第15話
池尻倉庫も天井の高さが一〇メートル以上ある倉庫で、その一区画が作業場だ。倉庫の中は寒い。暖房用に電気ストーブが三基ほど休憩場所に置かれている。二〇人ほどの男たちが集っている。町外に居住している者は自分の車で通勤してくる。男たちの殆どが六〇歳を超えた、定年退職後の再就職者だ。八時に朝礼が始まる。リーダーが今日の仕事の内容、在庫や入荷の状況、作業上の注意事項などを述べる。前日にNG品(不合格品)の流出などのミスがあればこの時に報告され、注意が喚起される。朝礼の締め括りは安全唱和だ。リーダーに指名された者が声をかける。「構えて! 」で片腕を伸ばして指さすように人差指も伸ばし、「今日もゼロ災でいこう! よし! 」と叫ぶ。「よし! 」ではその片腕を振る。皆が同じように動作し、唱和する。作業開始だ。
各人の担当部署は白板に書かれている。省吾の担当は「メンバー」と呼ばれる鞍のような形をした黒色の部品だ。作業者二人が部品を中にして向き合う。先ずウエスで部品の汚れや埃を拭き取る。終ると小さな懐中電灯で照しながら部品表面の傷をチェックする。傷の部分は白くなっている。埃と紛らわしい。手袋の指頭で擦って確認する。傷であればその部分を黒の修正ペンで塗り潰す。お互いの作業が終ると、二人で部品の両端を持ち、息を合せてひっくり返す。部品の重さは一五キロほどある。上下が逆転して隠れていた部分が表れる。同じようにウエスで拭き、傷をチェックする。最後に部品の角のような箇所に作られた溝にボルトの頭を差し入れて、入るかどうかをチェックする。入らなければ溝の片側をヤスリで削る。またボルトを入れてみる。これを繰り返してボルトが入るようになって終了。検査が終った部品には両角の間に黄色の丸点を付ける。ヤスリで削るのは「手直し」と言って、これは実施した個数を記録する。省吾たち検査に従事する者たちとは別に、作業台の上に部品を運び、検査が終ったそれを持ち去る役目をする者が居る。部品に黄色の点が打たれると、彼らはそれを合図に部品を持ち去り、パレットに入れる。別の者が次の部品を作業台に置く。こうして作業は途切れなく続く。
二時間経つと一〇分休憩。そしてまた二時間作業して一二時になると昼食、休憩だ。午後は一時から作業開始。三時になって一〇分休憩。そして五時まで、ということになる。八時間は確かに長い。省吾にとって初めて経験する職種であり、緊張と気遣いの連続だ。しかも立ち詰めだ。疲れる。
しかし、いいこともある。時間の縛りがルーズなことだ。八時始業で一〇時まで仕事のはずだが、一〇時の一〇分前にリーダーは「休憩!」と叫び、休ませてくれる。その後の仕事開始も五分ほど遅れる。昼休みも一〇分ほど早く始まり、午後の開始も五分ほど遅れる。それで昼休みは一時間以上あるので、省吾は昼食の後、倉庫の周辺を三〇分ほど散歩することができた。終業も四時半くらいで作業を止め、片付けに入った。
作業者たちは人生における生計の戦いを一応終え、定年後の小遣い稼ぎという思いで働いている人が多いので、雰囲気はのんびりとしていて、溶けこみやすかった。
貸与された制服を着て、名前入りのプレートを留めた帽子を被り、安全靴を履いて、倉庫の中で時給九〇〇円で働く境遇は、省吾を時にほろ苦い思いに誘いはしたが、それ以上に彼に活力を与えていた。それは金を稼いでいるという思いだった。現実に金を稼いでいるという実感が彼の心を安定させ、元気にさせていた。これで環に遠慮なく小説を連載できるのだ。勤務を終えて家路に就く時、疲れてはいても、省吾は安堵と充足感で幸福な気分だった。
後で分ったことだが、時間的なルーズさには時間調節の意味合いがあった。契約労働時間は午前八時から午後五時までだが、省吾たちは午前七時二〇分までには営業所に来てマイクロバスに乗る。契約時間の四〇分前から拘束されているのだ。帰りもマイクロバスが営業所に着くのは午後五時一〇分過ぎだ。こうした契約時間オーバーを作業時間を削ることで取り返しているのだ。しかしそれは盗み取りだった。池尻倉庫は営業所から離れており、所長や副所長が顔を出すことはなく、監督の目が届きにくい。それで可能になったことだ。本来なら前もって超過時間について取り決めをしておくべき事だ。業務が始まった後では是正は難しい。それでこんな盗み取りが行われるようになった。ある時は帰りのマイクロバスを営業所近くで停め、午後五時一〇分過ぎまで待つこともあった。あまり早く営業所に着くと、作業を早く切り上げて帰って来たことがバレテしまうので、時間調節をするのだ。「藤木がうるさいけのう」と作業者たちは言った。藤木は営業所の副所長で、採用時に省吾に渡された会社の組織図では「現場監督」という肩書が別に付いていた。藤木は五〇代半ばの大柄な女で、髪を茶色に染めていた。「そりゃ、おかしいじゃねぇか」などと男のような言葉遣いをした。石丸という作業員が居て、「マルさん」「マルちゃん」という愛称で呼ばれていたが、この六〇代後半の男を、藤木はある時、「おい、マル」と呼び捨てにした。それを聞いて省吾は首をすくめる思いがした。六〇歳を過ぎた一癖も二癖もある男どもを相手に、ナメられてたまるかという気概を漲らせた女性だった。
時給九〇〇円で働いていると、時間が金に変る、つまり労働者は自分の時間を売っていることが実感された。朝の精気が帰りの疲労に変ることから、労働者は自分のエネルギーを売っていることも実感された。労働者は自分の精力(エネルギー)を時間決めで売っているのだ。若い頃、経済学の本で学んだことは本当だったと省吾は確認する思いだった。
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