日出卜英斗はほだされない

 かくして、まことと沙恋されん先輩のガチバトルが始まってしまった。

 しかも、アパートの俺の部屋で。

 どうしてこうなった!

 というか、他所よそでやってくれ、他所で。


「あっ、汚い! 卑怯な手を使うな、狭宮沙恋はざみやされん

「はっはっは、先輩をつけなよボインちゃん」

「……おっさんか。って、また! なんて陰険なんだ!」

「勝負の世界というのは、常に非情なものなんだねえ、うんうん」


 二人はガチャガチャと、コントローラーのレバーを忙しく動かしている。

 そう、対戦格闘ゲームだ。

 まことはいつも俺の相手をしてくれるから、小慣れているしそれなりなんだけど……なんていうか、沙恋先輩の動きがえげつない。この手のゲームは初めてだと言っていたが、ちょっと触ってすぐに『自分に有利っぽい技だけを繰り返す』というプレイスタイルを確立してしまった。

 しかも、まことの隙には確実に大技を叩き込んでいる。

 あー、ちょっとこれは……才能があるというか、相手にしたくない感じ。


「ぐぬぬ、また負けた……」

「まことクン、君は素直過ぎるね。たたかいなんだから、もっと手を尽くしてもいいと思う」

「あたしは、勝負には貴賤きせんというものが――」

「こういう技をもっと使うといい。それに、そのキャラならもっと、こう」

「おお、なるほど! ありがとう!」

「……素直過ぎるね、まったく」


 時は夕暮れ、西日の差し込む部屋が茜色カーマインに照らされている。

 一通り対戦を満喫した二人は、打ち解けたというにはなんだか言葉が硬い。それでも、取っ組み合いの喧嘩けんかにならなくてよかった。

 女の子同士の喧嘩なんて、見たくもない。

 それは、沙恋先輩が男か女かという問題とはまた別の話だ。

 そう思っていると、まことがコントローラーを置いて立ち上がった。


「よし、じゃあ英斗ひでと。夕食を用意するぞ。あたしに任せろ」

「え? ああ、いいって。俺が自分で」

「英斗は昔から、あたしの作った焼き飯が大好きだからな!」

「それは、まあ、否定はしないが」


 まことは制服の上着を脱ぐと、シャツを腕まくりして「フム!」と鼻息が荒い。完全にやる気スイッチがONになっていた。

 そして、さも当然のように沙恋先輩も後に続く。


「ボクも手伝おう。料理の経験はほとんどないけど、力になれると思うよ」

「いや、断る。あたし一人で十分だ」

「まあまあ、そう言わずに。ボク、助っ人部だもの。助太刀すけだちするよん?」

「断固、拒否する。狭宮沙恋」


 まことはいつも眠そうな目をしているが、その瞳に輝く光は強い。

 そんな眼差まなざしを真っ直ぐに彼女は、沙恋先輩に突きつけた。

 先程の対戦ゲームとは違った雰囲気を察して、沙恋先輩もまた静かに言葉を待つ。


「狭宮沙恋、お前は英斗に話すべきことがあるはずだ。説明する責任がある」

「おっ、手厳しいね」

何故なぜ、お前はハナ姉の周囲をうろちょろしているんだ。返答次第では」

「次第では?」

「……どうしよう。困ったな、うん。どうしたらいいんだ、あたしは」

「おいおい、そこまで言ってそれはないなあ。ふふ、まあいいよ。キミの言う通りだ」


 心底困ったという顔で、腕組みブツブツ言いながらまことはキッチンの方へ行ってしまった。その背を見送り、俺もどうしたものかと思案を巡らせる。

 いや、すっごい説明してはほしいんだよな。

 沙恋先輩、ハナ姉のなんなの?

 っていうか、何者なの?

 そんな俺の考えが顔に出てたのか、振り向いた沙恋先輩はムフフと笑みを浮かべる。

 本当にチャシャ猫みたいな人だ。


「さて、じゃあ……なにから話そうか?」


 ベッドに座って対戦を見ていた俺の、すぐ隣まで来て沙恋先輩が腰を下ろす。

 小さくギシリとベットがきしんだ。

 まるで、どこか現実感のない沙恋先輩が、確かにここにいるぞと確認しているみたいだった。

 すぐ横に、精緻せいちな小顔が見詰めてくる。

 真っ赤な瞳がわずかにうるんで、夕焼けに輝いて見えた。


「そうそう、安心するといい。ボク、初めてじゃないんだ」


 な、なにを言い出すんだ?

 突然の告白に、俺は咄嗟とっさに発した声が上ずる。


「あ、ああ、ゲームの話ですよね! エグい……じゃない、上手いじゃないですか、沙恋先輩」

「いや、さっきのゲームは初めて遊んだけど。そうじゃなくて、昼間の話さ」

「あっ! いや、そうですよね! 初めてじゃなきゃあんな……キッ、キキキ、キ、キスなんて!」


 沙恋先輩はきょとんと目を丸くしてしまった。

 そして、次の瞬間には吹き出してしまう。

 こうして笑えば、それはもうとても可憐でかわいい……ただし見た目だけ。そして、うるわしの姫君だか王子様だかは、次の瞬間にはいやらしく目を細めた。


「ふふ……興味あるんだ? そうだね、キスは初めてじゃないよ? だから」

「だ、だから?」

「試してみるかい? 今、ここで」


 ぐいっと沙恋宮先輩が身を乗り出してくる。

 フラットで華奢きゃしゃで細くて、でも確かにそこにいる重みがまたギシリ。

 それで俺は、思わず気圧けおされてのけぞってしまう。

 まことの声がキッチンから戻ってこなかったら、危なかったかもしれない。


「英斗、気をつけろ。その女、ビッチとかいうタイプかもしれん!」

「あ、酷いなあ。っていうかまことクン、ちょっと失礼だぞ?」

「フン、どうだか」


 包丁を固く握り締めたまま、まことは再び行ってしまった。

 危うく流血事件の修羅場になってしまうところだった。

 そして、やっぱり愉快そうに沙恋先輩は笑う。


「冗談だよ、冗談。初めてじゃないと言ったのは、昼間の乱痴気騒らんちきさわぎのことさ」

「ああ、そのこと……」

「学園を仕切ってるハナには、敵も多い。どうしても実力行使を試みる連中があとを絶たないのさ」


 ――だから、ボクがハナを守ってる。

 そう沙恋先輩は言った。

 そこには、嘘もいつわりも感じられない。俺みたいなぼんくらでも、それくらいはわかった。

 と、思う……多分、そうだと思いたい。

 実際でも、沙恋先輩は底が知れない不思議な人だ。


「もっと、こう言えばいいかな? ボクはね、ハナに恩義がある。好きなのもあるけど、これは恩返しみたいなものさ」

「な、なるほど。そういう……す、好き!?」

「そうさ。キミと同じだ。ハナが好きだ、たまらなくいとしい」


 わかる、凄くよくわかる!

 ……あ、あれ? いや、共感してる場合じゃなかったな。

 いやでも本当に、なんだろう。ハナ姉からは人を魅了する不思議な空気が発散されているんだよ。それは甘やかで、マイナスイオンみたいに誰彼だれかれ問わずいややして魅了するんだ。

 名は体を表す、正しく橘花華たちばなはなかは咲き誇る一輪の花なんだ。


「ちょっと待って下さいよ、ハナ姉は……渡しませんよ! 言い方はあれだけど、えっと」

「わかってるとも。キミの話はハナから聞かされてるからね。……キミのことを話す時だけ、彼女は……ハナは」


 不意に沙恋先輩は、寂しそうな笑みを浮かべた。

 それも一瞬のことで、あっという間にいつもの不敵なすまし顔に戻る。


「それはそうと、英斗クン。キミ……ファーストキスはまだかい?」

「なっ、なにをやぶからぼうに」

「ハナのために取ってあるのかい? まさに取っておきだね。でも……ボクも欲しくなっちゃったな」


 ひんやりとした沙恋先輩の手が、ほおに触れてくる。

 いよいよ赤く燃えて、夕日が俺たちの影を壁に刻みつけていた。

 ジュウジュウといい匂いがしてきて、どうやらまことは料理に集中しているみたいである。つまり、助けてはくれない。

 率直に言って、俺は貞操の危機を感じた。

 目の前にいるのが、しなやかで獰猛どうもうな肉食獣に思えた。


「え、遠慮、します」

「ん? ああ、昼間のことを気にしてるのかい? ちゃんと歯磨きしておいたよ。エチケットだからね」

「そういう意味じゃなくて……こう、キスって特別じゃないですか!」

「そうだね。ボクもキミも、特別ってことでいいんじゃないかな」

「おっ、俺はそういうのは、嫌です。好きな人同士でやるものだって思うし」

「じゃあ、あとはキミがボクを好きになればいい。ボクは……とっくにさ」


 まずい、なんて雰囲気だ!

 なんていうか、人生で初めてのピンクな空気である。しかもそれが、憧れのハナ姉じゃなく、性別不明の謎の先輩だなんて!

 ドギマギと落ち着かないまま、時間が無限に引き伸ばされてゆく。

 過ぎ去る1秒が、酷く長く連なっていった。

 でも、俺はどうにか震える手を沙恋先輩の両肩に置く。


「せっ、先輩」

「ん、いいよ?」

「その……もっと自分を大事にしてくださいっ!」

「……うん?」

「なんでそんなに自棄やけっぱちというか、すれてるのかわかんないんですけど! 先輩だって女の子なんですから!」


 うん、多分女の子だ。きっと多分、恐らくそうなんだ。

 少なくとも今は、そう扱いたい。

 それって多分、俺じゃなくてもそうすると思うから。

 けど、やっぱり沙恋先輩は笑った。

 屈託くったくなく、それでいて妙に乾いた笑みだった。


「まったく、キミってやつは……さて、長居してしまったね。まことクンの料理も気になるけど、そろそろお邪魔虫は退散するよ。ああ、そうそう」


 立ち上がった沙恋先輩は、クイクイと指で手招きする。それで俺は、言われるままにスマートフォンを渡してしまった。

 そして、俺は何故か恋人のより先に、謎の先輩のLINEラインアドレスを手に入れることになったのだった。

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