喘ぎ泣く貴婦人
飯田太朗
第1話 依頼
「天空密室」の一件で傷心のままセントクルス連合王国に帰ってきた娘はしばらくの間休業した。グレアムくんの看護と自身の心の傷の治療に努めた娘は、やがて万聖節の二日前、ついに仕事を再開した。と言っても娘の顔にかつての輝きが戻ることはなく、どこか消沈した、悲しい顔をして娘はデスクに着いていた。私は彼女にかける言葉が見つからず、しばらく黙って娘の仕事についていった。変な気を起こさないよう監視をする意味と、娘の心に寄り添う意味とあった。私は娘にバレないう幸福の呪いを事務所の中にかけ、少しでも娘の気持ちが明るくなるよう仕向けた。しかし娘の心の雲は晴れなかった。毎日事務所に行き、小枝を拾うような小さな仕事を受け……大口の仕事は何かしら理由をつけて断っていた……そして家に帰るとグレアムくんにその日あったことを話し、僅かな食事をとって寝る。そんな日々を送っていた。
しかし娘に転機が訪れたのは、万聖節も懐かしくなった、秋から冬に変わろうとしていたある日のことだった。それはスコルチ地方の名士、マクファーラン家の長女の来訪によってもたらされた。
ドアにノックの音がした。娘は何だかしんどそうにその音に反応したが、私は有無を言わさず応えた。
「どうぞ」
客が入ってきた。一目で分かる。繊細な仕事が施されたドレス。ドアから入る時の優雅な仕草。名家の人だ、と。
「ごめんください」
その女性は一言断ると、部屋の入り口で立ち止まった。
「シャロン・ホルストさんの事務所はこちら?」
娘が答えた。
「そうですが……」
「大口の仕事は断っているとうかがっていますが……」
女性は胸に手を当て告げた。
「わたくし、スコルチ地方に暮らすマクファーラン家の長女、キャサリンと申します。この度は依頼があって参りました。この依頼、受けていただけるか不安なのですが……」
「立ち話も何ですので」
私は椅子を勧めた。キャサリンさんは素直に座った。
「それで、そう、依頼と言いますのは、妖精についてなんです」
私はぴくりと耳を動かした。妖精。場合によっては、私の管轄になり得る。
「バンシーという妖精はご存知?」
「家の妖精ですね。強力な妖精だわ」
私が答えると、キャサリンさんはほっと息をついた。
「そのバンシーに関することなんですの」
この間、娘は黙っていた。
「私の住むスコルチ地方は、沼や森が多く、妖精の伝承が多い地域ですわ」
「存じております」私はつぶやく。
「中でも『泣き女』という風習があったからか、バンシーの伝説は色々な形でございますの」
泣き女。
誰かの葬式の時に大声で嘆くことを専門とした女性だけの職業のことだ。例え親族だけの葬儀でも、泣き女だけは必ず招かれ、葬儀の間中、適切なタイミングで大声で泣き叫ぶことで悲しみを洗い流す、そんな役割が与えられた職業だった。確かにスコルチ地方では泣き女の風習は古くからあるとされる。そんな地にバンシーが……死にまつわる出来事が起こり得る家にやってきて、身の毛もよだつような大声で泣き叫ぶという妖精のバンシーが……姿を現すのは至極真っ当な話だった。私は話の続きを促した。
「ご存知の通り、バンシーは『これから死が訪れる』家にやってきて泣き叫びます」
「ええ」私は頷く。
「それがこの二年ほどですか。マクファーラン家の近くにある家で、次々とバンシーの目撃例が……それだけじゃございません。実際に大声で泣くのです。それも、ひどい時は立て続けに」
私は相次ぐバンシーの泣き声を想像する。きっと安眠妨害であることは間違いない。
「地元では『喘ぎ泣く貴婦人事件』と呼ばれています。本当に私の家の周りでだけバンシーが泣くのです」
そして、ついに……とキャサリンさんは続けた。
「先日私の家の近くでもバンシーが泣きました。万聖節の夜から三日過ぎた日のことです。スコルチ地方の中でも、私が住む地域は万聖節に船の守り神、妖精猫のケッテルを祀ります。ケッテル祭と呼ばれるお祭りです。そのお祭りの三日後に、私の家でバンシーが泣いたのです」
ケッテル祭では十年に一度……と、キャサリンさんは続けた。
「家猫に媚薬を嗅がせて、各家の猫に交尾をさせます。そうして産まれた子猫たちを、町全体で飼うのです。十年経てば多くの猫は死にます。そうして残った老年の猫たちにまた媚薬を嗅がせ、最後の交尾をさせて次の十年に備えるのです」
猫の体になっている私としては、媚薬を嗅がせて性交をさせるという風習がひどく淫らに感じられた。しかしまぁ、そういう地域もあるのだろう。
「今年はそのケッテル祭の年でした。私の家のキャティもケッテル祭に出したのですが……想像はつくかと思いますが、猫にだって気分がございます、思ったように交尾をしてくれないということもあるのです。なのでケッテル祭は万聖節から一週間、期間をとるのですが、その中日、三日目にバンシーが泣いたのです」
キャサリンさんはひどく困ったような顔をした。その顔は浮腫んでいて、目元には泣きはらしたような皺があった。かわいそうに、とても困っているのだわ。私がそう思った時、ずっと黙っていた娘が口を開いた。
「最近そのキャティはどうしていますか?」
「いないんですの」
キャサリンさんは大きなため息をついた。
「ケッテル祭の後です。妊娠しているかもしれないのに、キャティったら、姿を見せず……」
「ケッテル祭の時、猫の飼育はどのようにするのですか」
「厳重に家の中に置きます。前回のケッテル祭は私が十歳の頃だったので、その時の家猫……カネルと言いました……も厳重に管理していました。けれどキャティの時はバンシー問題があって私たちの家も注意力が散漫で……」
「分かりました」
娘がデスクから立ち上がった。
「キャサリンさん、あなたの村はスコルチ地方の……」
「ゲール村です」
キャサリンさんは懐から金属のプレートを取り出した。それからプレートの縁をそっと撫でると……金属の板が変形し、大きな手帳のようになった。彼女はそれを開いた。まるで立体絵本のように、絵が展開された。それは地図だった。地図の中で点が動いた。
「まず鉄道でスコルチ地方の都市クニアックに行きます。それから機械馬車を乗り継いで北上します。北サーモ海の浜辺の漁師村が、私の住むゲール村です」
あら、ランドンから少し遠いわね。そんなことを思っていると娘が告げた。
「必要経費でどれくらい出せますか?」
グレアムくんの治療のことがある。娘はこの頃経済的な観点は厳しかった。しかしキャサリン嬢は答えた。
「交通費、食費、全て出します。宿泊は私の屋敷……マクファーラン家に。待遇はできる限り良くします」
娘は続けた。
「私とこちらの母の他に……もう一人同伴者をつけたいです。療養中の身でして、少し面倒を見なければならないのですが……」
「ああ、そういうことでしたら」
キャサリン嬢はため息交じりに告げた。
「ゲール村は持ってこいです。病院の休養所がいくつもございますから」
「素敵な話です。ですが傍に置いておきたいので、マクファーラン家にお世話になりたいのですが……」
「問題ございません」
キャサリン嬢は力強く頷いた。
「専属の医師もつけます」
「ありがとうございます」
娘の顔は明るくなった。
「そうしましたら、今日の夕方にもゲール村に」
「夕方ですね。わたくし、家の者にランドン土産をせがまれているので、少し買い物をしてから帰ろうと思っているのです。よろしければ、ご一緒しませんか?」
「願ったり叶ったりです」
娘も大きく頷いた。
「そうしましたら、ゲール村へ」
気のせい、だろうか。
娘が少し元気になっている気がして、私は嬉しかった。
いい旅になればいいな、と私は心から願った。
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