歌声⑨

 その夜、柔らかい寝具の中で、心地よいい草の香りを感じながら、侑子はユウキが話していたことについて考えていた。


 ユウキが経験した悲しい子供時代の記憶も、魔法で声を変えるという感覚も、自分の歌声を誰かに認められる喜びも、侑子には分からないものだった。


 同じ夢を共有したことが、どんな意味を持つのか知らなかったとしても、ユウキが侑子にとって特別であることは、揺るぎない。彼がいなければ、侑子はこの世界で迷子のままだっただろう。


 ユウキは侑子に対して、強い謝意を示してきたが、侑子の方はいまいち実感がわかないのだった。


――私がユウキちゃんの人生を、良い方へ切り開く?


 並行世界の存在も、魔法が実在することも、もう分かっている。

世界も魔法も目に見えるし、触れることができた。


しかし侑子は、自分にとって一番近く、確実なはずの自分自身が、信じられないのだ。


――ユウキちゃんにはお世話になっているし、助けてもらったのは事実。何か返せるなら返したいけど、人の人生を切り開くなんて大層なこと、出来る気はしない……


 身体は疲れているはずなのに、目が冴えてしまった。

 何度か寝返りをうった後、侑子は諦めてベッドから起き上がった。


 広縁に立って、障子窓と更に外側のガラス窓を開けてみた。湿気を含んだ重たい夏の外気が、庭の草木の香りとともに入り込んで鼻をくすぐった。


 手前の欄干に寄り掛かるようにして見上げると、ちょうど空の中心に月があった。月は満月ではなかったが、大小のクレーターが描く模様は、侑子がよく知っているものと同じだった。


「月は同じなんだ……」


 もしかしたら全く同じ個体ではないのかもしれないが、侑子は自分がよく見知った姿の月を見て、どこかほっとするのだった。


「……もう本当に帰れないのかなぁ」


 声に出すと、抑えていた心細さと絶望感が、首を持ち上げる。


 朔也や母の顔が浮かんできて、目に涙が滲みだしたが、侑子は流れるままに任せようと思った。

抑えない涙はポロポロと頬を滑り落ち、寝間着や欄干に跡を作った。


 どうにかしようにも方法は分からない。

きっと元の世界には、戻れないと思った方がいいのだろう。並行世界のことを常識と捉えているこちらの世界の人だって、戻る方法は知らないようだった。実際に侑子と同じ立場の先人は、帰れなかったのだから。


 まるでたった一人会うことが叶う元いた世界の知人に縋るように、侑子は月を見上げて涙を流した。

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