見知らぬ街④

 侑子が男の外見を観察しつつ、思いを巡らせている間、彼は大きな鞄の中からタオルを取り出していた。


「手当てしていいかな?」


 侑子を不安にさせない為の、気遣いなのだろう。


優しい声音で許可を得ようとする。


それだけで恐怖ではちきれそうだった侑子の心は、じんわり暖かくなった。


 頷いた侑子を確認して、男は微笑む。


そして手に持ったタオルに視線を移すと、しばらく手元を見つめていた。


 そして次の瞬間――――



 男の手の周囲から、水が涌き出した。


何もないはずの空中が、突然蛇口になったような光景だった。


重力に従って下に落ちるはずの水は、そのまま男の掌の範囲を越えずに留まった。


透明で境目の見えない茶碗でも持っているのではないか――――そう疑った侑子だったが、そんなものはなかった。


生き物のように揺れながら、タオルを湿らせていく。


 信じられない行為を目の当たりにした侑子はすっかり固まり、涌き出す水が消え去った空中を、呆然と見つめた。


 男は濡れたタオルを、片手でぎゅっと絞った。

絞り出された水滴は、今度は素直に地面に落ちて、タイル張りの美しい路に点々と跡をつける。


「膝見せてね。土で汚れたところ拭くだけだから……どうしたの?」


 ベンチに座った侑子の正面に跪き、擦りむいて血が滲んだ膝に触れようとした。


男は手を止めて侑子を覗きこんだ。


「今の……今の、何ですか?」


「今の?」


「み、水が。水が何もないところから出てきて……あれは、一体なに?」


 みるみるひきつる侑子の表情を見て、今度は男の方が首をかしげる。


―――彼女は何を怖がっているのだろう?


 おそらく彼女が今たずねたのは、たった今自分がタオルを濡らした行為についてだろう。


一言で説明できるのだが、それだけでこの少女の恐怖を取り除くのは、不可能な気がした。


「大丈夫、ただの水だから。君に嫌な思いはさせない」


 出来るだけ簡潔に伝えたつもりだ。


表情を固くしないよう意識する。

笑みを浮かべて少女を安心させるよう、優しく触れた。


「……」


 ついさっき梅ジュースを飲んでいた時の緩んだ顔が、嘘のように消え去っている。

知らない少女だったが、子供がこんな風に怯えきった表情を浮かべるのは、胸が痛んだ。


――一体何があったんだろう


 少女の足についた土や砂利を、丁寧に拭き取り、優しく取り除いてやる。


時折血が滲んだ傷跡に触れて痛みに顔を歪めることはあっても、じっと座って大人しくしている。


汚れたタオルを洗うため、再び掌に水を呼んだ時だけ、目を見開いて怯えていたが――


「ごめん、ちょっとだけ滲みるよ」


 手短に伝えると、少女の右足を左手で押さえ、素早く右手を膝の傷口にかざす。


傷口を洗うために水を呼んだのだ。

水が触れたのが分かったのだろう、彼女は小さく悲鳴をあげて、腰を浮かそうとした。


「ごめんね、傷を洗いたいだけだから」


 どうやら害をなす人物には思われていないようだ。


今にも逃げ出してしまいたいという表情を浮かべているけれど、一度だけ小さく頷くと、そのまま大人しくなった。


 反対側の膝にも傷があったので、同じように洗ってやる。


かざしていた手を離すと、土で汚れた茶色い跡が消え、赤い血が滲んだ傷跡だけが残っていた。


「治癒には詳しくないんだ。申し訳ないけど、これで我慢してくれるかな」


 荷物から小さなケースを出すと、その中から絆創膏を取り出す。


こういうものはいつも持ち歩いていたほうがいいという、お節介焼きな同居人の勧めでバッグに入れっぱなしにしていたものだった。

役に立ちそうだ。

大きめの物だったら、傷をすべて覆い隠せるだろうか。


個包装から出して傷口に貼ってやろうとすると、思いもよらない言葉がかかった。


「絆創膏……!?」


 何やら絆創膏にひどく感激しているようだが、理由は分からない。


しかし先ほどまでの恐怖に歪んだ表情より、ずっと良い。

ほっとしたような顔を浮かべた少女を見て、自然と顔が緩む。


「あの、ありがとうございました。それくらい自分でやります」


 はにかんだように呟く少女は、傷口に絆創膏を貼り終えると、深く頭を下げてきた。


「本当にありがとうございました」

 

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