第12話

 一月の下旬、姉から電話があった。「あのね、旅館やめることにしたけ」と姉は言った。「やめる? 営業をやめるってことか」と省吾は訊いた。「うん、そう」と姉は答えた。そんなに状況は悪かったのかという思いが省吾の胸に広がった。しかし予想外のことではなかった。「このことはまだ秘密にしとってね。売買交渉が終るまで」と姉は言った。「売買交渉って、旅館を売るのか」「うん。売るしかないけね」「買い手は見つかったの」「うん」「誰」「松川産業とかいうとこ」「へえー、それはどういう会社なの」「レストランのチェーン店を経営しているらしい」


 あの旅館がレストランになるのか、と省吾は思い、感慨を抱いた。父親が創業してから五〇年近くが経っていた。一抹の淋しさが胸を過った。しかし、自分がそのために受けた災厄を思うと、借金を作るだけの商売はやめた方がいいのだと省吾は感傷を振り払った。


 二月の初めに義兄から電話があり、売買交渉の件で一緒に弁護士事務所に行くことになった。義兄の運転する車の助手席に省吾はもどかしい気持で座っていた。彼は売買交渉の詳しい内容を知りたかったが、それを聞かせるような義兄ではなかった。省吾の関心は旅館の売却が自分の貸金の返済にどう関わるかにあった。しかしどんな訊き方をすればそれが分かるのか、こういう事に疎い省吾には見当がつかなかった。また、あれこれと訊くのも憚られた。人生の一大蹉跌に直面している義兄への遠慮があった。義兄との会話で知り得たのは旅館の売却額と、現在住んでいる家には売却後も居住できること、契約する相手は一番条件のよい買い手であったことなどだった。旅館を売って得た金は借金の返済に充てられるのだろうが、自分の貸金の返済にも回るのだろうかと省吾は思うのだった。弁護士の事務所では、省吾の名義になっていた家の所有権を放棄する書類に彼は署名捺印を求められた。名義は変っているはずなのになぜ俺なのかと省吾は思ったが、売却に必要な手続きだと義兄は説明した。


 省吾が危惧した通り、義兄が念書に書いた毎月の返済は、持参した現金二〇万円の後は滞った。しかし旅館の廃業・売却という事態があったので、落着くまで催促は控えようと省吾は思った。


 廃業・売却から一月ほど経った頃、省吾は久しぶりに母親の顔を見に実家に行った。旅館はそのままあったが、玄関までのアプローチは鉄柵で閉鎖されていた。八十七歳になった母親は、金がないと零した。年金があるだろうと省吾が言うと、年金は義兄が取って、最小限しか渡さないと言った。義兄は時給七五〇円の、保育園の送迎バスの運転手になっていた。姉も繁華街のラーメン屋にパートで働きに出ていた。四紙取っていた新聞は全てキャンセルされていた。


 後から聞くところでは、義兄と姉は自己破産の手続きをしていた。従業員の給料の未払いもあり、光熱費や税金の滞納もあるようだった。それらの債務を順次支払っていく予定のようだった。これでは貸金の返済は殆ど絶望的になったなと省吾は思った。


  

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