ネクロイロイロ
春海水亭
1.血まみれボーイ・ミーツ・ボーイ
***
ネオンの光は哀れだ。
まるで王様のように夜闇の中でけばけばしい極彩色の主張を行っても、太陽の光にあっさり掻き消される程度のものにすぎない。
輝けるのは闇の中だけだ。こいつらみたいに――遠目のネオンサインの看板を見ながら、ヤスハルは自分を慰める。
繁華街、冷たく重い雨は華やかな街の片隅にも平等に降り注ぐ。
時間は七時を僅かに過ぎ、通わされている塾の開講時間から一時間は過ぎている。本来ならば学習塾の安くて硬い椅子に座り、学校の教師よりも熱心に唾を飛ばす塾講師の顔を見ているはずだったヤスハルは今、複数の不良に囲まれ、路地裏に転がされている。
「ヤスハルくんさァ……経済の基本知らないの?勉強頑張ってるんでしょ?」
這いつくばるヤスハルに見せつけるように、薄ら笑いのカゲユキがヤスハルの財布を広げていった。レシート、小銭、図書館の利用カード――ヤスハルの財布の中に、お目当ての紙幣は無い。
「お仕事を頑張ってるお母さんからヤスハルくんがお小遣いを貰う、そのヤスハルくんから俺たちがお小遣いを貰う、その金で俺たちが遊ぶ……そしたら、経済回るでしょ?ヤスハルくんも痛い思いしないし、俺らも楽しく遊べるし、ウィンウィンじゃん。けどさ」
カゲユキは勢いよくヤスハルの背を踏みつけた。
げぇっ――潰された蛙のようにヤスハルは呻き声を上げる。
「金がすくねぇよなァッ!?ヤスハルくんさァッ!?」
薄ら笑いは消えていた。カゲユキは怒りに任せてヤスハルの背を勢いをつけて何度も何度も踏んでいく。
「ヤスハルくんって算数は苦手なのかなぁ?」
「ちゃんと数を数えられないとカゲユキ先生の体罰補修だぜ?」
カゲユキの取り巻きはそれを止めることもなく、ただ嘲り笑っている。
「難しいこと言ったかな俺さァ!一万円だよ!一万円!ちょっと財布からパクってくりゃいい額だよォ!?それがナニ?五百ゥ!六十ゥ!二円ン!?ヤスハルくんのおうちでは紙幣が流通してないのかなァ!?それとも俺をナメてんのかなァ!?」
無数の靴跡が雨水と共にヤスハルの背に刻み込まれていく。
それはヤスハルの立場を表す烙印のようだった。
ヤスハルとカゲユキは同じ公立高校に通う一年生同士である。
ただ、ヤスハルは学校を学校とみなしていたのに対し、カゲユキは学校を狩場とみなし、自身の嗜虐心と財布の飢えを満たすために、常に獲物を探していた。
肉食獣がまず狙うのは弱った動物か、群れから離れた動物だ。
ヤスハルはクラスという群れに馴染めなかった。
さらに特別に成績が良いというわけでもなければ、家庭環境が良いわけでもない。
だからカゲユキも肉食獣がそうするようにした。
カゲユキの狩りは二週間前に始まり、そして今ヤスハルを這いつくばらせるところに至っている。
「ヤスハルくんさ」
五分ほどヤスハルを踏みつけた後、カゲユキが急に足を動かすのを止めて濡れた地面に尻をつけないようにしゃがみ込んだ。
そして目線をヤスハルに合わせ、猫撫で声で言った。
「俺さ、結構ヤスハルくんに優しくしてんの。こんな踏みつけなんてさ、ちょっとだけ激しいマッサージみたいなもんだよ。でもさ」
カゲユキは立ち上がり、振り子のようにヤスハルの脇腹を蹴り上げた。
踏みつけられて蛙のような呻き声を上げたヤスハルは、今度は声さえ上げることが出来ずに悶絶し、制服が汚れるのも構わずにのたうち回った。
「ヤスハルくんがお金くれないなら、お金くれないなりの工夫をこらした遊びをするしかないじゃん?俺ら三人だとサッカーは出来ないけど……パス回しの練習とかは出来るしさ」
カゲユキの後ろで取り巻きの二人がおどける。
「ヤスハルく~ん、サッカーボール買いに行くからお金ちょうだい!」
「ま、お金が足りなかったら……野球をしたくなるかもしれないけどさ!」
取り巻きの二人は顔を見合わせて笑った。
カゲユキは再びしゃがみ込み、ヤスハルの髪の毛を掴んで顔を向けさせた。
「たっぷり想像力を働かせろよ?お前が金を持ってこなかったらどうなるか、とお前が金を作る方法についてだ。親の財布がイヤだって言うなら知らねぇ奴の財布でもいいし、万引きでもいい……バイトするならバレないように気をつけろよォ?俺らの遊ぶお金欲しさってのは多分バイト許可の特例にはあたらないだろうからさァ」
最後にカゲユキはヤスハルの顔を思いっきり地面に擦りつけた。
そして、ヤスハルの財布から小銭を抜き取ると空の財布を持ち主の顔に放り投げた。
「次はこの空っぽの財布に中身を入れてこいよ」
取り巻きとの笑い声だけを残して。
五分ほどヤスハルは一人で震えていた。
恐怖もある――だが、それ以上の怒りがある。
圧倒的な理不尽に対して、自身は抗う術を持たない。
「……い」
呟いた一言は強さを増す雨音に掻き消された。
ヤスハルは立ち上がり、繁華街の表通りへと戻っていく。
墓標のように立ち並ぶ灰色のビル群は、ネオンの厚化粧を塗りたくられて活気のあるフリをしているが、人通りは少ない。
その僅かな人ですら、視線をスマートフォンに落としヤスハルのことを気にしない。
どうしようか、ヤスハルは考える。
カゲユキ達のこともあるが、塾のこともある。今から行っても間に合わないし、かと言って家に帰るわけにもいかない。どちらにせよ、今日塾を休んだことは母さんの知るものとなるだろう。
塾を休んだことを知れば、理由も聞かずに母親は獲物を絞め殺す蛇のような陰湿さで言葉の鞭を振るうのだろう。
だが、その相手は僕じゃない。
母さんは死んだ父さんの姿を僕に見ている。
そして、死んだ父さんに向け足りなかった分の憎しみを僕にぶつけている。
――私の金を特別にアンタに使ってあげてるの。あんな男にならないように。それがなに、親子の縁切りたいの?けどね他人になるならアンタに使った分の金を今すぐ返してから出ていきなさいよ。
母さんが何をいうか、わかりきっている。
母さんは臨機応変な会話なんてものはしない、状況に合わせて自分の言いたい言葉を吐くだけだ。
いっそ、ここではない場所に行きたかったけれど、僅かな小銭すらカゲユキたちにもっていかれてしまった。
当てもなく彷徨っている内に雨脚が強まり、ヤスハルは思わず空を見上げた。
厚い雲に覆われた空は鈍色の天井のようで、伸びやかさを失った閉塞感はヤスハルの現在によく似ていた。もっとも空はそのうち晴れるだろうが。
どこかへ行くことも出来ない、帰るわけにもいかない。
図書館の閉館時間は近い、いたところで意味は無いだろうがそれでも――そう思いかけたところで、ヤスハルは気づいた。
財布の中に図書館の利用カードが入っていない。
カゲユキたちに奪われたか――それはないだろう。
図書館の利用カードなど街に住んでいれば誰にでも作れる、わざわざ奪う必要はないし、嫌がらせで奪ったとしても再発行は可能だ、意味がない。
だとすれば――ただ単にあの路地裏で落としたのかもしれない。
心の中にほんの少しだけ安堵が生まれる。
何の意味もなく街をさまようことは辛い――それでも、図書館の利用カードを拾いに路地裏に戻るというのは惨めでも意味のある行為だ、自分自身に対する言い訳が効く。
似たような街並みが続く通りを、ぼんやりとした記憶を頼りに戻っていく。
痛めつけられた少年に対する憐憫も侮蔑もこの時間の街にはない。
少々の時間をかけて路地裏に戻ると、さっきまでの自分と同じように誰かが這いつくばっていた。
その地面をべったりと赤いもので濡らして。
何をするべきか、ヤスハルにはわからなかった。
血だ――自分の中の冷静な部分はそう言っている。
だが、その量が尋常ではなかった。
一人の人間が具体的にはどれほどの量の血液を失えば死ぬのかはわからないが――その赤は一人の人間が死ぬには十分すぎる量のように思えた。
現実味がない。
ドッキリであるとか、ドラマの撮影であるとか、そんな希望的観測がいくつも頭をよぎる。
通報すれば良いのか、して良いのか。
何かの間違いだったらどうしよう。
けど、多分死んでいる。
聞けばいいか。
倒れてる人の肩を叩いて「もしもし、死んでますか?」って聞いて「死んでますよ」って言われたら死んで、いや生きているのか、返事がなかったら死んでいるでいいのかな、でも生きていても返事をしないことって出来るよな、僕だって無視されることあるし。それに返事があっても死んでいるとは限らないもんな、昔はそういうことだってあっ――様々な思考が渦巻き、結局のところ、ヤスハルは一番馬鹿みたいな行動を選択した。
「……あの、すいません死んでますか?」
ヤスハルは倒れている人間の側にしゃがみ込み、その肩を叩いた。
結局どうするべきかわからないまま、なにもしないことは選べなかった。
うつ伏せになっているためにわからないが、自分と年齢は変わらないように思えた。
「……っのさ」
「っ!?」
倒れた少年から微かな声がして、思わずヤスハルは飛び上がった。
死体が動いた――否、そもそも死んでいなかったのか。
思わず、逃げ出しそうになるのを堪え、ヤスハルは尋ねた。
「生きてますか?死んでますか?」
「……ハハッ、死んでたら返事するわけないじゃん、あのさ、俺のバッグから注射器取って、どこでもいいから打ってくんない?」
「注射器……?」
言われてみれば、側にバッグが落ちている。
ヤスハルはバッグのファスナーを開き、思わず固まった。
複数のペンのような形の蓋の付いた注射器。中身は既に入っているようだった。
それだけならばいい、だが――黒光りする銃が入っている。
そしてナイフ――その刀身がヤスハルの驚愕の表情を映している。
「クスリを……打って欲しいんだけど」
「大丈夫な……クスリなんですか?」
関わってしまったことをヤスハルは心の底から後悔した。
そして、思わず逃げ出したくなって――しかし、その手は注射器を持っていた。
「そのクスリを打ってもらえないと、俺、死んじゃうからさ」
ヤスハルには何もわからなかった。
いや、唯一これだけはわかっている――絶対に関わらないほうがいい、逃げるべきだ。
それでも、ヤスハルは倒れた少年の腕に注射を打っていた。
このまま放っておけば少年が死ぬことは嘘ではないように思えた。
それに――誰かに頼られたことなど、もしかしたら人生で初めてだったかもしれなかったから。
「……助かったよ」
***
この物語は、少年が死ぬところから始まる。
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