月と彼女に関する掌編

小出真利


 たとえば、あなたは学生である。


 あなたは放課後の音楽室でひとりピアノと向き合う時間が好きで、ドビュッシーの月の光を好んで弾く。

 音楽室はひとけのない校舎の別棟にあり、壁には音楽家の肖像以外にも教員の趣味なのか誰かに忘れられたのか褪色したポストカードが何枚か飾られている。


 あなたが夕日の差し込む教室でいつものように指を遊ばせていると、いつの間にかその鍵盤を覗きこむ影があることに気が付く。

 あなたが振り向くとそこには線の細い儚げな少女が立っており、上気した頬で、「月の光」を弾くようせがむ。


 そうしてあなたは彼女に出会う。


 あなたは彼女のリクエストに応え、彼女はこの曲が好きだと微笑み、もしかしたらスカートをつまんで簡単なステップを踏むかもしれない。

 あなたは以前にも増して夕暮れの音楽室に入り浸るようになり、彼女のために月の光を奏でる。


 そんな日がしばらく続く。


 ある日、あなたは彼女から新たなリクエストを受ける。

 曰く、私を連れ出してほしい、とかなんとか。

 あなたは首を傾げながらも要望に応える。2人は黄昏時を超え、すっかり暗くなった夜の校舎を抜け出す。

 踊るように先を歩く彼女はいつになく上機嫌で、鼻歌を歌っている。曲はもちろん、月の光。彼岸の夜空には満月が輝いている。


 中庭に着く頃、あなたは彼女の異変に気付く。


 彼女は消えかけている。

 かすかに透き通り、伸ばした指先は夜闇に溶けかけている。


 あなたは言葉を失う。


 彼女はとびきりの笑顔で真実を告げる。

 「わたしはあの色褪せた絵葉書。光に"焦がれる"亡霊」

 そして月とひとつになるように、消えていく。


 あなたは手を伸ばし、つい先程まで彼女が立っていた空間を抱きしめる。

 そして音楽室の消えた絵葉書の秘密と、月の光を求めた少女の思い出を胸にしまう。

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