正解③
その人は四十代の父よりも、二十才近く若い女だった。紡久の姉だとしても、全く不自然ではない年齢差だった。
長く父と二人だけだった家庭に、突然転がり込んできた女。服装も外見も大人しそうな印象で、特徴のない顔つきだった。
ところが喋ってみると、意外と我の強い性格をしていることが分かった。元々父とは仕事関係で知り合ったと聞いていたが、紡久の家に入り浸るようになった頃には、働いている気配はなかった。
当初はやけに若い女性だという驚きと、父のどこが魅力的にうつったのだろうと訝しんだだけだ。
しかし紡久の中で彼女に対する嫌悪感が大きくなるまで、そう時間はかからない。
最初に違和感を感じたのは、父親の前で見せる態度と、自分と二人きりになった時の態度に落差が激しいと気づいたことからだった。紡久が父親に彼女のことを、
「大人しそうだけど、荒っぽいところがあるよね」
と遠回しに言葉遣いの粗暴さを指摘したことがあったのだが、全く共感してもらえなかった。
そういえば自分と二人だけの時には、下品とも思える言葉を使うのに、父がいる場所では常に敬語だ。
まるで二重人格の人間を前にしているような不気味さを感じ始めた頃、父の鹿児島行が決まったのだった。
「鹿児島の中学に編入してから、二回くらいしか教室に行ってないんだ」
長い沈黙の後に再開した話は、やけに飛躍してしまったかと思った。しかし侑子は、相槌を打って聞いてくれているようだ。
「クラスの雰囲気は良さそうだったし、毎日通い続ければなんとかなったと思うんだけど……だけど」
再び言葉が詰まった。
新居の玄関ドアを開けると、いつもあの女の「おかえり」という声が聞こえた。
玄関まで出迎えた彼女の、自分を見つめる目が気持ち悪い。そう思ったのは、引っ越してきて一週間も経たない頃だ。
中三という中途半端な時期での転入というだけでも目立つのに、父親の年の離れた内縁の妻。
そんな家庭環境を、誰かに知られたくなかった。自分と同じ年齢の同級生たちと同じ空間にいたら、誰かに自分だけが異質だと指摘されてしまいそうで堪らない。
教室に足を運ぶことが恐ろしくて、編入してから数えるほどしか顔を出さなかった。
――中学留年だけは避けなければ
一日も早く高校へ進学する術を得て、埼玉へ帰る。
それだけを考えて、なんとか保健室まで這うようにして通う毎日だった。
そして、決定的な出来事が起きたあの日。
父の帰宅時間ギリギリまで、どこかで時間を潰しているべきだった。今更後悔したって仕方ないのだが。
女は、紡久の部屋へ入ってきた。
硬い床の上に組み敷かれた。
驚いて何も抵抗できないでいる紡久に、父の名を出し、脅迫するような口調で攻め立てる女の声が蘇る。
怒っているような声なのに、顔は艶っぽく笑っていて不気味だった。
剥ぎ取られた服。
露出させられた肌が感じた空気は冷たい。暖房をつける前だった。
笑いながら自分に跨ってくる女が、スマートフォンのレンズを向けてくる。それは深海魚の瞳のように、無感情な光を湛えていた。
――荒い呼吸 呻く声 喘ぐ音 生々しい音の数々を女は嬉しげに「卑猥」と表現した。
その二文字が顔の横で囁かれる度に、紡久は自分が何度も死んでいくのを感じた。
未遂、だったと信じたい。
思い切り突き飛ばした女が呻いて、そして罵声を叫びながら立ち上がったところまでは目にしたので覚えている。
般若の顔だった。
はだけた制服を完全に整えないまま、紡久は玄関に向かって狭い家の中を跳ぶように走った。
玄関のドアを開ける寸前。
目に飛び込んできた廊下の窓から見える景色は、馴染みのない鹿児島の町だった。
一応九ヶ月間毎日目にしていたはずの景色は、紡久に相変わらずよそよそしいのだ。
小さな絶望感を感じながら、紡久はドアへと手を伸ばした。靴をはいたかどうか、覚えていない。
海が近いからなのか、潮の香りが運ばれてくることがあったなと思い出す。
「紡久くん」
躊躇いがちに肩に触れた侑子の指先は、すぐに離れていく。
「大丈夫?」
「ごめん。やっぱ、また今度話す」
立ち上がった紡久は、侑子の方を見ずにサンルームから足早に出ていった。
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