12 鬼の霍乱

課長のマンションはタクシーで会社から5分ちょっとのところにあった。


私のこぢんまりしたアパートとは全く違う12階建ての綺麗なマンション。


タクシーから降り、課長のも含め荷物を全て体の左側に持ち、課長を引っ張り出して右腕で支える。


自分のアパートには徒歩で帰れそうな距離だったのでとりあえずタクシーを帰す。エントランスのロックを課長になんとか解除してもらい、中に入りエレベーターで9階に。


エレベーターを降りてすぐの部屋が課長の部屋らしい。鍵を受け取り開ける。


ここまで私がしなくてはいけないくらい、課長は今本当に何も出来ない状態だった。


室内に入ると、隣で支えているはずの課長の気配が一気に濃くなった気がした。


清潔感のある主張し過ぎない課長の香水が空気からほんのりと香る。室温は少し暑いが、空調をかければまた直ぐに快適になりそうだ。


私は持っている荷物を廊下に下ろし、靴を脱いで上がり込む。


「寝室はどこですか?」


「……あっち」


力なく指さす課長の指示通りに廊下を進むと、まずは広く綺麗なリビングダイニング。


そしてその部屋の右手にもう一つ扉があった。


開けて入ると、ほとんど物のないシンプルな寝室だった。


ダブルベットだろうか、濃紺のシーツに濃紺の布団。男らしくも落ち着いた色調のいかにも課長らしい部屋だった。


課長をベッドに下ろし、まずは一息。


「お家に無事につきました。まずは着替えて下さい」


しかし、私が言い終わる前に課長はベッドに倒れ込んでしまう。


「ダメですよ課長。スーツが皺になります。それに布団も掛けないで寝たら悪化しますよ」


私は困り果てて、ベットの脇に膝を突いて課長に声を掛ける。


「悪い、まず、水――」


辛そうな単語だけの要求。


「わかりました。ちょっと待っててください」


私は寝室から出て、ダイニング横のカウンターキッチン奥にある冷蔵庫を開けた。


お目当てのミネラルウォーターを見つけると同時に、冷蔵庫の中にほとんど食料がない事に軽く驚いた。


ミネラルウォーターを入れるコップを探すためキッチンを眺めると、ほとんど使われていないであろう綺麗なシンクにコンロ。


料理をしない人間のキッチンだった。


人知れない課長の私生活を垣間見た私はしばし物珍し気にあたりを見回したが、すぐに今すべきことを思い出す。


私はコップを探し出すと、寝室に戻った。


ベッドを見ると、課長はネクタイを解きシャツのボタンを3つだけ開けたままの状態で仰向けに寝転がっている。


不覚にもその姿が艶っぽく見えて、ドキリとしてしまった。


でも、今は課長にドキドキしている場合ではない。


「そんな中途半端の格好で寝たら益々悪化しますよ。水持ってきたので飲んで下さい」


私はミネラルウォーターをコップに注いで差し出す。


起きあがることが億劫らしく、課長は肘をついて軽く上体を起こしたままコップに口を付けた。


かなり感覚が狂っているらしく、口の端から水がツーっとこぼれてシャツに落ちる。


その光景を見るのが何故か気まずくて視線を逸らした。


「ほら、早く着替えてください」


水を飲み終えたコップを回収した後、ベッドサイドに立ち、朦朧としているで課長にしっかり聞こえるように少し大きめの声を出す。


課長は小さく返事をすると、今度はゆっくり身を起こした。


ぼおっとした顔で「着替え取ってくれるか」と頼まれれば、取らないわけにはいかない。


クローゼットを開き、弱々しい課長の指示通り着替えを出す。


Tシャツとスエットを課長に差し出す。


課長は中途半端にかかった状態のシャツのボタンをゆるゆると外そうとするが、指がうまく引っかからない様子。


たまりかねた私は「……失礼します」と断って、返事も待たずにボタンに手をかけた。


私には歳の離れた弟がいる。昔は弟が風邪を引いて面倒を見ることがしょっちゅうだった。そう、だから今目の前にいるのはちょっとばかり大きく成長し過ぎた弟だ。そんな無理のある設定を頭の中に持ち出して、アレコレ考えたら負けだと思考能力を鈍らせる。


「ほら、腕を抜くから体勢変えて下さい」


促せば本当に弟のように素直に動く課長に違和感やらくすぐったさやらを感じつつ、黙々と手伝う。


インナーのシャツを脱がせるのはさすがに気まずく、何とか自分で脱いでもらう。


そんなとき視線が勝手に課長の腹部に行ってしまう。


まじまじ見るのもどうかと思ってちらっとしか見なかったけれど、30歳を越えたサラリーマンがどうやったらこんな体型をキープ出来るんだろうかと思えるほど引き締まった体格をしているようだった。


きっと日頃から「営業マンには体力が必要だ」なんて言っているから、ジムでさぞ鍛えているんだろう。


私がそんなことを想像していると、課長はTシャツを自力で着終わった。次いで、ぼんやりとした顔で私を見つめてきて、


「――下は手伝ってくれないのか?」


と私の腕を熱い手で掴んでベルトのバックルに引き寄せる。


その行為にビックリして課長の顔を確認すると、ほんの少し口の端が上がっている。


「もう、病人が冗談言わないで下さい! 私は薬を取ってきます。その間にちゃっちゃっと着替えちゃってください!」


私は課長の手をふりほどいて、薬の保管場所を説明させると寝室から飛び出す。


体調不良でもタチが悪い!!


そう憤慨しつつもほてった頬を手団扇でなんとか冷まし、何だかんだしっかり薬を探し出して課長に持って行く自分の人の良さを誰か褒めてくれ。


救急箱に薬以外に冷却シートや体温計が入っていたので、箱ごと持って寝室に戻る。一応何か食べるか聞きはしたが横に首を振られたのてしまったので、ちゃんと着替え終わっていた課長に風邪薬を飲ませ、体温計で熱を計る。


39.1℃


かなりの高熱にこっちが頭を抱えたくなった。


冷却シートを課長の額に張り付けると布団の中に押し込んだ。これで一段落。


「この熱じゃ明日は仕事どころじゃないでしょう。会議は諦めてください」


布団の中からは返事がない。


もう寝てしまったのだろうか。


「もし、明日営業開始時間までに会社に連絡がなかったら私が部長に欠席の旨を伝えておきますので、時間を気にせず休んで下さい」


そう言い残すと、私は寝室を出た。


やりかけだったらしい明日の会議の資料が気になったけれど、どうせ課長は出勤できない。ならば完成していなくても問題ないだろう。


定例会議だったはずだから、一課の業務報告みたいなもののはず。1回課長が欠席したところでどうこうなるようなことはない。


私は自分の鞄から手帳とペンと取り出すと、鍵を外から閉めてポストに入れておくことを書き残しダイニングテーブルにそのメモを置き、課長の部屋を後にした。

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