針と糸④
今日は猛暑になりそうだった。そのため三人の女達はタープをたたみ、屋内へと戻ってくる。
魔法練習は侑子本人が気が向いた時にすればいいということでお開きとなったが、侑子は先程よりも幾分心が軽くなっていた。
昼食を作るというノマの申し出に、待ってましたとばかりにリリーが「よろしく!」 と返事をすると、彼女は侑子を自室へと案内した。
リリーの部屋。
そう、その部屋は、侑子が初めてこの世界に足を踏み入れた場所だった。
長く続く廊下の一番角に、その部屋へ続くドアはあった。
銀色の丸いドアノブは、侑子もよく見知った、ごく普通の物だった。ドアは焦げ茶色の木製で、何も飾りや装飾はついていない一枚の板だ。
「緊張してる?」
侑子の心は、リリーに簡単に見透かされた。
「ユーコちゃん、開けてみる?」
銀色のドアノブに釘付けになっていた侑子の視線が、少しだけリリーに移り、そしてまたドアノブに戻った。
頷いた侑子は、そっとドアノブを握ると、そのままそれを回しながら扉を開いた。
***
確かに期待していた。
そのドアを再び開いたら、その先には自分の部屋が広がっているのではないかと。
朝起きたそのままの状態で、ベッドの上のタオルケットは乱れたまま。枕元のぬいぐるみたちがこちらを向いて、笑っているのではないかと。
そしてそんな部屋を見て、やっぱり大丈夫じゃないか。やっぱり少し変わった夢を見ていたんだと、確信しながら足を踏み入れるのだ。
ドアを閉めようと後ろを振り返ると、そこにクリーム色の髪の女性なんていなくて、ただ毎日見ていた廊下の壁が見える。
そんなことを期待していた。
しかし、聞き馴染みのない他所の家のドアの開閉音を、耳がとらえた。開いたその向こう側には、昨日侑子が大きな戸惑いと共に目にした光景が広がっていただけだった。
侑子の自室より広い畳部屋。カーテンは鮮やかな赤や桃色の薄布を重ねた、見慣れない品物だ。ベッドは白い猫脚の形で、天蓋がついている。
知らない部屋だった。
「リリーさんのお部屋って、可愛いですね」
胸に広がる絶望を追いやろうと、無理矢理明るい声を出した。
「天蓋付きのベッドなんて、私初めて見ました」
心配そうな目線をリリーが送ってくるのは分かっている。それでもあくまで気にしていない風を装うつもりでいたが、そんな気負いはみるみるしぼんでいった。
「ユーコちゃん」
自分の名を呼んだのは、部屋の主ではなかった。
耳に馴染んだその声は、侑子がこの世界で一番たくさん耳にしていたもので、出会ってから二日しか時間を共にしていないとは思えないほど、安堵するものだった。
振り向いた侑子は、せめて涙は流すまいとこらえる。
我慢できたが、声は震えてしまったのが分かった。
「やっぱり私、帰れないみたい」
侑子を見下ろす若葉色の瞳の男は、その褐色の手で、そっと彼女の頭を撫でた。
リリーのしなやかな指先が肩を支えていてくれていたことに、侑子はその時やっと気づいたのだった。
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