海の玉並べ-7 絵画/恐怖
大体午後の六時に差し掛かるころ。すっかり暗くなってしまった道路を進んで俺と天は「のぞみの宿」に帰ってきた。
「おかえりなさいませ、さぞお寒かったでしょう?」
温和な雰囲気の旅館。そこの女将である伊佐美 利津子さんもまた、暖かな笑顔で自分たちを迎えてくれた。
「さあ、もうすぐ御夕飯の準備もできますので、部屋であったまってくださいな」
「ありがとうございます」
会釈して部屋に戻ると、瀬古さんは随分と殿様気分のようで、片膝を立てて座布団の上に座り、扇子を広げて待ち構えていた。
「おかえり二人とも。どうだいここの海は。綺麗だっただろ?」
「天気微妙だったんで……」
「はっはっは」
大口を開けてわざとらしく笑う瀬古さん。俺も天も無視して適当な場所に座る。しばらくすると女将が料理を持ってきてくれた。
昼食もそこそこ量がある献立だったが、夕飯ともなると規模が二回りも違ってくる。海も近いこともあってか、海鮮料理が宅の上に見渡す限り広がっていた。
刺身、天ぷら、活け造り……。正直油断していた。案外高級な宿なのかもしれない。もしかしすると自分が知らないだけで、こうした旅館で振る舞われるご飯は大抵がこれくらいなのかもしれない。
「……いただきます」
当然その味も美味だった。新鮮な身にお手製の醤油がよく合っている。生臭さを感じることもなく、心地のいい、涼やかな感覚が体内に広がっていく。
「うまい! うまい! ……いや本当に美味しいな。ちょっと驚いた」
大げさにうまいうまい言っていた瀬古さんが一周回って冷静になっている。天は特に何か言葉を発するわけではなかったが、次々に箸を動かして未知の食べ物に舌鼓を打っている。当然、俺も箸の移動が止まらない。
多分この旅行で一番よかったと言えるのはこの夕飯だろうと思えた。
食後。
瀬古さんは爪楊枝を咥えながら眠りにつき、天も部屋に戻って行った。
食後の眠気は当然自分にもあったが、明日帰るのにその前日の夜を寝て過ごすのももったいなく思えた。なんとなく部屋を出て、旅館中を歩くことにした。
そういえば、入り口のところに資料が置いてある休憩所があったな。
玄関近くでも肌寒くない。しっかり耐寒対策されているらしい。おかげでどこにいても眠気が誘ってくるのだが、我慢して休憩室に入る。
「……うわびっくりした」
休憩室に入ると横に長い額縁に入った一枚の絵が見えた。なんとも不気味な絵だった。全体的に暗く、深い意識を逆なでするような、そんな恐怖感があった。
月に照らされた海面。その中から一本の巨大な木のようなものが飛び出し、砂浜に向けて打ち倒されている。それに近づく米粒サイズの村人たち。彼らはそれらに触れたり、逃げたり、叫んだりしている。
木に触れている人々はその腕を引っ張っている。どうにも木から手を放すことができないみたいだ。そして海に近づくにつれて、木に密着する人々も多くなっていく。そして何人かは海に入ってしまっている。
そして、海面に浮かんでいる不気味なもの正体に気づいてしまった。
玉のようなものが何個も浮かんでいた。それを見たとき、直視してはいけないと感じてすぐ砂浜の方に目を追いやった。そして人の集まりを追っていくうちに察した。
人の、頭だ。
海に浮かんでいた玉は全て、海に引きずられていた人の頭だった。
木も、本当に木だろうか。ただ真っ黒でごつごつな外面をしていたためにそう思ってしまったが、海から出ている以上、それが木であるはずがない。
何か、生き物の腕であるような。
「ご興味がおありですか」
「うわっ!?」
突如背後から話しかけられて飛び退く。
「……女将さん?」
休憩室の入り口に女将がいた。相変わらずの優し気な顔でこちらを見つめている。
「その絵は、この町に伝わる神様の絵なのですよ」
「……神様?」
女将はゆっくりと部屋に入って中に置いている椅子に座った。
「ずーっと。ずーっと昔の話です」
この海には、神様が暮らしている。その姿を見たものは誰もいない。海にいるのだから、きっと大きな魚だろう。いや、タコだろう。巨人かもしれないぞ。色んな噂話に尾ひれがつき、その神様の姿は話ごとに変わっている。でも結局、それは想像の域を出ず、結局どんな姿をしているのかは誰にもわからなかった。そもそも、存在自体信じられていなかった。神様のお話は、気づいたら誰もが知っている架空の昔話だと思われていたからだ。
神様の家は海。砂浜は庭。神様はその大きな心で深海のすぐ底から町を見守り続けている。町に住む人々の平穏を願い、その町の歴史を記憶しつづけている。いつ作られた話かはわからないが、村の誰もがそれを教訓のある昔話として信じ、平和が続きますようにと善行を積んで生きていたのだった。
人々が破ってはならない神様の禁忌が一つある。それは、死体が庭に置かれること。平和を何よりも願う神様は、人の遺体が住処に置かれることに怒りを覚える。神が怒りを顕わにした日にはその巨体を海から現し、大津波を起こすのだと。
「優しい神様なのに、人の死体を見ただけで怒るんですか? 優しく埋葬してあげそうな気がしますけど」
「そうですねえ。でもね、実際に神様が怒って、町が大変なことになった時があったそうですよ」
「……実際に?」
数十年も前。この国は戦争に見舞われた。各地から兵士が徴収され、争いの場は増えていった。
あるとき、この付近で敵国の兵士がやってきたことがあったらしい。その争いは、町だけに留まらず、砂浜にまで広まった。何人かの兵士がそこで殺し合いをしたんだとか。町の至る所に死体が転がった。砂浜にも。そして、海の上にも。何体もの死体が積み重なるが、それでも争いは終わらない。
そんなとき、神様は怒ったのだ。
爆発のような音がしたらしい。誰もが、海に爆弾が落とされたと思ったらしい。しかし実際には海の中から巨大な何かが生えてきた音だったのだ。
巨大な柱だった。柱はそのまま砂浜に向けて倒れ、何人もの人が下敷きになった。突然のことで争いは止まった。砂浜に打ちあがったそれは、木にも、岩にも、腕にも見えたらしい。
呆気にとられた何人かの兵士は、不思議に思ってそれに触ってしまった。すると、手が外殻に張り付いて中々離すことができない。兵士は叫ぶ。誰か、引っ張ってくれ、と。他の兵士が助けるためにその兵士を引っ張ろうとすると、今度はその兵士の手もくっついてしまう。とても奇妙だった。一人の兵士を助けようとして何人もの兵士が捕えられる。中には列のようになってしまっているところもあったらしい。
そして柱は、海に戻り始めた。手を離せない兵士は引っ張られる。中には腕ごと切り落として脱しようとする兵士もいたが、上手くいかなかった。
ずるずると引きずられ、巻き込まれた兵士は深海に連れ去られていく。
何人も、何十人も身体が沈められていく。
それを遠くから見た誰かが言ったらしい。
『海の上に、玉が並んでいるよ』
と。
それが神様のお怒り。住処に何体も死体を捨てられ、原因となった罪人を深い深い海へと連れ去っていった。
そのときの証拠は、無い。記録も証言も無い。その地に元から住んでいた人はもうどこにもいない。今この町にいるのは、新たに移り住んできた人たちだけだ。ただ残っているのは神様の昔話が書かれたいくつかの本と、この絵画だけらしい。
「ええ、ここは村のみなさんの集会所でもありますから、この絵も飾られているのです。このような話、本当だと信じているものは誰もおりません。しかし、この話自体を教訓にするために、こうして昔話は残されているのですよ」
女将の話に一時間ほど聞き入ってしまった。どこの場所にも、その場所にまつわる昔話がある。その一つを聞くことができて、嬉しい気持ちになった。
(……ん? じゃあ瀬古さんがここに来た理由って)
同時に嫌な予感もする。瀬古さんの、天に海を見せたいという言葉はただの見せかけで、本当はこの話の真偽を確認するために来たのでは? そのために連れてこられた?
(……ありえない話じゃないな)
瀬古さんに問い詰めよう。
「ありがとうございます。この町についてよく知れました」
「いえいえ。どうぞおやすみくださいね」
別れを告げて休憩室を後にする。最後にもう一度絵を見る。やっぱり心に不安が残るような色合いだった。
部屋に戻る。
「瀬古さん、ちょっと聞きたいことが」
そう声をかけるも、瀬古さんは既に敷布団を用意してぐっすり寝てしまっていた。
「……」
時刻は午後の十一時。瀬古さんがこうして寝ているということは、もう何かする予定はないということか。少し疑いすぎたかもしれない。
気が削がれ、自分も寝る準備もしようと思った。部屋についていた浴場のシャワーを軽く浴び、敷布団を用意するころには十二時になっていた。
部屋の電気を消す。
耳には波の音。
———まあ、得るものはあったかな。
そんな感想を抱えて、眠りに落ちていったのだった。
「———君、近衛君」
「……なに」
「近衛君、起きてくれ!」
「なんですか……」
身体を強く揺さぶられて起こされる。横を見ると瀬古さんがとても憔悴した顔をしていた。
「どうしたんです瀬古さん……」
「ちょっとまずいことになった」
とても真剣な表情で言ってきた。それでも寝起きでまだ頭の回っていない自分は、また何かの冗談だろうと思っていた。
「なんですか本当……今日の朝飯がすごいとかです?」
「違う」
「……じゃあ、すごい晴れてるとか?」
「違う違う!」
「じゃあ何です……」
「天が死んだ」
……。
…………。
………………。
「は?」
「天が、息をしてないんだ」
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