記憶の粒子③

「何だ今の」


 瞼を上げた紡久の目に一番初めに飛び込んできたのは、鏡の向こうから驚愕の表情を浮かべる自分だった。


鏡には、正彦の名が刻まれている。


「薬……?」


 うわ言のような呟き声が耳に入る。侑子の声だった。


「侑子ちゃん、今の」


「見えた? 今、紡久くんも」


 見開いた目の訴えに、紡久は無言で頷いた。


 侑子と紡久が目を閉じていたのは、ほんの数秒のことだったに違いない。


けれどその秒数と合致しない長さの映像と音声が、確かに二人の思考の中に流れ込んできたのだった。


 二人の様子に心配そうな声をかけてきた大人たちに、侑子と紡久はたった今自分たちに起こった不可解な現象について説明した。


「マサヒコとチーちゃんか」


 ラウトが壁の上で無機質に光る鏡に目を走らせた。


「二人の最後の記憶が、君たちには見えたのかもしれない」


「そんなこと……ああ、もしかしてこの世界ではよくあることなんですか?」


 侑子は思いついたように言った。


という前提のもとなら、納得できる気もした。


しかし、彼女の予想を裏切った返答が返ってくる。


「まさか。よくあることだなんて。少なくとも私はそんな経験をしたことはないし、周りでも聞いたことはないよ」


 固まった侑子に困った顔を向けてから、ラウトはリエとジロウを振り返る。二人も首を振った。


「けど俺は、納得できなくはないな。マサヒコさんとチエミさんのこの世に残った記憶の粒子が、同じ世界で産まれたユーコちゃんとツムグくんの二人に何らかの反応を示したってことなら」


 ジロウの言葉に頷いたのはエイマンだった。


「死んでしまった身体を分解して細かくしていく過程で、記憶や感情を内包した物質も肉体の外に出ていくと聞いたことがある。鏡に付着している物質の中に、そういったものが残っていたとしたら……君たちの魔力に反応したのかも知れないね」


「記憶の粒子? ……よく分からない。仕組みは全く理解できないけど、でも」


 紡久は正彦の鏡を見つめた。


 自分の顔と、その後ろには部屋の扉が見えた。


鏡の向こう側にももう一つの世界が広がっている。その世界の中にはまだ正彦が生きているような、そんな妄想がちらついた。あの扉の向こうの部屋で、椅子に座ってガーベラを眺めているのかもしれない。


先程見た映像の影響だろうか。妄想は妙に生々しかった。


「確かにさっき俺が見たのは、正彦さんとちえみさんの記憶だったんだって分かります」


 時間の経過と共に腑に落ちる不思議な感覚は、紡久の中で着実に根を下ろし始めている。


「私も……でも、だとしたら、こんなの悲し過ぎる」


 声が震えた。


侑子は続きの言葉を絞り出すまでの間、涙を堪えることができなかった。


「正彦さんは、自殺だったんですね」


「え?」


 瞬時に強ばるラウトの表情に、侑子は肩がすくんだ。


予想外の彼の反応に戸惑ったが、そのまま一気に言葉を続ける。


「そうとしか思えない……正彦さんは、ちえみさんと同じ場所に行きたがってた。瓶の中にカプセルを入れてました。あの栄養剤の瓶の中に。無属性の魔力をすぐに回復させることができたっていう、あの栄養剤です」


「俺もそう思います。正彦さんは、自分が勧めた栄養剤を飲んでちえみさんが死んでしまったと考えてた。とても自分を責めているように感じました」


 侑子の声は涙声だったが、彼女と紡久の声には揺るぎがない。ついさっき実際に見てきた光景を説明しているような迷いのなさで言葉が綴られる。


「……確かにあの頃のマサヒコは、チーちゃんの後を追ってしまってもおかしくない様子ではあったけれど」


 ラウトの声は震えていて、少し前までの穏やかで落ち着いた人物のなりを潜めていた。その様子から、彼が取り乱しているのだと分かった。


「私達には、マサヒコさんの死因は詳しく伝えられていないのよ。就労中の突然死としか。チーちゃんの時も同じ。報告は研究所職員……当時の空彩党党員を通じて受けたわ」


 夫の背中をさすりながらリエが補足するように言った。


「だからこの人は、あの栄養剤が身体に害を成す副作用があるんじゃないかって疑い始めた。でも……そうね、自死だったってことなら……そういう理由も十分にあったって、分かるわ……とても悲しいけど」


 出よう、と促したのはジロウだった。


 侑子は最後にもう一度だけ、沢山並んだ鏡の前で目を閉じた。今度は何の映像も音声も侑子の中に訪れることはなかった。


瞼を内側から見る時に見える赤黒い色が、ただ目前に広がるだけだった。


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