さようならエスケープ

 ホーライ国、という土地がある。私たちの住んでいるノーランドー一七九ヶ国の、遙かな東にあるというその国が、父スプリングガルドの生まれた地だ。曰く、父はそこの王子、だったそうな。

「部屋住みのまま一生を終えるくらいなら、境界を渡って一旗揚げてやろうと家を出たら、流れ流れた挙げ句にこの国にやってきたわけさ」


 寝物語に父はそう語ってくれたわ。

 流浪の異国人、この国の人間にはいない赤銅色の髪に訛りの酷い言葉遣いと、はじめは大層怪しまれたらしい父は、同時に邪神イェホ・ウンディとの終わりなき戦いを続けていたノーランドー側に一兵卒の傭兵として参戦し、その類稀な武勇と統率力を発揮した。

 邪神イェホ・ウンディはノーランドーに古代から存在する邪な霊で、森や地の底から人々の営みを襲い、心悪しき者を手下にし人心を脅かす存在。

 時の為政者の中にはノーランドーの統一を夢想して、かの邪神と結託して大乱を起こすことが度々あり、父がやってきた頃のノーランドーはそういう時代だったというわ。

 果たして、父は狂乱の時代を人々の先頭に立って戦い抜き、邪神の勢力はまた地と森の影に消えた。その活躍は遠い果てのホーライ国にまで聞こえたらしい。

 何故かと言うと、父が戦後建てたスプリングガルド候国の居館にて、暗殺者の侵入を許すという大事件が起こったからだ。下手人は、父と同じホーライ国人で、背の高い、黒髪の女だった。修羅場を潜り抜けた歴戦の強者たる父は暗殺を退け、女は捕らえられ、自害しようとしたけど、父は止めた。

「遠い異国で同国人に目の前で死なれるなんて、余りにも惜しいじゃないか。たとえそれが自分を殺そうとした奴でもな」


 英雄らしい度量の広さを見せる父は、自害に失敗した女を説き伏せて部下として召し抱えることにしたのだ。

 それが、私の教育係だった侍従長のアヤメだ。

「お嬢さま。今夜から私が鍛錬を指導させていただきます」

「たんれん? て、なに?」

「お体を丈夫にし、危険を退ける力を身につけていただきます。よろしいですね」

 私が七つの時のことだ。

 その日以後、彼女は私に自分が身につけた暗殺者・・・・・・ニンジャとしての技量の多くを身につけさせたわ。

 

 七つの頃からさらに七年が経って、私はアヤメに言われたわ。

「良く今日まで苦しい鍛錬に耐えてこられました。今のお嬢さまはホーライでも指折りのニンジャ達と同程度の技量に達したと判断します」

「ありがとうアヤメ。なんだか嬉しいわ」

「私も嬉しうございます。旦那様や、亡き奥方様の御恩に報いられたものと思います。そこで、お嬢さま」

「なに?」

「服をお脱ぎになってください」

 驚く私に、ぴしゃりとアヤメは言った。

「心を鉄として、ですよ」

 そうだ、アヤメは私にいろんな技や心得を教えてくれた。その中に感情の浮動を抑える「鉄心」というスキルというものがあった。

 これは喜怒哀楽の感情を自在にコントロールするもの。どんな状況でも動揺せず、最適な行動がとれるようになるためのものね。逆に感情の振幅を大きくさせる「発心」というものもあって、私は社交の場にはいつも発心を利かせて登場している。そうすると、周りの人が楽しくおしゃべりしてくれるし、私も楽しいから。

 さて、鉄心にして私は白昼の部屋でドレスを脱ぎ裸になった。肌を隠すものはなにもなく、亡くなった母からの品である聖霊銀で織ったリボンだけが髪に残っていたわ。

「よろしい。鉄心が出来ていますね」

 アヤメは直立する見回しながら評価した。季節は初秋で、石造りの館は朝晩に暖炉に火を入れないととても肌寒いのだけど、鉄心が入った私の身体には鳥肌一つもなく、震えもなかった。

「練達したニンジャの鉄心は心ばかりでなく肉体もまた鉄となります。生半可な刀槍はその肌を冒すことなく、逆に相手を圧倒するでしょう」

「そう? よく分からないけど」

「では試してみましょう」

 言うとアヤメは飛び退いて、懐からナイフを出して私めがけて投げた。

「キエェイ!」

 一声の元投げられたナイフは目も止まらぬ速さで私の胸に迫った。彼女の投げナイフの腕は私も知っている。下手な弓より遙かに遠くまで飛び、大角鹿や羆さえ仕留めることができるのだ。

「はっ!」

 私は咄嗟に目の前に迫ったナイフを手刀で払った。するとナイフは枯れ枝を手折るようにパキリと折れて床に転がった。

 もちろん私の手には傷一つない。

「お見事です。まさに熟練の鉄心に至りましたね。ですがお嬢さま、鉄心は諸刃の技でもあります。四六時中使い続ければやがて心は病み、あなたを苦しめることでしょう」

「わかったわ。そもそも、ドレスを着ていてはこんなに激しく動けないもの」

「それもそうでしょうね。さぁ、ドレスを着直させてあげましょう。今日は奥様の十回忌、近隣の領国から貴賓の方々が参られます。粗相のないようにしてさしあげます」

 そうして行われた母の十回忌で、父は私をアンリ殿下に召し会わせ、婚約を発表したのだった。


 あれから三年、私は一七才になった。

 思えばあればアヤメの最後の指導だったのね。まもなくアヤメは古傷が元になって身体を壊し、亡くなってしまった。

 父は長らくの功に報いるように、居館の敷地内に作られた墓地に彼女を葬った。

「思えば、彼女の傷の出所は、俺を討とうとやってきたときに作られたものかもしれないな・・・・・・」

 振り返り、そう仰る父の姿は寂しげだった。

 以来私は何不自由なく暮らし、アヤメに仕込まれたニンジャの技を使うこともなく、アンリ殿下との絆を深めて参ったというのに。


 

 今、私は高い塔の天辺に噴かれた屋根の上に立っていた。

 全身に冷たい風が吹き付けられ、股の間からすり抜けていく。ドレスを着ていたら滅多に感じない感覚だわ。

 おそらく普段なら瞬く間に全身が総毛立つような冷気に曝されている現状でも、私はニンジャの技「鉄心」によって五体の状態を維持していたわ。

 そして塔の頂から四方を望む。ここは、小高い丘の上に建てられた小さな小さな砦、あるいはその一部だった建物で、おそらくは昔、ノーランドー内部の動乱が激しかったいずこかの時代に使われて、今は廃棄されていたものを勝手に使っているといった感じかしら。

 そっと眼下を望めば、この塔から延びる細い細い道が樹木に隠れている。そこには私をここまで運んできたと思しき馬が繋いであった。

 馬を飼ってるなんて、どうやら人身売買は酷く儲かっているらしいわね。

 さて、ここから降りるのはわけがないことだわ。登攀と跳躍はニンジャの基礎中の基礎。これくらいの塔なら、私は目を瞑っていても降りられる。

 しかし、それではこの事件の真相は闇に葬られたままになるでしょう。それでは私は誘拐され損、腹に据えかねるわ。

 

 そこで私は塔の中で私を探しているだろう賊どもに見つからないように、かつ彼らの動機を探ることにしたわ。

 まずは塔の天辺から降りて彼らの現状を把握しましょう。私はリボンの先を屋根に立っている避雷針に巻き付け、塔の壁面に身を乗り出した。

 壁面は粗磨きの石組みで出来ていて、ザラザラしている。私は石の凹凸に手のひらや足の裏を貼り付ける。手足が貼り付いて安定したら、リボンを巻き取って手元に戻す。本当は身体の全体を壁にくっつけた方がさらに安定するのだけど、昔と違ってすっかり胸が育ってしまったから、ちょっと無理ね。

 ニンジャとしては凹凸のない体型の方が適しているみたい。

 壁に張り付いていると室内の行動が振動となって伝わってくる。残念ながら声までは聞こえないけれど、どうやら相当な混乱が起こっているみたい。

 徐々に壁面を降りながら、私は眼下の視界に動くものを感じた。どうやら誰かが塔に近づいてくるようね。

 もし、その誰かが塔を見上げたりしたらとんでもないものを見ることになるでしょうね。蜘蛛のように壁に張り付いている全裸の女の尻が小さく見えるでしょう。

 さすがにそれは嬉しくないわ。まだ見つかるわけにはいかないもの。私は素早く壁面を移動して、道の影になる場所に移動した。

 そうしながら壁を下っていると、脇に小窓が開いているのが見えた。これは幸運だわ。

 音を立てないように窓に近づいて、中を覗く。さらに幸運なことに、この窓は部屋の中が見渡せる位置にあったのだ。

 部屋の中は、暖炉があって、古い机や椅子が置かれ、寝床代わりの長椅子が一棹、毛皮を重ねて用意されている。漂っている臭いは酸っぱくなった酒や肉類のもの、それから煙草ね。少なくとも部屋の主は盗賊にしてはかなり羽振りがいいらしいわ。

 覗いていた部屋の奥扉の握りが動いて、私は慌てて姿勢を低くした。開きっぱなしの小窓から男二人の声が聞こえてきたわ。

「一体どうなってるんでぇ。捕まえてきた娘が居なくなっただぁ? 冗談じゃねぇ、あすこは逃げ道がねぇ部屋だ。廊下にもしっかり見張りを張ってただろうが」

「そうは言いやすが大将、現に娘は服だけ残して消えちまってんですよ」

 高圧的に一方をどやしつけている大将と呼ばれている男が、相手に向けてどら声で返した。

「ばっきゃろう。今日の仕事はいつもの奴とは違うんだぞ。たっぷり銭も頂いちまってるし、殺すな、売るな、どこにも送らず飼い続けろ、そういう仰せだ」

「一体だれなんですかい?  そんな面倒な仕事をくれた野郎は」

「てめぇなんかに言うかよ。いいか、草の根分けても探し出せ。場合に寄っては山狩りもするぞ」

「麓の村に見つかりますぜ」

「かまうもんか。それくらい今回はヤバい仕事だって覚悟しろ。いいな?」

 へい、とどやしつけられていた方の男が部屋を出ていく音が聞こえ、残った「大将」が椅子を軋ませて座ったらしい。

「そろそろ潮時か・・・・・・」

 私はそっと顔を上げて再び部屋を覗いた。そこで私は大将の顔形をはっきりと見覚える。ニンジャにとって記憶術というのは大事なこと。人やもの、会話、あらゆる事象をしっかりと記憶する技が必要なのだと教えられたわ。

 大将は中肉中背ながらよく鍛えられた中年男で、頬が薄く、顎の線を覆う髭が生えている。髪は薄くはなってないけど白いものがたくさん混じっていて、色あせた肌艶からここの生活がどんなものか察することができた。

 そんな大将は机の引き出しの中から小さな鍵付きの箱を出して中身を改めていた。あの手つきからしてかなりの重さがあるみたい、おそらく金貨でもつまってるのかしら。悪党のくせに蓄財とは見上げた根性、でも見てくれから言ってかつては名のある家のけらいでもやっていたのかしら。

 ともあれ、相手の顔は覚えたわ。私は静かに小窓から離れて、再び壁を伝って地面に降り始めた。振り返れば、徐々に太陽が傾いて稜線の先へ沈みはじめ、空は少しずつ赤みがさしていく。

 順調に壁を降りていき、気づけば周囲に生えている針葉樹の枝先に手が届くほどの高さまで降りてこられたところで、塔の中の異変が聞こえてきた。

「大将、やっぱり塔の中にはいませんぜ。やっぱり女は逃げたんだと思いますぜ」

「ちくしょうが。一体どうやって・・・・・・いいか。所詮女の足だ。この辺りの森は俺たちの庭みてぇなもんだ。木の根を掘り起こしてでも探し出せ! いいな」

 野太い男たちの声が檄に応えていた。今地上に降りれば彼らに見つかるかしら。

 そう思ったけれど、どうやら今すぐに山狩りをするわけではないらしい。そういえば麓の村がどうとか言っていたわね。

 おそらく陽が落ちるまで待ってから山狩りを始めるのでしょう。ならばむしろ今が脱出のチャンス。

 私は腕に巻き取っていたリボンを解いて、先端を差し出していた枝先に巻き付ける。十分な弛みが腕と枝の間にでき、下を見ればまだ二階建ての家の屋根ほどの高さがある。けれど、これだけ低ければ十分よ。

 私は吸いつけていた手足を壁から離す。同時に壁を蹴って、枝の張り出す木々の間に向かって跳ぶ。素早く身を丸めて、鋭く飛び出ている枝の重なりの中に身体をくぐらせながら、徐々にリボンを手元から送り出す。こうすることで落下の勢いを殺して、音もなく静かに落下できる。

 足が地面に着く寸前にリボンを枝から離して、私は着地と共に積もった枯れ葉や枝の中に転がり落ちた。冷たく湿った腐葉土に塗れながら、地面に伏せて耳を澄ませた。

 ・・・・・・塔の方からはなんの反応もなかったわ。私をさらって辱めようとした男たちは、私を探し出そうとしながら、塔からの脱出を許してしまったのよ。

 自分の心に沸き立つ達成感を鉄心で押さえつつ、私はひとまず塔から離れた。でもそれは単に逃げる訳じゃない。私を襲った償いをさせなければいけないわ。そのためにも下準備が必要だ。今の私には、聖霊銀で編まれた特別仕込みのリボンが一本あるだけなんだから。

 陽が落ちるまで後わずかの時に、私は逆襲の準備をするべく山林を駆けた。

 勿論、いまだ全裸のまま。

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