第3話 消えた侑子

 朔也がその電話に出たのは、ちょうど車のエンジンをかけたところだった。


朝から駐車していた車内は、サウナよりも熱気が籠っている。

窓を全開にして、しばらくエアコンも最大風量で回し続けなければ、熱は逃げない。


エアコンが全力で気合いを入れている。

唸るような轟音に邪魔されながら拾った叔父の声は、酷く焦っているようだった。


『ゆうちゃんがいない』

「え?」

『どこか行きそうな場所に、心当たりあるか?』

「……どういうこと?」


 前髪をかき上げる。


深く考え込むとき、落ち着かない時に、朔也が無意識にとる仕草だ。助手席に座っている彼の恋人は、よく知っていた。


 まだ車内には熱気が残っていたが、朔也はエアコンを弱めた。途端に轟音は静まり、代わりに外のセミの鳴き声が聞こえてくる。


 朔也は時刻を確認する。


午後八時半。侑子は七時を過ぎて外出することはない。


 よっぽど何か必要な用事がある時には、必ず朔也か叔父叔母の誰かに連絡を入れるように言い聞かせてきたし、今までそのようなことになったことは、一度もない。


「いなくなったって、家にいないってこと? 賢ちゃんちにも? 行き違いになったってことは」

『チャイム鳴らしても、スマホ鳴らしても、気配がなかったから合鍵で家に入ったんだ。エアコンはついてた。リビングの電気もついてた。スマホもあった。けど、ゆうちゃんはいなかった。おまえんちからうちまで、何度も往復もしてみた。うちにも来てない。それに……』


 電話の向こうで、賢一が声を潜めるのが分かった。


『多分ゆうちゃんは、自分では家から出てない。靴があるんだ。おそらく、全部。朔也、お前の革靴以外は。けどもしかしたら、見落としがあるかもしれない。帰ってきてお前に確かめてほしい』


――自分では家を出てない。自分では


 その言葉に、朔也はぞくりと背筋が冷えるのが分かった。


何もしていなくても汗が流れ落ちる程、今日は暑いはずなのに。


「わかった。すぐ帰る」


 通話を切った。


助手席に座る恋人を、気遣う余裕はなかった。

ハンドルを握りしめ、声を出した。

ひどく固い声だった。


「ごめん、今日は」

「何かあったの?」

「妹がいなくなった」




***




「ゆうちゃん……?」


 大好きな従姉妹の部屋には、電気が灯っていなかった。


 合鍵を使って父と家に入った時にはまだ明るかった外は、すっかり闇に包まれている。


いつもだったら『もう寝なさい!』 と母から急かされている時刻を、とうに越えていた。

今日はまだ風呂にすら入っていない。


両親も朔也も兄も、几帳面な弟すら、時間を忘れて青い顔をしていた。


もちろん自分も例外ではないのだが。


 窓から外を見下ろすと、パトカーが停まっているのが見えた。

その隣で警察官が、父や朔也と話をしているのが見える。

近所の人も集まってきているようだった。


 愛佳はカーテンをそっと閉めた。


 数時間前にこの部屋の前に来たとき、ドアは大きく開け放たれていたけれど、その先に人の気配はなかった。


 ほんの数日前にこの部屋で二人で遊んだ時に、セーラー服がかけられていたのを覚えている。


 侑子の通う中学の制服は、この辺では珍しくセーラー服だった。

愛佳が来年入学する中学は、すぐ隣の学区だったが、何の変哲もないブレザーだ。夏服はただの白シャツに、灰色無地のスカートなので、侑子の中学のセーラー服が可愛くて羨ましいという話をしたのだ。


『ゆうちゃん、セーラー服似合うよね』

『セーラー服に似合うとか似合わないとか、あるの?』

『三つ編みにセーラー服ってめちゃくちゃ合うじゃない! いいなぁ私も同じ中学だったら、絶対三つ編みにするのに』


 何もかかっていない洋服ハンガーを見つめながら、数日前のあの会話を思い出す。


あの後自分で自分の髪を三つ編みにできないと愛佳が言い出したら、侑子が教えてくれたのだ。


試しに編んでくれた指の感触がくすぐったくて、笑い転げる愛佳を面白そうに見つめながら。


おかげで自分で三つ編みを編めるようになったのが嬉しくて、ここ数日はずっとおさげにしている。


侑子と同じ髪型だった。


「ゆうちゃん、どこ行っちゃったの……」


 ついさっきまで侑子がそこにいたような気配を感じると同時に、得体の知れない謎の中に取り込まれていく感覚にとらわれて、愛佳はぎゅっと指を握りこんだ。



***



「嘘だろ」

「……」

「花火買ってきたのに」

「……」

「奮発したんだぞ」

「……」

「千五百円もしたのに」

「……遼」

「ゆうちゃんへび花火好きだから、喜ぶと思って……バラも買ってきたのに」

「……」

「暗かったら見えないから、そしたら明日やればいいと思って買ってきたんだ。きっと今日も夕飯食べたあと泊まってくんだろうし、朝にやっても楽しいだろうなって……」

「遼」

「……どこ行ったんだよ!」



***



 侑子の行方は分からなかった。


 賢一の言うとおり、彼女の靴はどれもなくなってはいなかった。


それどころか身に付けていたであろう中学の制服以外になくなっている服も、身の回りのものもなかった。


 自分の意思で家の外に出たのだとしたら裸足の状態か、誰かが外で準備した靴をはいたのだろうというのが、警察の見解だった。


 しかし侑子が家から出ていく姿はもちろん、付近を制服姿で移動する侑子の姿は、誰も見た者は出てこなかった。


 誰かに連れ去られた可能性もあったが、それにしては家の中で争った形跡も、荒らされた跡も何も見つからない。


不審者や見慣れない車の目撃情報は、結局何も寄せられなかった。


 まるで神隠しにでもあったかのように、ただ侑子の身体一つが、忽然と消えてしまったのだった。

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