木登り勇者ガンボの物語

バスチアン

ガンボ、生まれて初めて耳かきをされる


大陸の彼方にある大森林の奥深く。文明の光が木漏れ日程度しか届かぬ遠い地の果てに青年はいた。

目の前には一本の大木。尋常ではない大きさだ。何しろ丸一日登り続けてまだ半分ほどしか到達していないのだ。彼の部族では『神の木』と呼ばれている。天を衝くほどに高いその幹にしがみつきながら、彼は少しずつ頂上を目指していた。

額には玉のような汗。その汗をぬぐいながら彼は足元を見ると地上の木々が針のように小さく見える。


「うひゃ~、スゴイ高さだな」


落ちれば到底命などない。その光景にブルリと小さく身を震わせ青年は気を引き締めた。彼の名はガンボ。王国の人間からは森の民と呼ばれる部族の一人だ。彼はとある目的のために神の木を登っている。


「さぁ、もう少しだ」


頂上は見え始めている。だが、勇み足は禁物だ。ペースを上げるどころか、ガンボはそこからこれまでの倍の時間を使い『神の木』を登る。

眼下には地平線。それを一瞥し、彼は樹木の最も高い部分にある最も陽の光を浴びた一番柔らかい枝に手をかけると腰にあるなたで刈り取った。

そして天にかかげて叫ぶ。


「取ったぞぉぉっ!!」


彼の声は空に溶け込むように消えていく。

こうしてここに森の民に新たな勇者が誕生した。





その日、森の奥では宴が行われていた。森の民は毎年この時期になると成人の儀を執り行う。16才になった男子は一同に集められ『神の木』の頂上を目指すのだ。

とはいえ『神の木』は途方もなく高く、頂上まで登り切れるものはまれだ。いちおう一番低い枝にまで到達すれば成人として認められるので、ほとんどの若者はそこで諦めて帰って来る。中には二番目に低い枝まで昇る者もいないではないのだが、そこまでだ。この年は違っていた。それがガンボだ。


「やったな、ガンボ」

「まさかお前が神の木の枝を取って来るとはなぁ」

「五日も戻ってこないから死んだもんだと思っちまったぜ」

「日陰に生えたメンキの木みたいにヒョロっちかったお前が勇者とはなぁ」


大人たちはガハハと笑いながら、バンバンと彼の背を叩く。

ガンボの背は高いが線が細く、手足が長い。

そのせいで少し離れてみるとひょろりとした印象がある。


「もう、いつのことを言ってるんですか」

「悪い悪い、ガハハハ」


小さい頃のガンボは小柄な少年で仲間たちと歩いていても一番後ろを歩いているような子どもだった。それが10才を超えたあたりからドンドンと背が伸び、今やその身体能力は里の中でも一、二を争うものだ。

今のガンボは22年ぶりに『神の木』を登り切った勇者なのだ。

そんな大人たちの称賛を心地よく浴びながら、ガンボは注がれるままに酒を胃袋へと流し込む。


「美味いですね」

「そうだろ。王国産の葡萄酒だからな」

「ってか、お前? 呑み慣れてるな。今まで隠れて飲んでただろ」


大人たちはガンボの飲みっぷりを見てガハハと笑う。飲酒が認められるのは成人の儀を乗り越えたものだけなのだが、その辺りはご愛敬。ごくまれにだが成人の儀を乗り越えられない者もいるし、女性ならば16歳を超えれば飲酒を認められるので、そこまで五月蠅く言われることはない。

しかし勝利の美酒は格別だ。

成人の儀は特別なものだが、ガンボは更に特別な想いを持ってこの儀式に挑んでいた。そして勝利した。今や彼はこの里の勇者なのだ。そう思い、葡萄酒を一気にあおる。


「美味いなぁ」


大森林の中では取れない葡萄という果実で作られた酒は普段は味わうことの出来ないものだ。酩酊感に身を任せようとしたとき、声をかけるものがいた。

精悍な顔つき。ガンボと同じくらいの長身だが、その手足は丸太のように太い。今日をもって明確に二番に格付けされてしまった幼馴染のガジベだ。


「よぉ、ガンボ。やったじゃねぇか」

「ガジベ……」


ガジベは酒を飲んでいるのか赤銅色の肌をさらに赤くさせてガンボに抱き着いた。


「5日も帰ってこないから心配したぜ。まさか頂上まで行って戻って来るなんてなぁ~」

「ガジベだって、やろうと思ったらやれただろ?」

「さぁ、どうかな? でも実際に登ったのはお前だ。だからお前はスゴイんだよ」


ガンボの記憶ではガジベは『神の木』の中腹まで自分と同じくらいのペースで登っていた。他の者が一番下の枝で引き返していったにも関わらず、ガジベは自分同様に頂上を目指していた。だからこそ最後まで登ってくるものだと思っていたのだが、幼馴染の青年は途中で踵を返して下りだしたのだ。


「どうして引き返したんだ?」

「あ~、そうだなぁ~。何ていうか怖くなっちまったんだよ」

「怖い? ガジベが?」


それはガンボにとって意外な言葉だった。彼の知る幼馴染の青年は同年代の中でもリーダー的な存在で、どんなときでも率先して仲間を引っ張っていく頼りがいのある男だからだ。


「ああ、そうだよ。人間守るもんが出来るとダメだな~」

「守る?」

「そうだよ。家族とか仲間とか、里の皆かなぁ」

「家族と仲間……」


その言葉を聞いてガンボは調子に乗っていた自分を恥じた。今日自分は成人の儀を乗り越えた。それはつまり大人の仲間入りをしたということだ。これまで守られるだけだった立場から守る立場に変わる。だと言うのに、自分は木登りにばかり夢中になってそんなことは考えもしなかったのだ。


「やっぱりガジベは凄いな。俺にとっての勇者はやっぱりガジベだよ」

「何だよ急に?」

「俺は成人の儀のことばかり考えていて、大人になったら何をすればいいのかなんて考えてもいなかったからさ」

「何言ってるんだ。これからはお前も一緒に里を護っていくんだろ。期待してるぜ、勇者様」

「ああ、任せてくれよ」


二人して王国産の葡萄酒を注ぎ盃を交わした。そんな宴もたけなわといったとき、里長さとおさである老人は現れた。


「里長」

「爺さん」

「うむ、二人とも頑張ったな。特にガンボ。もう20年以上取って来るもののなかった神の木の枝を取ってくるとは正直思わなんだ」

「は、はい、頑張りました!!」

「だろ? すげえよなぁ、爺さん」


ガチガチに緊張しながらガンボは答え、ガジベはそれを称揚しょうようする。


「何じゃ、ガンボ。そんなにかしこまって?」

「あ……いや」


ガンボの両肩には常以上に力が入っていた。その理由は里長の隣にいる少女にあった。


「やったじゃない、ガンボ」

「う、うん」


少女は微笑みながら語り掛ける。

美しい少女だ。

健康的に焼けた肌にすらりと伸びた手足。伸ばした黒髪は若さを象徴するように艶やかだ。

彼女の名前はリナリア。里長の孫であり、ガンボとガジベの幼馴染だ。


「それに比べてガジベは情けないわね」

「うるせえよ」


リナリアの叱咤にガジベは不満げに唸る。そんなリナリアの姿を見て、ガンボは息を飲み込んだ。

彼女がこれほど美しくなっていると気がついたのはいつのことだっただろうか。ガンボの背が伸び始めた頃から、彼女も蝶が蛹を破るようにして美しくなっていった。そうして気がついたときガンボはいつもリナリアを目で追っていた。すっかり好きになってしまっていたのだ。


とはいえ今や彼女は里で一番の美人だ。自分とは幼馴染ではあるが、そもそも狭い里の中では同年代の子どもは全員が馴染みである。

だから彼は決心した。もしも成人の儀で『神の木』の頂上まで登り切り勇者の称号を得ることが出来たら彼女に求婚しよう。

単なる幼馴染では彼女にとても釣り合わないが、それが勇者となれば話は別だ。周囲とて納得するだろう。

ガンボは握りこぶしに力を入れ、身体の震えを握りつぶした。


「あ、あの……リナリア」

「ん? 何? ガンボ?」

「いや……実は、その」


自分と結婚して欲しい。

そう言うつもりだった。

しかしそのときガンボは周囲の視線が自分たちに注がれていることに気がついた。だがそれも当然だ。宴も最高潮に盛り上がった瞬間、勇者となった自分と、里長、里で一番の美人に、もともと若者の中心的な存在であったガジベが一堂に集まっているのだ。

それで注目を集めないはずがない。

その多くの視線にさらされて、成人の儀を受ける前から固めていた覚悟がグラリと揺らいだ。


「あ、いや……実はあとで話があるんだ」

「後で? 何かしら?」

「あ。後で言うよ」

「そう、分かったわ」


リナリアは小首を傾げるものの、花のように微笑むとガンボの言葉を了承した。それを見てガンボはとりあえずこれで良いと納得する。本当はこの場で求婚出来れば格好いいのだが、自分はそもそも剛毅な性格ではない。これだけ衆目の目が集まった場所でキチンと想いを告げることが出来るか言われれば怪しい所だ。

今はこれで良い。

それに今日は月が綺麗だ。こんな綺麗な月の下で愛の告白をする。それも随分とロマンティックじゃないか。臆病な自分に言い訳をした直後のことだった。


「それにしても今宵は本当に素晴らしい夜じゃ」


一同の視線が集まる中、里長が口を開いた。


「里に新たな勇者が生まれた。ガンボが22年ぶりに神の木の枝を持ち帰ったのじゃ」


その言葉に周囲に出来た人垣から大きな声が上がる。そのどれもがガンボを賛美する言葉だ。それを聞きガンボの身体は感動で震える。

そう、今の自分は里の勇者なのだ。


「それに今宵はもうひとつめでたいことがある」


里長はさらに続けた。


「皆も知っておるだろう。我が孫娘であるリナリアと、ガジベ。この二人が夫婦ななるのだ」


…………え?


今、何と言った??

ガンボが驚愕に表情を歪める。

慌てて目の前の二人に視線を向けると恥ずかし気に頬を染めるリナリアにいつものように剛毅に笑うガジベの姿がある。

周囲からは歓声が上がった。宴の最初に自分に向けられたものと同種の声。つまりここにいる皆が二人の結婚を祝福しているということだ。


「驚いたろ? ガンボ」

「あ……ああ、そうだね……」

「そうだガジベ。子供が出来たらガンボに名前をつけてもらいましょう」

「おお。そりゃあいいな。勇者のつけてくれた名前だ。きっと丈夫な子に育つぞ」

「ああ……うん、任せてよ。お、おめでとう……ガジベ、リナリア」


笑顔を浮かべる二人にガンボは強張った笑みで何とか祝福の言葉をかけた。





宴の翌日、ガンボは死にそうな顔をしながら里の外れを歩いていた。

頭が痛い。昨晩はやけ酒だった。幸いにも酒代は全部里が持ってくれるので潰れるまで飲み続けることが出来た。そのまま記憶がなくなって倒れたはずなので、リナリアとの約束もうやむやに出来たはずだ。


「あ~、もう死にたい気分だ」


鬱々としたながらガンボは歩く。人生の絶頂から転げ落ちた気分だし、実際にそうなのだろう。自分は勇者となったのだが、それはそれ。惚れた女は自分とは違う男の元へと嫁ぐのだ。それが里の誰もが認めるガジベならば文句の言いようがない。


結局あの後、里の誰もがガジベを祝福していた。若い者たちをよく纏め、頑強な身体を持ち容貌も良いガジベが里長の孫をもらうことになんの非難があろうものか。勇者などと言われようが、ガジベに比べれば自分などしょせんは木登り名人に過ぎないのだ。


「里を出よう」


ガンボは呟いた。以前から里を出入りしている冒険者の男に仲間にならないかと勧誘を受けていたのだ。しかしリナリアのこともあるし、里を離れるには勇気がいる。だからこそ今まで断っていたのだが、もうこれ以上里にいれる自信がない。


「そうだな。しばらくして落ち着いたら出ていこう」


ここで今すぐに旅立つと即断出来ないところに想い人と結ばれなかった原因のひとつがあるのだが、それにガンボは気がつかない。身体は丈夫になっても、精神的にはまだまだ仲間の一番後ろを着いて歩いていたガンボのままなのだ。


「まずは二日酔いの薬だな……」


彼がこんな里の外れを歩いているのも、薬をもらいに行くためだ。薬師の老婆は古くから里の外れに住んでいる妖怪のようなババアだ。ガンボが小さい頃からすでにババアだったし、両親も同じことを言っていた。噂ではあるが里長が小さいときにはすでにババアだったという話すらある

正体不明の老婆。

それが薬師のババアだ。

ガンボは目的の薬師のババアが住むいおりを見つけると扉に手をかけた。


「遅かったのう、ガンボよ」


ガンボの顔を見るなり薬師のババアは口を開いた。相変わらず枯れ木のような顔をしていると思いながらもガンボは頭をさげた。

昨日より勇者となったガンボだが、この老婆には頭が上がらない。それどころかこの薬師のババアはある意味で里で一番の実力者と言っても過言ではない。

何しろこのババアの薬の世話になっていないものなどこの里にはいないし、命を救ってもらった者も少なくない。木登りで勇者になった自分と違い、このババアは本当の意味で里の守護神なのだ。


「まずは二日酔いの薬が必要じゃのう。これミリア、取ってこい」


ガンボの顔を見るだけで二日酔いを判断すると、ババアは隣にいる娘に声をかける。それを聞き、初めて自分以外の人間がいることに気がついたガンボは大いに驚き、その娘がミリアであることにさらに驚いた。


「えっと、オババ様、これですか?」

「うん、そうじゃ、それでよい」


まだ幼さの残る少女が壺に入った薬を持ってくるのを見て、ババアは鷹揚おうように頷いた。

しかしガンボはそれどころではない。

二日酔いが吹き飛ぶほどに大いに驚き目を見開いた。


「ミリア……どうしてここに?」


黒髪を肩で切りそろえた少女ミリアはリナリアの妹だ。数年前のリナリアの生き写しのような姿をした彼女は頬を上気させると控えめな声でガンボに答えた。


「あの……わたし一年前から、オババ様の手伝いをしていて」

「そうだったのか?」


それは初めて聞く情報だ。意外そう眉を上げるガンボなのだが、ババアは逆に驚いた声でガンボに問い返した。


「何じゃ、ガンボ。お前、昨日の話を覚えておらんのか?」

「昨日の話?」


言われてガンボは思い出す。そういえば、昨晩の宴にも出席していた。何しろ『神の木』の枝につく若葉は薬の原料にもなる。

なのでガンボがババアと宴で会話していたとしても何の不思議もないのだが、その内容を全くもって思い出すことが叶わない。

それを察したババアは仕方がないとばかりに再びガンボに話し出した。


「一年前からミリアは儂の弟子となっているのじゃ」

「そうだったのか?」

「は、はい……まだまだ未熟ですが」

「そうじゃな。しかし筋は良い。時間をかければ儂の技を引き継ぐことが出来るじゃろう」


言いながら、ババアは枯れ木が揺れるように笑う。対するガンボは、まだまだ長生きするつもりのババアの宣言に乾いた笑いを浮かべた。


「しかし儂が長年かけて編み出した技術を身に着けるには多くの修行が必要じゃ。そのために今日はお前を呼んだのじゃ」

「はぁ……」


ミリアのことはもちろん、今日呼ばれていたことすら覚えていなかったガンボだがそれをらしたりはしない。彼女が差し出した薬を水で飲み下す。

無論ミリアとは目を合わさない。彼女の顔はあまりにも昔の姉に似ているので、正視すると泣いてしまいそうになるからだ。しかしそんなガンボに追い打ちをかけるようにババアは言った。


「そこでお前にはミリアが一人前になれるように施術の練習台になってもらう」

「練習台……ですか?」

「そうじゃ。儂が身に着けた秘儀の数々はどれも効果的だ」

「はぁ……」


それはもちろん知っている。何しろ自分もこれまでに何度となく世話になっているのだ。病気になれば薬草を煎じてもらい、骨を折れば継木をしてもらい、中には病巣を直接取り除く秘儀までもこの老婆は持ち合わせているのだ。


「しかし効果的であるが故に、幾度とない練習が必要になる」

「はぁ……」

「そのためにも施術を受ける人間が必要なのじゃが、相手が誰でも良いというわけではない。何しろ儂の技の中には危険なものもいくつかある。身体の弱い者が試しに受ければ逆効果になってしまうものものう」

「はぁ……」

「そこでお前じゃ」

「はぁ?」


薬師のババアに指さされ、ガンボは口を半開きにした。それを見てババアは首肯する。


「ふむ、どうやらまず耳を治す必要がありそうじゃな。ミリア、耳掘り用の箱を取ってこい」

「は、はい、分かりました」


ババアに指示されたミリアはバタバタと慌ただしい様子で黒い木の箱を持ってきた。小さいがどっしりとした質感の箱だ。

ババアはそこから木で出来た一本の棒を取り出した。

指で摘まめる程度の細さ。その先は匙のように広がり浅いくぼみを形作っている。


「あの、それは?」

「うむ、これよりこの耳掘り棒でお前の耳の穴を掘る。昨日結んだ約束も聞き取れないような聞こえの悪い耳をな」

「うぐ……」


誤魔化し切ったつもりだったのだが、どうやらババアにはお見通しだったようだ。

ババアは枯れ枝のような細い指で耳掘り棒を摘まんで構えると、床に座したガンボの隣に座る。そしてその隣にはミリアの姿があった。


「では、ミリアよ。耳掘りのやり方を教えてやろう。これは詰まって聞こえの悪くなった耳の穴のゴミを取る技じゃ。しっかと見ておくが良い」

「はい、分かりました」

「いや、オババ。いきなり始められても困るんだけど……」

「黙っておれ。動くと危ないぞ」

「わ…………わかったよ」


鋭い眼光で一喝されてガンボは押し黙った。こうなると里で逆らえるものなど誰もいない。すぐ隣でミリアに耳の穴を見つめられることに居心地の悪さを感じるが、それももう仕方がない。

諦めたガンボは改めて横目でババアを見た。ババアは普段から細い目をさらに細く引き絞り、狙いをつけるように耳掘り棒を構えている。

ガンボは耳掘りというものがどういうものなのかよく分かっていないのだが、耳に何らかの処置をするということは理解出来る。

恐らくあの細い棒を使って何かをするのだろう。そんなことを考えたのと同じタイミングだった。


「では、行くぞ」


ババアの声が厳かに響く。

同時に細い何かがガンボの右の耳穴に入り込んできた。


「こ、これは!??」


耳の穴の中に異物を挿入されるという出来事にガンボは目を見開いた。

ババアの指先から耳かき棒を通して振動が伝わる。

同時にチリチリとした感覚。最初は耳が痛みを感じているのだと思った。だがこれは違う。

これは生まれて初めて味わう感覚だ。


細い棒の先についた匙の先端。それの発する振動が耳の穴を這うようにして奥へと進んでいく。

入口の方からゆっくりと、徐々に徐々に奥の方へ。まるで獲物を狙う狩人のようにジリジリとガンボの耳の奥にあるを狙っている。


「オ、オババ……これは!?」

「黙っておれ!」

「は、はい」


薬師のババアが放つ鋭い眼光に射抜かれガンボは口を閉ざす。何しろ今自分の耳の中には突起物が差し込まれているのだ。これはもはや命を握られているのも同然と言える。


そしてその突起は容赦なくガンボの耳の穴の中をあばき立てた。

まず攻めたてられたのは耳壁の上面だった。そこは入口近くでありながら太い指では決して届きえない場所だ。

その届きそうで届かない不可侵の領域にババアの握った細い凶器が突き刺さる。


ズクリッ!


大きな音が耳洞に鳴り響いた。

匙の先端が塊となっていた耳垢を突き崩したのだ。

今までに聞いたことのない音。だがそんな音にガンボが驚いたのも一瞬だ。何故なら次の瞬間にはさらなる未知の感覚がガンボに牙を剥いてきたからだ。


ババアの枯れ果てたはずの指がしなやかに動き、匙の上に乗った耳垢をズリズリと引きずりながら体外へ排出する。

耳壁に押しつけられた耳かき棒の先端が弱い部分を引っ掻いて、心地の良い痛みがガンボの神経を走り抜けていった。


「ほれ、これがお前の耳の穴に入っておったのじゃ。こんなものが巣くっておっては人の話も聞こえておらんし、覚えてもおらんわのう」


薬師のババアの口が枯れ木に開いたうろのように開き、不気味な笑い声をあげる。しかし差し出された耳垢の塊を見たガンボはそれどころではなかった。


「うわっ……これは」


耳掘り棒の先端に乗せられた耳垢の塊は予想を遥かに超えて大きかった。

そして汚い。

小指の爪の先ほどの大きさのそれはこげ茶色のねっとりとした塊だ。幸い異臭などはしないのだが、あまり長く見ていたいものではない。


「ミリアよ、これがこの約束を満足に覚えておらんうつけ者の耳垢じゃ」

「あ……はい」

「実に汚い……が、このうつけは少々特別じゃな。この里の耳垢は本来もっと乾燥しておるものなのじゃが、稀にこういう粘質性の垢の者がおる」

「はい……」


ミリアのまっすぐな視線がガンボの耳垢を捉える。その様子にガンボは羞恥に襲われた。

この耳垢はいわば自分の排泄物だ。それを他人にまじまじと見られるというはあまり気分の良いものではない。しかもそれが先日失恋した女性の妹となればなおさらだ。

頼むから汚いとか言わないで欲しいというのが、ガンボの本音だ。

しかしガンボのそんな胸の内など知っていても恐らく無視するであろうババアは、次なる施術を始めていた。


「こういう場合はこれを使う」


ババアが次に取り出したのは金属製の棒だ。太さと長さは先ほどと同じくらいのだが先端が違う。

先ほどのものは匙のようなくぼみがあったのだが、今度のものはそれがなく先端が二又に分かれていた。

ババアはミリアから差し出された綿を受け取ると、器用にそれを先端の部分に巻き付けていく。

そしてそれを構えると無造作にガンボの耳の穴に突き入れた。


「…………っぅ~」


耳を掘られる異様な感覚に声が出そうになるもののガンボはそれを必死にかみ殺した。

フワフワとした綿の塊がくすぐるようにガンボの体内に侵入してくるのだ。


これはたまらない。


もしも隣にミリアがいなければ確実に情けない声を洩らしたいたことは間違いがないだろう。

ババアはガンボの耳の孔に耳掘り棒を指し込みながら「ここまで入れても大丈夫だ」などと見本を示している。その間にも棒を介して微細な振動が加えられ耳道の汚れを綿がふき取っていく。

先ほどの匙の硬さと比べて綿の感触は柔らかだ。それが少しずつ奥に入る度に秘部を暴かれるような異質な快感がガンボの脳を揺らしていく。

ババアの手首がクルリと返され綿が半回転した。


「うぅぅ……」


綿の毛先の一本一本がベタリとした耳垢に絡みつく。

さらにそこから二度三度と抜き差しが行われる。


「っぁ……ぅああ」


もう我慢など出来ない。

ガンボは声を洩らした。棒の先に巻き付けた綿が出し入れされる度に痒さとも痛さとも違う“ある種の快感”が脳天からつま先まで駆けおりてくる。

震えが起き全身が粟立っているのをガンボは感じていた。綿は耳壁を擦りつけるたびに何度も付け替えられ、その度に汚れた綿が衆目に晒される。もちろんミリアの目にもだ。

だがもはやガンボにはそれを気にする余裕はなくなっていた。

そうして自分の耳の孔の中を何度も面でぬぐわれ、その度に白い綿がまっ茶色になる。

拭われた部分はスッキリとした爽快感の後に、ドクドクと血が通い熱を持っていくのが分かる。それがたまらなく心地よい。


「うむ、こんなものじゃな」


ひとしきり耳垢を取り終えた薬師のババアはうなづいた。

床に広げられた紙の上には汚れた面が小山になって積まれている。

ガンボは自分が何処にいるのかも忘れて放心していた。

凄まじい経験をしてしまった。

昨日の『神の木』を登り切った歓喜も、失恋の傷心も、二日酔いの苦しみも、何もかもが吹き飛んでしまった。

そんなガンボを正気に戻したのもやはりオババの言葉だった。


「では、ミリアよ。次はお前がやってみるのじゃ」

「え?……ミリアが??」


驚きの声を上げる。

だがババアの言葉はしごく当然だ。耳の穴はふたつあるし、そもそもそのためにガンボは呼ばれたのだ。


「ほれ、さっさと支度せんか」

「は、はい……」


ババアに急かされてミリアは慌てて耳掘りの棒を手に取った。その先端は微かに震え緊張しているのがガンボにも分かる。


ミリアはガンボの左側に立ってゆっくりと近づく。こうして横目で彼女の顔を眺めると本当に昔にリナリアによく似ているとガンボは思った。

確かリナリアの四つ下のはずだから、今は12才だ。昔は姉の後を着いて来ているのをよく見たが、ここ数年はガンボ自身狩りの畑や手伝いをするようになったせいで、ほとんど会う機会もなくなっていたのだ。


「じゃ、じゃあ、ガンボさん……始めますね?」

「ああ……うん」


控えめなミリアの声にガンボは首肯する。リナリアにそっくりな彼女の顔を見ても不思議と先ほどまでには悲しい気持ちにはならなくなっていた。

耳掘りのせいで気持ちが落ち着いたのかもしれない。これならミリアとも自然に接することが出来るだろうと想い、ガンボは左耳を彼女に差し出す。


「は……始めます」


小さな声でミリアは宣言する。そして匙がついたタイプの耳かき棒をガンボの耳孔にゆっくりと差し入れ



「うぎゃぁぁーーーー!!!!!」



大森林にガンボの悲鳴がこだました。


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