日出卜英斗は動けない
華やいだ昼休みの空気が、不穏にざわつき凍ってゆく。
生徒会一行の前に
その中央、一際大きな男子生徒がズズイと前に出た。
うろたえる周囲とは裏腹に、ハナ姉は動じた様子を見せない。
「
ビリビリ空気を震わせ、張り上げた声が伝搬してゆく。
声そのものが衝撃波であるかのように、誰もがおのずと身を反らして後ずさった。
だが、ハナ姉は穏やかな笑みで応じる。
「押忍ですっ、ごきげんよう。空手部の部長さん、でしたね。どうかされましたかぁ?」
「おっ、押忍……ど、ども」
「あっ、そうでした! 追加予算の申請をされていたんですよね」
「そ、そうであります! 我が空手部にも是非、もっと予算を――」
俺はその時、見た。
この目で確かに目撃した。
ハナ姉は慈母のような笑顔で、無情な決断を口にした。
それはもう、容赦なく、言い
天使の声音で、死神の一言が放たれた。
「却下です」
「……は?」
「先日審議したのですが、申請は受理されませんでした」
「ぐっ、なっ、ななな、
「多数の生徒から苦情が届いているんですよ? もぉ、空手部さん? 強引な部員の勧誘は、めっ! って言いましたよね?」
「なんと……では、予算は……
ひたすらにかわいいハナ姉とは裏腹に、空手部部長さんの表情が急変する。もともとゴツくて
周囲の空手部員たちも焦り出す程に、空気が険悪に濁ってゆく。
そして、俺の袖を不意に隣の
「さて、どうしようか?
「どうする、って」
「よく考えて。キミはハナの彼氏クンだろう? だったら――」
「だったら! 考えるまでも、ねえっ!」
そう、俺に考えてる余裕もなかったし、その余地もありはしない。
まことごと沙恋先輩を置き去りに、俺は廊下の影から飛び出した。
そして、転がるように走って自分をハナ姉の前に押し出す。
死ぬほど恐ろしかったが、ハナ姉を案じる気持ちのほうが
「ま、待てっ! ハナ姉に……副会長に手を出すなっ!」
「うん? ……新入生か? ふむ……俺はただ、副会長と話をしているだけだが?」
そうは言いつつ、部長さんはバキボキと拳の指を鳴らし始めた。
それで思わず、俺もわずかに身構えてしまう。
背後からは、なんとも
「あれぇ? ヒデちゃん? どうしたの、こんなところに。部活の見学かなあ」
「それは、その、ええと……内緒! でも、今は、ハナ姉を! 守る!」
顔が熱くて、舌がもつれる。
酷く気恥ずかしいけど、俺は自分に迷いだけはなかった。
ただ、遅れてきた恐怖心に膝がガクガクと笑う。皆が俺をヤンキーだ不良だと言うが、それは誤解だ。そう、俺は日頃から喧嘩なんてしたことないし、有段者と
かといって、いつもみたいに逃げるのは嫌だった。
売られ慣れてる喧嘩から逃げるのは、一人の時だけで十分だった。
「ああん? 貴様、なんだその目は!」
「目つきが悪いのは生まれつきだ! それより、ええと、先輩! 暴力はやめてくれよな」
「これは暴力ではないっ! 正当なる意思表示、副会長への、いわば威嚇!
「それを暴力っていうんだよ!」
俺は
痛みが熱を連れてくる。
そのまま俺は、踏ん張りが効かずに廊下の隅に吹き飛んだ。
無様なことに、そのまま壁に激突してズルズルと崩れ落ちる。
すぐにぽてぽてと、ハナ姉が駆け寄ってきた。
「ヒデちゃんっ! だっ、大丈夫?」
「イチチ……なかなか刺激的だな、高校生活ってやつは」
「もぉ、やりすぎです! 空手部さん、ヒデちゃんに謝ってください! それと――」
ズシン! と床が揺れて、巨大な影が俺たちを包む。
俺はハナ姉の膝に抱き上げられながら、怒りに身を震わせる
けど、立てると思ったし、実際立った。
どんな時でもハナ姉を守る、それが幼い頃からの俺の誓い。
それを共有するまことをチラリと見て、視線で制止する。
ここは俺が、俺だけでいい。
それに、もうガキの頃とは違う。取っ組み合いの喧嘩なんかしなくても、きっと先輩も拳を収めてくれる
「ほう、貴様……立ちよるか! ならば」
「ちょ、ちょっとタンマ! 先輩、そんなことするから予算がおりないんじゃ」
「問答無用っ! 我が
「滅茶苦茶だ! ハナ姉、下がって!」
そういえば、とふと思う。
スローモーションで拳が
さっき
まさか、逃げたのか?
というか、この状況をわかっててなにを……そう思った瞬間だった。
不意に空手部の先輩が「んごぁ!」とマヌケな声によろけた。
そして、ゆっくりと巨体を揺すって振り返る。
そこには、腕組み片足立ちの沙恋先輩が立っていた。どうやら背後から、膝裏を蹴っ飛ばしたようである。その細い針金みたいな右足を、ゆっくり沙恋先輩は下ろした。
「はいはい、そこまで。まったく……キミはいつも粗暴で野蛮だね」
「ぬっ! 貴様は……またお前か! 二年の
「そうさ、空手部。このボクが助っ人部部長、狭宮沙恋だよ。そういう訳で、ハナを今日も助けさせてもらうね? ついでに、そこの英斗クンも」
俺はついでですか、そうですか。
しかし、まずい。
ひょろひょろな沙恋先輩と眼の前の巨漢とじゃ、子供と大人くらいの差がある。それに、なんとなく沙恋先輩が体力弱いのは、先程購買部の混雑でも見たような気がした。
こういう時、女の子を守って戦うのが男の子だ。
今どき前時代的と言われても、そういう価値観は普遍なのだ。
少なくとも俺の中ではそうだ。
沙恋先輩が男か女かは、この際問題じゃない。
「沙恋先輩っ、逃げてください! ここは俺が、俺が……」
「俺が? ふふ、どうするんだい? 英斗クン」
「俺がっ! 殴られます! 殴られながら、説得してみますから!」
「――ハハッ! キミ、面白いねえ。ま、黙って見てなよ」
空手部の部長さんは怒り心頭で、容赦なく拳を振り下ろした。
沙恋先輩の頭上に、鉄拳が落下してくる。
まるで隕石のような一撃だったが、
次の瞬間には、一歩踏み込んだ沙恋先輩は肉薄の距離。そうして、
そして、全てが止まった。
呼吸も鼓動も、もしかしたら時間さえも。
ニヤリと笑った沙恋先輩は、実に
「暴力反対だよ? だって、愛がないからね。ふむ、キミもそうかな……愛が、足りてない」
そう言って、沙恋先輩は……キスした。
突然、空手部部長の
美女と野獣のくちづけが、周囲を無言の絶叫へと誘う。誰もが声にならない声をあげようとして、口をパクパク開け閉めするしかできなくなってしまったのだ。
そう、チューである。
それも、たっぷり十秒以上のディープなやつだ。
そして、ガクン! と空手部部長は膝から崩れ落ちた。
「――ぷあっ、ふう! ごちそうさま、空手部クン」
そのまま骨抜きになってしまった空手部部長に、慌てて部員たちが駆け寄る。
それを横目に、沙恋先輩はちろりと赤い舌で唇を舐めた。
小悪魔なんてもんじゃない、魔王か魔神か、その両方だ。沙恋先輩がなにをしたのかが、俺にはわからなかった。キスしたのは見てたが、キスでなにをどうしたのかがわからなかった。
ただ、俺の背中にしがみついてたハナ姉が、首だけ出して声をあげる。
「沙恋ちゃん! だ、駄目だよぉ……またそんなことして」
また? ハナ姉、またと言ったのか?
つまり、これが初めてじゃない?
その証拠に、沙恋先輩は悪びれずに近付いてきた。
あまりにも堂々としてて、
「ハナ、怪我はないね? 生徒会諸君も大丈夫みたい。なに、ボクが好きで勝手にやってることだよ? 助っ人部に任せて、ハナたちはハナたちの仕事を頑張ってほしい」
――助っ人部。
沙恋先輩が部長を務める、この御統学園の部活らしい。ボランティア部みたいなものだろうかとも思ったが、やることなすこと過激過ぎる。
俺は昼休みの終わりを告げる鐘を聴きながら、
生徒の自主独立を尊重する御統学園では、外の世界とは違う
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