藍色の空の下で
天音 いのり
第1話
風が、止まった。
聞こえるのはただ、爆発寸前の鼓動だけ。
向かい合う二人。
視界の真ん中に君がいる。
ずっとずっと、追いかけ続けた背の高い、君が。
もう、追うだけは嫌だ。どうか私を見て。
口を開いたその瞬間、優しい声が世界を彩った。
柔らかい。
温かい。
甘酸っぱい。
そんな印象の声。私の大好きな声。
夢の中に迷い込んだように、我を忘れ、ただそこに佇んでいた。
*
「百瀬さん」
あの声で、現実に引き戻された。
声の主は宮川くんだった。
「ぼうっとしてたみたいだけど、何かを見ていたの?」
私は今、自席にいることを思い出した。視界にあるのは宮川くんの顔と、さらにその後ろの黒板だ。白く染まった黒板が深緑に甦るまで、ぼんやり眺めたまま返答を探した。
「黒板が」
「黒板?」
「段々綺麗になっていくなって…思って、見ていただけだよ」
我ながら酷い嘘だ。黒板が掃除される様子なんて、一ミリも興味ない。でも、乙女心全開で妄想していただなんて、口が裂けても言えない。しかもその妄想に宮川くんが登場したことだけは、絶対にバレる訳にはいかない。
「ふーん」
宮川くんはいかにも疑っていそうな目でこちらを見ていたが、しばらくして話題を変えてくれた。その際、何となくほっぺたが膨らんで見えたのは、気のせいだろうか。
会話が途切れて気まずくなった頃、またね、と手を振り背中を見送る。
緊張から解放された。
宮川くんの顔が、いつもよりも近かったように思う。
*
HR(ホームルーム)が終わり、身支度を済ませる。ふと、宮川くんの方に目をやると、彼はスマホと睨み合っていた。
一緒に帰りたいな、という儚い願望は捨てて私は教室を出た。
俯きがちに階段を下る。時々振り返っては横目で影を探すけれど、それは追っては来ない。
「今日は部活があるのかな…」
誰もいない廊下に、ボソッと独り言を零した。
「明日、また話せるといいな」
下駄箱の扉を開いて、脱ぎたての上履きを入れる。ローファーに履き替えて、扉を閉じた。
「百瀬さん」
右耳に、あの声がした。
顔を向けると、宮川くんが微笑んでいる。
「よかった、まだ帰っていなくて。渡したいものがあって…」
宮川くんが、なぜそこにいるのか。
脳内はそのことでいっぱいだった。
さっきまで、何度確認しても後ろには誰もいなかったのに。宮川くんは、教室でスマホを見ていたはずなのに。
また、妄想をしてしまったのかと思ったけれど、つねった手の甲が痛いので現実のようだ。
「え、あ」
何と言えばいいのか、頭が真っ白になる。脳内では普通に話せるのに。
「これ、この間貸してくれた傘。返すの遅くなっちゃってごめんね。ありがとう、助かったよ」
宮川くんが差し出したのは、藍色の折り畳み傘だった。
三日前の出来事が蘇る。
*
教室を出てすぐの廊下に、宮川くんの姿があった。
「わっ」
「そんなに驚く?傷つくなぁ」
「ごめん、もう帰っちゃったと思ったから」
お互い喋り慣れていないせいか、二言三言の会話しか続かない。けれど、他の人とは全く話せない私にとっては貴重な時間だ。
なぜだか、宮川くんの隣にいると自然な自分でいられるから。
自分を認めてあげられる気がするのだ。
「あ、雨」
「本当だ、朝は青空だったのに。結構降ってきたね」
先ほどから肌寒く感じてはいたけれど、雨には気が付かなかった。
「僕、傘持ってきていないや。雨が止んでから、帰ろうかな」
「私、一本持っているよ」
そういって鞄の中から藍色の傘を取り出しながら宮川くんに笑いかけると、彼は恥ずかしそうに俯いた。
それを見て、ようやく自分の言ったことを理解する。
「あ、相合傘のつもりで言った訳じゃなくて…」
言葉にしてしまったせいで余計に恥ずかしくなり、私まで目を伏せた。
しばらく二人で黙り込み、その場をやり過ごそうとするも下校時刻を告げるチャイムが鳴った。
「チャイム、鳴っちゃったね」
宮川くんが口を開いた。
「そろそろ帰らないと先生に怒られちゃうし、宮川くんも一緒に帰ろうよ。私の傘、二人くらい入れそうだよ」
自分で何を言っているのかぐらい、ちゃんと分かっている。男子を相合傘に誘っているのだ。けれど、自覚したらどうしていいか分からなくなってしまいそうだ。
顔がやけに熱い。
「そうだね、じゃあ傘に入れてもらおうかな。よろしくお願いします、百瀬さん」
生まれて初めての経験をした。
その後、宮川くんは私の家まで送ってくれて、そのまま私の傘を使って家まで帰った。
*
あの日、彼に貸していた傘が帰ってきた。
お礼のメッセージカードを添えて。
『百瀬さん
傘を貸してくれて、ありがとう。
沢山話せて楽しかった。また一緒に帰ろう。』
「今日も、一緒に帰っていい?」
私の隣から覗き込むようにして聞いてきた。
「うん、帰ろう。雨が降ったあの日のように」
藍色の空の下で 天音 いのり @inori-amane
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