クローバー
愛野ニナ
第1話
みんな家に帰ってしまった。私はひとり。まだ帰れない。
今も思い出す。夕暮れの公園。
四つ葉のクローバーを見つけたら幸せになれるはずなのに。毎日、暗くなるまで探しても見つからなかった。
でも。
私はもっといいものを手に入れた。
ふと誰かに呼ばれた気がした。
振り向くと缶チューハイを片手に持った若い女と視線が合った。
「久しぶりだね」
濃いめの化粧をしているがあどけなさが残る顔、黒目がちの瞳には屈託のない笑みが浮かんでいる。
彼女と「再会」したのは真夜中近く、レイトショーが終わり映画館のビルを出たところだった。
俺が怪訝な顔をしていたのを彼女は察したのだろう。笑顔のまま彼女は続けた。
「わからないの?姫花だよ。忘れちゃった?」
ひめか?この感覚をデジャブ、とでもいうのだろうか、彼女は何か俺の記憶の中にいたような気もするのだが。
しかしそれ以上に警戒心が働いた。新手のキャッチかパパ活の類かもしれない。
食事に連れていってほしいと彼女はねだったが終電があるからと断り帰路についた。
俺は久々のひとりでの夜の外出で多少浮かれてはいたのだ。誘いに乗ることはなかったがSNSアカウントの交換には応じてしまった。
ただそれだけのことに華やぐような気持ちになった。長らく忘れていたそれは言うなれば、ときめき、であろうか。四十過ぎの中年男にはまったくふさわしくないものだ。かかわるとろくなことにならないだろう、これは予感ではなく確信であった。
帰宅したのは真夜中を過ぎており家族はすでに寝ていた。
眠気は全くない。映画の興奮も覚めやらぬというやつか…いやそれは違う。自宅の中で唯一の自分だけの居場所としている小さな書斎で俺はスマートフォンを手に姫花のアカウントを見ると早速更新がされていた。
「運命の出会いかも」
「私の王子様はもういなくなっちゃったけど」
文面は意味不明だ。王子様とは誰のことだろうか…と思った時にふと記憶の一部が蘇りそうな気がしたが、肝心なことがどうしても思い出せない。手が届きそうで届かないようなもどかしさ。
「また会えたね私のナイト様」
そして俺個人に来た姫花のメッセージだ。俺はつられるようにメッセージを返す。
「やっと会えたな、姫」
メンヘラ女のファンタジーにつきあう中年男。俺は自分でも気色悪いと自嘲しながらも思う。
かつて確かにどこかで彼女と出会っていたのだ。
そして。
俺が忠誠を誓った従者だというなら、彼女を救わなければならないと。
まったく馬鹿げてはいたが、この怪しげな気持ちはどうしようもなく抑え難いものであった。
それから姫花と時々会うようになった。一緒に映画を観たり買い物に行ったり食事をしたり時に水族館やテーマパークにも出かけた。仕事では使わないプライベート用の車で迎えに行き、ホテルに泊まる日には最上階のスイートを奮発した。姫花がそのようなことを望んだわけではないが、少しでも多く喜ぶ姿を見たいと思った。
現状に不満があったわけではない。
俺は二十四にして周囲の反対を押し切り結婚した。就職して二年目だった俺は辞職し婿養子として妻の籍に入りその家業を継ぐことになった。子供が生まれ、同い年の妻が子育てと主婦業に専念した。俺はといえば家族経営の零細企業の名ばかり経営者だ。妻の親族ばかりの中で慣れない仕事をただ必死にこなす日々だった。
俺は神など信じてはいないが、かつては妻に想いが届いた時、そして子供が生まれた時には、すべての神々に感謝したいくらいの気持ちだった。妻子のためならどんな我慢も厭わないとさえ思った。実際、他のあらゆるものを我慢してきた。若い頃に好きだった趣味もやめた。俺は多分、自分を犠牲にし過ぎたのだ。
時は矢のように過ぎ、ふと自分をかえりみればいつのまにか四十歳を超えていた。仕事にもそれなりに慣れ、子供たちも健やかに成長している。時間にも自分自身にもやっと少し余裕ができた。好きな映画をひとりで観にいくという程度のことが僅かながらもかなうようになった。
そこで俺は気付き愕然としたのだ。失ったものに。己の麻痺した心に。
そして、姫花と過ごす時間の中で、その若い肢体と弾ける笑顔の中に、俺は失った何か大切なものを取り戻せそうな気がした。それは俺が得たもののかわりに失ったもの、遠くに置き忘れてもう二度と手が届かないと思っていた煌めきだ。
姫花と逢瀬を重ねるにつれて俺は全身に活力がめぐり心が潤っていくのを感じていた。俺は満たされている。
もう二度と失わないように、大切に守らなければならない。今度こそ何を犠牲にしてもかまわないと思った。
姫花と共にいられる時間のために、地獄に落ちるのもいい。そんな幻想さえたまらなく甘美だった。
だがこんな日々が続くはずがないことは重々承知の上だ。
それでもあともう少しだけと夢を見ずにはいられない。
実際に俺の日常は破綻しつつあった。いや、既に破綻していた。
姫花と会うための金はわずかばかりの自分の小遣いや貯金では足りず会社の運用資金を使った。一人しかいない雇いの従業員は解雇せざるをえなかった。そのぶん自分にかかる仕事量は増えたが、それでも週末にはなるべく姫花と会う時間を作った。
ほとんど週末ごとの外出を妻は不審に思っただろうが特に何も言わなかった。妻は妻で家族全員分の家事や老齢になった自分の両親の世話や子供たちの塾の送迎などで忙しい。今、俺と揉めている暇などないのだろう。
それは俺にしたところで同じだ。今の生活を捨てて姫花と暮らすことなど夢物語だ。離婚したらまず職探しから始めなければならず、結婚前二年だけ勤めた職場と妻の家の親族経営の会社しか知らない中年の男にまともな再就職口などあるはずもない。
現実は容赦なく破滅の日が刻一刻と近づいている。だがどうしようもできない。
姫花は気付いているだろうか。泊まるホテルの部屋のグレードが落ちていること、最近は都心で落ち合うデートばかりになったのもプライベート用の車を手放したからだということを。きっと気付いていたところで何も言わないだろう。女はいつもそうだ。思ったことや感じたことを、素直に口に出したりはしない。表情さえ平然と欺く。長年共に暮らしている妻のことでさえ本当の心の内などわかりやしないのだ。
姫花のことはなおさら、知らないことのほうが多い。彼女はあまり自分の話をしない。知っていることはといえば、現在休職中だということ。あまり恵まれた育ちではなかったこと。だが、それが何だというのだ。それらは姫花の属性の一部であるというだけだ。惹かれ求め合うことに理由など必要ない。俺が求めるのと同じように姫花に求められているという事実だけで充分だ。
俺の力で支えられることなど限られてはいるがそれでもできる範囲で支えたいと思った。俺といる時だけでも、姫君のような気分にしてあげたい。
たとえ束の間の夢に過ぎないのだとしても。
俺の腕を枕にして姫花が眠っている。行為の後の充足と倦怠が入り混じる時間。勿論、このまま帰りやしない。他の既婚者がどうだか知らないが、俺は朝まで共にいられる時しか泊まりで過ごすことはない。姫花のかすかな寝息とルームライトの薄明かりが俺の眠りを誘う。
陰鬱な灰色の空と石ばかりが転がる痩せた大地。ここはいったい何処だ。
ああ、ここは最果ての地だ。終焉の地だ。
わすかばかりの緑の地面にクローバーが群生している。
軍服を着た男のブーツがそれ踏みつけると、まだあどけない顔をした少女の黒目がちの瞳と視線があった。
少女が何かを言っている。声は聞こえなかったが、その言葉はなぜか届いた。
「なにもない」と少女は言った。
四つ葉のクローバーを探しているのだなと、軍服の男…夢の中の俺はそれを微笑ましく思う。
幸せが欲しいと彼女は願っている。
みすぼらしいドレス。
おおきく開いた胸元の白い肌。
この夢から目覚めたら四つ葉のクローバーを手に入れてやろう。
何といったか、四つ葉を象ったクローバーがモチーフの有名なジュエリーブランドがあっただろう。今の俺にはかなり高額な買い物になるがかまうものか、好きなものを選ばせてやろう。
約束された幸福などどこにも無い。果たせない願い。破滅へのカウントダウン。
胸を飾る四つ葉のクローバーは、姫花のその白い肌にきっと似合うだろう。
おばあちゃん。なかなか来れなくてごめんね。ちょっと引越しで忙しくて。でも今度は前より近くなったから、これからはたびたび遊びにくるね。
彼氏?ああ、もう別れたよ。まあね、私、年上の男は嫌いじゃないの。おじさんのちょっとくたびれた感じってセクシーじゃない。敦郎は背も高くて逞しかったし。何より優しくて、私の言うことなんでもきいてくれたんだ。
運命の出会いだと思ったんだって。前世で会ったことあるよって冗談で言ったら、自分は前世で私に仕えていた従者だったとか言い出しちゃって。そんなことあるわけないじゃん。思い込みっておかしいね。
だいたいさ、それなりに恵まれた境遇にいるくせに、そんなファンタジーにすがってるなんて何が不満なんだろう。家のこと考えないで外で遊んでいられるのもいつも身綺麗にしていられるのだって奥さんのおかげなのに。そんなこと考えもしないような人。軽蔑するよ。
おばあちゃん、小学校の時の担任覚えてる?うちにも何回か家庭訪問に来た小早川先生。私が集金を持ってこないって学校でもいつもみんなの前で注意するから、うちが貧乏だってバレるの恥ずかしかったんだから。最低だよね。そのあと教師やめちゃったって噂ほんとだったみたいね。
敦郎は結局、最後まで私が昔の生徒だってことぜんぜん気づかなかったよ。昔から鈍感だったけど今も変わってなかった。
そのうち私と一緒になりたい、なんて言い出して。おもしろいからどこまでやるか見てたんだけど、本当に離婚するなんて思わなかった。会社追い出されたのか、離婚する前に倒産してたのかよく知らないけど。最後の方かなり無理してたみたいだったな。離婚してほしいなんて言ったこともなければ、何が欲しいとも言ったことないのに、勝手に自滅したんだね。私のものになったって、無職になった男なんてもう付き合えるわけないじゃん。バカみたい。
ねえ、お父さんもそうゆう男だったのかな。お母さんが心を病んじゃったのがそんなつまらない男のせいだったとしたら嫌だな。だって本当につまらない男だったんだもの敦郎は。
でもこれはいいでしょ。戦利品。ヴァンクリーフのアルハンブラだよ。物には罪はないもんね。
歌舞伎町?もう行かないよ。私も二十八だしね。しばらくおとなしくして、そうだな婚活でもしようかな。
そうそう、おばあちゃんにお土産もってきたよ。六本木ヒルズに新しくできたお店のフィナンシェ。それからローズヒップティーもね。あ、私が淹れるよ。美容にいいんだよこれ。一緒に飲もうね。
クローバー 愛野ニナ @nina_laurant
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます