第10話 津島先生

 聖矢せいやが教えてくれた番号に掛けると、呼び出し音が二回聞こえてから、


「はい。津島つしまでございます」


 品のいい女性の声が聞こえてきた。たぶん、聖矢の義理の母親だろう。大矢おおやは、改まった口調で、


津島つしま真澄ますみ先生のお宅でしょうか。津島先生が、東京で教鞭をとられていた頃にお世話になった、大矢と申します。突然ご連絡申し上げてすみません。あの。先生は御在宅でしょうか」

「少々お待ちくださいませ」


 丁寧に言った後、受話器を置いたような音がし、少ししてから、昔よく知っていた声が聞こえてきた。


「大矢くんですか? 津島です。久しぶりですね。元気にしていますか?」


 十数年前の学生なのに、津島は大矢のことを覚えていたようで、普通に話し掛けてきた。教師と言うのは、そんなにも記憶力がいいのだろうか。それとも、大矢が輝夜かぐやと一緒に行動することが多かったから、記憶に残っていたのだろうか。


「ええ。元気です。先生もお変わりなさそうですね。ところで、先生。実は、先生の息子さんが、今私の家に来ています。昨日の夜、偶然出会いました。行く当てもなさそうでしたし、警察に行くのは嫌だと言うし、名前も教えてくれませんでしたから、やむを得ず、です。ご理解ください。それで、これからのことを話し合いたいと思いますが……」


 その時、聖矢がソファから立ち上がって、走ってリビングを出て行った。どこへ行くかと思ったが、ドアが開く音の後にすぐ閉められる音がし、その後苦しそうな声が聞こえてきた。吐き戻しているらしいことが伝わってきた。

 大矢は、天井を仰ぎ、大きな溜息をついた。


「先生。あの子をお宅に帰すのは、難しいように思います。今、トイレに駆け込んで吐いてます。ここから、あの子を出したくないんですが、話し合いはしないといけません。お手数ですけれど、出来れば先生にこちらに来て頂きたいのですが」

「わかりました。今から行きます」


 即答だった。津島に、駅に着いたら電話してほしい、迎えに行く、と伝え、電話を切った。本当は、先に駅に行き、待っているのが筋かもしれない。が、とてもではないが、今そんなことをする気にはなれない。


 トイレのドアが開く音がして、それから、洗面所の水を流している音が聞こえた。大矢が洗面所に行くと、聖矢は振り返り、「大矢さん」と悲愴な声で言った。先程とは面差しがいっぺんに変わって、顔色も白くなっていた。


 大矢は聖矢の髪を撫でると、


「大丈夫だよ。先生がここに来てくれる。後で、一緒に迎えに行こう。おまえを一人にするのは、ちょっと心配だからな」


 聖矢の目に、涙が浮かび、こぼれ落ちて行った。声は出さず、ただ肩を震わせていた。大矢は、聖矢をしっかりと抱きしめて、


「大丈夫だから。悪いようにはしないから」


 泣き声を上げることさえ許さないような、そんな津島家に怒りを感じていた。

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