第63話 熱

「ゆうちゃん!」


 校門を超えたところで、後方から名前を呼ばれた。

振り返ると、手を振りながら駆けてくる裕貴が見えた。


「今日この後空いてる?」


「うん」


「じゃあさ」


「多摩川行く?」


「分かってるね」


 見えるのが目元だけでも、裕貴が大きく笑っているのが分かる。


 分散登校とオンラインでの授業がすっかり定着した二学期、非日常が少しずつ日常へと、スライドしつつあった。


 侑子と裕貴が登校する曜日は重なっていて、二人は短い在校時間の後、直帰せずに河原に立ち寄ることが多かった。


もちろん、歌うためである。


 部活動は相変わらず再開の目処は立たない。音楽スタジオは営業している店舗に客が集中するのか、以前よりも予約が取りづらかった。


「弁当持ってきた?」


「うん」


「俺ちょっとコンビニ寄っていい? 昼飯買ってくる」


 二人はいつもの河原で、昼食も食べる。これもすっかり日常だ。


 感染症が蔓延する以前よりも、乗車率の減った電車に揺られ、最寄り駅で降りる。


その間二人の話題に上がるのは、音楽の話ばかりだ。あえて流行り病の話題は避けている。二人の間の、暗黙の了解だった。




***




「寒くなってきたよね」


「来週から冬服だもんな」


 空の弁当箱をリュックにしまうついでに、侑子は薄手のパーカーを取り出した。制服の白シャツの上から羽織ると、素肌を守る柔らかな生地の感触に、どこかほっとする。


「今日はそっちから歌って」


 裕貴の奏でる旋律で、侑子はすぐにどの曲か見当がつく。


二人は交互にギターと歌の担当を変える。時には二人で声を重ねながら。


今日のボーカルトップバッターは侑子だった。曲は裕貴が書いたものだった。


「ああ、気持ちいい」


 歌い終わりの音が、侑子は特に好きだった。始終軽快な調子の曲で、歌っていると、明るい気分になってくる。


「今年学園祭があったら、絶対にこの曲やりたかったよね」


 再びマスクをつける。歌い終えたらすぐに装着することが、もはや癖だ。なんの疑問も持たないその行為が、たまに不気味に感じる。


「そうだね」


 裕貴が笑いながら相槌を打った。


「まあ仕方ないよ。学園祭、どこの学校も軒並み中止でしょ」


「合宿もなかったし、お祭りもなかったし、ライブにも行けなかったね。なんだか夏休みって感じしなかった」


 侑子は今年の夏を振り返った。

並行世界への手紙を書くことがなくなったことも手伝って、やたら時間の余った夏休みだった。虚無感をごまかすために、音楽ばかり聴いていた気がする。


「俺はゆうちゃんとここで沢山歌う時間があって、結構充実してたけどな」


「それはそうだけど。でも真夏はさすがにキツかったよね。暑すぎて」


「ああ。確かに熱中症一歩手前だった」


 汗だくになりながら、二人は夏の間もこの場所に足繁く通ったのだった。

この場所以上に、周りを気にせず大声で歌える穴場は、ないように思えた。


「次、何の曲にしよっか。野本くんの番だよ」


 ストラップを肩にかけながら、侑子は話題を切り替えた。


「どうする? 久しぶりに洋楽カバーでも……」


「ゆうちゃん」


 言葉を遮られて、侑子は首を傾げた。


声のトーンが落ちた裕貴の声は、知らない人のように感じる。乾いた低音が、やけに余所余所しい。


何か深刻な話でも、振られるのだろうか。


「どうしたの?」


「……」


 真剣な眼差しが、侑子の目を捉えていた。マスクで顔半分が隠されているので、否応なしに目線同士が真っ直ぐにぶつかる。


「野本くん」


「……ああ、くそっ」


 にらめっこに負けた子供のような台詞を呟いて、裕貴は下を向いた。

しかし顔は笑っていない。


すぐに侑子に戻した視線は、辛そうに歪んでいる。


「今日話そうって、決めてきたんだ」


 逸れそうになる視線を戒めるように、裕貴はぎゅっと拳を握り込んだ。


 一羽の白鷺が、川の中州に降り立った。

それを視線の端で捉えた侑子が、「あ」と指さそうとしたところを、裕貴の手が制する。



 侑子の右手は、裕貴の右手に絡め取られていた。


大きく、長い指だった。


「好きだ」


 やや力を入れて握られた手が、裕貴の体温を伝えてくる。


「ゆうちゃんのことが、ずっと好きだった」


 視線を上げた侑子の瞳は、僅かに前髪がかかった裕貴の黒い瞳を映した。


顔を上方へ傾けないと、彼の顔を見ることは出来ない。


初めて出会った時には、変わらない背丈だったはずの裕貴は、いつの間にか随分背が伸びていたし、声も低くなっていた。


「好きだよ」


 繰り返されるその言葉は、特別な誰かのために音となった、感情の欠片である。


裕貴が自分に対して、その感情を持っていることは、以前から知っていた。


それなのに、いざ本当に音として耳が捉えると、侑子の心は動揺したようにざわざわと揺れるのだった。


――なんで考えて来なかったんだろう


 裕貴からの愛の言葉を耳にしている傍らで、侑子は後悔の念に苛まれていた。


――気づいていたのに。こうなった時のことを、なんで今まで考えて来なかったんだろう。甘かったんだ。野本くんのことを、ちゃんと考えてこなかった


 真っ直ぐ見つめてくる裕貴の視線に、居た堪れなくなって、侑子は俯こうとした。


しかし、裕貴の声がそれを許さない。


「こっち見て」


「野本くん、私は」


「俺は全部欲しい。ゆうちゃんの今も、これからも」


 握る手は強く、振りほどく気力すら挫けさせようとする意思を感じさせた。


「手塚勇輝がゆうちゃんにとってどんな人なのか、話してもらおうって思ってた。でもやめておく。ねえ、こっち見てよ」


 今度は視線は外していないはずだった。


二回目の裕貴の『見て』は、視線のことを指した言葉ではないのだろう。


 切実なその響きに、侑子の心は大きく揺れた。


こんな風に強く自分を求める声を耳にしたのは、いつ以来だろう。真摯に見つめてくる裕貴の顔に、褐色の肌と緑の瞳が重なる。


――いけない。今はちゃんと向き合わないとダメ


 錯覚を振り払うべく、握られた手に力を込めた。言葉を紡ごうと唇を開こうとして、しかし僅かに早かった裕貴の言葉に、押し止められた。


「否定しないで。受け入れて」


 間髪入れずに、裕貴は畳み掛けた。


「どれだけ時間が掛かったって構わない。ゆうちゃんの中で、勇輝さん以上になれなくてもいい。だから俺を、君と一番近くで触れ合える男にさせて」


 二人ともギターを持っていたので、二つ分の楽器以上の距離を、詰めることはなかった。


しかし裕貴は握った侑子の手を引き寄せると、もう片方の手で自分と侑子のマスクを外した。


 自由になった肌が、秋風を感じる。


金木犀の香りが鼻を擽り、良い香りだな、とどこか他人事のように俯瞰していた。


 控えめに触れてきた唇は、一度離れてすぐに角度を変え、今度は強く押し当てられた。


体温を感じる。


――なんて熱いんだろう


 無意識に目を閉じると、余計にその熱が近くに実感できる。


唇を受け入れながら、裕貴との会話で、マスクのことを猿轡と喩えたことがあっただろうかと、侑子は記憶を遡っていた。

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