第33話 ノクタリア様(グラズ視点)




 目を開けると、そこにはノクタリア様の顔があった。


 揺れ動く馬車の中。

 いつの間にか、俺は眠ってしまっていた。


 橙色の鋭い瞳と絹のように真っ白な髪。

 俺が目を開けたことを確認した彼女は、表情一つ変えずに、瞬きを挟んでから呟いた。


「おはよう、グラズ」


 声音は限りなく感情の込められていないもの。

 ノクタリア様はどこまでも真顔だったが、俺は彼女に笑顔を返した。


「はい、おはようございます。ノクタリア様!」


 起きあがろうとすると、不意に頭頂部にあった感触に違和感を覚えた。

 馬車の座席とは思えないほどに柔らかい。

 そして、よくよく考えれば、目が覚めた瞬間、ノクタリア様の顔が最初に見えるなど不自然な点があった。


 そして、俺は顔が急激に熱くなるのを感じ、一気に起き上がる。

 それと同時にノクタリア様に頭を下げる。


「す、すみません! 膝枕なんてさせて、本当にすみません!」


 なんと、あろうことか……俺はノクタリア様に膝枕をさせていた。

 必死に謝るが、ノクタリア様は何も感じていないようで、


「何故、謝るのかしら?」


 本当に訳が分からないというような怪訝な顔をしていた。

 

「私は不利益を被っていない。貴方に落ち度はなかったはず……それなのに、どうして謝るのか、理解できないわ」


 表情は全く変わらないが、考え込むような仕草を見せる。

 普通なら、膝枕をしていたことに恥じらいだったりという感情を覚えるはずだが……ノクタリア様には、それがなかった。


「あの……許してもらえるんですか?」


「許すも何も、悪事を働いていないのだから、怒ることもないでしょう?」


「それは、そう……ですが」


 その一言だけ聞き、ノクタリア様の物差しが、悪か、そうでないかという非常に極端なものであることを察した。


「それよりも、もうすぐ目的地に着くわ」


 馬車から窓の外に視線を移して、ノクタリア様は静かに告げる。

 綺麗な横顔だ。

 喜怒哀楽などは、ほとんど感じない。

 まるで人人形かと思ってしまうくらいに、顔色が変わらない。


 ──妻とは、全然違うな。


 妻は、よく笑う人だった。

 気さくで、いつも俺のことを気遣ってくれて、場を盛り上げようとしてくれることが多かった。

 

『グラズ! 今日は何が食べたい?』


 脳裏に妻の声が過ぎった。

 夢を見ていたからか、過去の記憶が水面から浮かんでくるように思い出せてしまう。


「ノクタリア、様……」


「何かしら?」


「ずっと聞けていなかったのですが、目的地とは、どこのことなのでしょうか?」


 頭の中を切り替えたくて、俺は聞いておきたいことを一つ、ノクタリア様に尋ねた。


「あら、言ってなかったかしら……」


「はい、教えてもらっておりません」


 馬車での移動は、体感的にかなり長時間に渡るものだった。

 ドミトレスク子爵領を離れて、何時間経過しただろうか……?

 王都に向かっていくのであれば、もう町の景色が見えてきても不思議ではない。

 だが、馬車の窓枠から見える景色は、薄暗い森林ばかり。


 目的地がどこか気になるのは、必然的だ。


「目的地は、私の活動拠点よ……」


「活動拠点、ですか」


「正確には、私たちの活動拠点……になるわね」


 ノクタリア様の橙色の瞳は、薄暗い森林の奥へと向いていた。


「あの森……ですか?」


「ええ、『叫びの沼沢』よ……」


「『叫びの沼沢』ですか……え?」


 ──聞き間違いだろうか。今、ノクタリア様は『叫びの沼沢』と言っていていたように聞こえた。


『叫びの沼沢』というのは、人が生きられない環境というのが有名だ。

 有害な瘴気が四六時中漂い、人の肉体を腐らせる。

 生物は存在するものの、この森林の中にいるのは、瘴気によって変異した危険な野獣ばかり。

 

 ──最も身近に存在する地獄。それが『叫びの沼沢』だ。


 俺が怯えているのを察してか、ノクタリア様が口を開く。


「怖いの?」


 まるで自分は怖くないかのような物言いをする。

 普通なら、共通認識で恐怖を覚えるような場所だ。


「ノクタリア様、『叫びの沼沢』は、人が生きれる環境じゃないとご存じですか?」


「ええ、もちろん」


「なら……中に入るのは止めておいた方が……」


 俺は、恐れていた。

 妻を失い。

 息子を失い。

 もう何も失うものなんてなくて、死んだって構わないと考えていた。



 けれども、本心では……まだ死にたくないと考えていた。


「……俺は、死にたくありません」


 漏れ出た言葉を訂正する余裕もない。

 暫くの沈黙が続いた。

 






「……安心なさい。『叫びの沼沢』に入っても、私たちは死なないわ」


 窓の外を眺めながら、ノクタリア様は、独り言のように小さな声で告げた。

 こちらには視線を一切向けず、彼女はひたすらに森林に視線を向け続けていた。


「『叫びの沼沢』は……確かに、人が生きれる環境じゃないわ」


「やっぱり、そうなんですね……」


「ええ。あそこの瘴気を吸い続ければ、最初に肺が腐り出す。次第に呼吸ができなくなり、そのうち全身に毒素が回る。……そうなったら、もう終わりよ。身体中がボロボロに崩れ始めて、冷静さを保てなくなる」


 ノクタリア様の瞳は、その苦しみを知っているかのように揺れていた。

 表情は一切変わらないのに、内に秘めた感情は、大きく動いているように思えてならなかった。




「……死は、救いよ」


「俺は、そうは思いませんが……」


「苦しみを味わい続ける地獄で生き続ければ、貴方にも……その意味が分かるわ」


 その一言は、俺のありきたりな返答なんかよりも、遥かに重いものだったと思う。

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