に刻まれた紋様と同じ物が使われていた。
「お父ちゃんが両替屋と話してたんだ。コインの表にはその国の紋様が刻まれるんだって。だからこれはたぶん、うちの御舘様が作ったんだね。わぁ、綺麗だなぁ」
「ごめんなさい、リュー。私はあなたの『御舘様』っていうのがわからないの。教えてくれる?」
「え? 知らないの? ええっと、なんていうんだっけ。は、はく、はくしゃ、く? って、他ではいうんだっけ」
「伯爵? この辺りはどこぞの家門の伯国領なのね」
「うん。この辺は全部ジャーダイ伯国っていうよ」
ジャーダイ伯。それがどうやら黒幕らしい。尻尾の先が見え始めたらしいわね。
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