翌日も、翌々日も、その次の日も、同じような日々の繰り返しだった。ただ、彼女が作っていく料理のメニューが変わるだけ。

 だから鏡太郎が弓子の部屋を出たのは、なにも弓子のせいではない。どちらかというと鏡太郎自身のせいと言えるだろう。

 このままでは、まともな人間になってしまいそうだった。まともな人間になって、弓子と生きて行ってしまいそうだった。

 それを鏡太郎は、したくなかったのだ。

 鏡太郎が家を出て行くとき、弓子は泣いた。

 「お金ですか? だったら私、もっと働くから……。」

 出て行こうとする鏡太郎の腕に自分の腕を絡ませ、弓子が言う。その腕の絡ませ方だって、余りにも控えめで理性的すぎる。多分彼女がわあわあ泣きわめきながら刃物でも取り出したら、鏡太郎だって考えを変えていた。

 それでも彼女は、そっと鏡太郎の腕に自分の腕を乗せるだけだから。

 「金ではないよ。」

 鏡太郎はそれだけを答えた。

 出て行くなんて馬鹿みたいだ。分かっている。この家は居心地がいい。弓子に乗っかって行けるところまで行くのが正しいヒモのあり方だ。

 それでもそうできないのは……。

 「金ではないよ。ただ、昔のことを思い出しすぎる。」

 馬鹿だと思う。茜が鏡太郎に料理を作ってくれたことなんかないし、こんなふうに密やかに腕に触れてきたこともない。

 それでも。

 なぜだかここにいると、茜のことばかり思い出す。

 「昔?」

 「そう。昔。」

 もう、一億年くらい前のこと。

 「幸せになりなよ。」

 馬鹿みたいな台詞だったけれど、ヒモがその飼い主に残せる台詞としては、最上級のそれだと思う。

 俺なんかのことはすぐに忘れて、幸せになりなよ。

 「なれない……。」

 ぽろぽろと、一重まぶたの黒い両目から、弓子がいく筋もの涙を流す。

 「なれるよ。」

 と鏡太郎は応じた。

 「髪を切って、地味な化粧もやめちまって、そうしたらあんた、十分きれいだから。」

 本気の言葉だった。それが分かったのだろう、弓子は泣いたままで鏡太郎の腕から手を離した。

 「ありがとう。」

 囁くように言って、弓子が手の甲で涙を拭う。

 「薄くなったわ。あれ。」

 あれ。

 もう消えるどころか薄くもなりはしない、弓子の傷跡。

 鏡太郎は、思わず照れて笑った。

 「そっか。よかった。」

 自分にはなにもできないのだと分かっていても、それくらいのできるふりはしてもいいだろう、と思ったりして。



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