正解⑤

「指は痛まなくなってきた?」


 小さな背中に話しかけると、びくっとしてすぐに目を丸くした顔が振り返ってくる。

予想通りの反応に、つい堪えきれない小さな笑い声を漏らしてしまう。

 侑子はユウキの姿を認めると、ふっと恥ずかしそうに微笑んだ。


「サボってるとこ見られちゃった」


 侑子の前には数学の問題集と真っ白なノートが開かれていた。自習中だったようだが、問題を解いていた形跡は白紙のページの中に見つけられない。


「指はまだ痛くなるけど。ちょっと慣れてきたような気もする」


 ギターを始めたばかりの初心者であれば、誰もが悩む指の痛みである。

力の入れ加減や痛みそのものに慣れてくればいつの間にか気にならなくなるのだが、まだまだ侑子は過渡期のようだった。

無意識に痛む指先を親指で抑える癖がついていて、まるで影絵遊びの狐のような手の形になっていることがよくあった。


「分からない問題あった?」


 問題集を覗き込むユウキに、侑子は首を振った。

何か逡巡するような顔をして、思案顔のまま口を開く。


「数学の問題には必ず答えがあるもの」

「ん?」

「答えがどこにも見つからない問題って、どうやったら正解だって分かるんだろう」


 ユウキは侑子の隣に椅子をひっぱってくると、そのまま無言で彼女の隣に座った。


何も書き込まれていないノートに視線を落とす侑子の顔は酷く大人びていて、普段と少しだけ別人にすら見える。


「助けたほうがいいって直感で分かっても、助けないほうがいい時ってあると思う?」


 視線を上げて見つめてきた侑子の目は真剣だった。ユウキは質問の背景を掴めないまま考え込んだ。


「目の前で今にも死にそうだったら、相手の事情なんて考えないで迷わず助けるけど」


 そういう状況が過去にあっただろうかと記憶を漁った。一番心当たりがあったのは、やはりあの政争で混乱した日々だった。


「助けないほうがいい時……その判断で使える材料は、他人からは絶対に見えないと思うよ。とても個人的な、一人一人の心の内側の問題だから」


 思案しながら喋る時のユウキの声は低く、頬を撫でるそよ風のように耳あたりが良かった。


「もし相手が求めてきたら、応じるだけだ。でもさ、それより前に助けに行くか行かないかは、結局助ける側の気持ち一つだよ。正解はない。そもそも、行動してみて初めて正解だったかどうか分かることや、いつまでも正しかったのか分からないことばかりなんじゃないかな。人によって正解の判断基準もまちまちだ」

「……そうかも」


 侑子はふと考える。


 答えの分からないこの質問を、そもそもユウキに相談すること自体が正解だったのだろうか。


 侑子にとっていつだってユウキは『正』なのだから、彼に諸々の意見を求める事自体が侑子にとっての偏りの原因となるはずなのだ。


 しかし、もう遅い。侑子にはユウキの声が運んだ言葉に納得する他の選択肢がなかった。問題が難解であればあるほど抗えない。


「ユーコちゃんが自分で考えた方がいい問題かもね」


 侑子の胸の内を知ってか知らずか、ユウキは緩い笑みと共にそんな言葉で締めくくった。


「少なくとも俺は、ユーコちゃんの選択に賛同すると思う……君は俺にとっての、正解そのものだから」

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