第10話

 解決できない貸金問題は省吾の意識を不断に脅かすようになった。このままにしておいていいのか、手を打つ必要があるのではないか、とそれはいつも囁きかけてきた。すると省吾はハッとして問題を解決する方途を思案し始めるが、名案は浮かばない。義兄が経営状態や返済計画を明確に話してくれる人であったらどんなにいいだろうと省吾は思ったが、それは望むべくもなかった。何も言わない相手の状態や肚の内を、相手の寸言や態度から推測して今後の対応を考える他はなかった。そんな思慮は省吾の不安と怒りを増幅させるだけだった。省吾は出来れば考えたくなかった。しかし、そうはいかなかった。貸金問題は自分が解決するしかない、老後の生活が掛かった大問題だった。そう思い直してもう一度問題に向き合っても、解決の方途は見出せない。その繰り返し。テレビ番組を見ていても貸金問題が頭に浮かぶと、忽ち興は失せ、代りに重苦しい焦燥が省吾を押え込んだ。このままでいいのか、という焦燥だ。それは生活のあらゆる場面で省吾を襲った。貸金問題に意識が捉えられると、省吾は自分の現在に安住できなくなった。苛立ちと焦燥に包まれ、今居る状態から追い立てられるのだ。生きている今が無味になり、不毛の荒野を彷徨しているような索漠感に突き落されるのだ。


 これではいけない。日常を取り戻さなければならない。これでは貸金が返ってくる前に俺が潰れてしまう。省吾はそう考え、何とか気持を立て直そうとした。なぜ自分が貸金問題に囚われるかというと、不安だからだ。それが自分の生活を脅かす大問題と考えるからだ。省吾は自分の心の動きを分析した。


 省吾には昔から一つの事にこだわる性癖があった。一つ気持に引っかかるものがあると、それが解消しないうちは落着かない。それに強迫されて苦しいのだ。省吾はその性癖を「こだわり病」、或いは「完全主義」と呼んでいた。気持のどこにも引っかかるものがない状態=完全な状態を求めるのだ。しかし、引っかかりを解消するためには、相手に同じ事を何度も訊ねたり、確認しなければならなかった。それは自他の関係を不自然にし、相互の交流を妨げ、相互に苦痛を齎すものだった。その苦悩を嘗めてきた省吾は、「不完全主義」を案出し、自らに自戒として宣した。完全な状態を求めず、不完全なままで安住せよという戒めだ。実際それでいくつもの「こだわり」をやり過ごしてきた。


 既往を思い起して、今回の貸金問題を巡る煩悶にもこの性癖が絡んでいることに省吾は気づいた。いくら念頭から追い払おうとしても消えない貸金問題の不安。省吾は不安との格闘を通じて、その根源に全一的な生への欲望があることを洞察した。欠けることのない生の充足を求める貪欲が不安を見過ごせず、何とか解消しようと不安に対して抵抗するのだ。省吾は「不完全主義」を適用して、不安は不安のままに、不安の中に安住せよと自分に言い聞かせた。しかし、現実にある大きな不安を傍らに見ながら放っておくことは難しかった。あれこれの分別による心理操作は、不安に対して本能的に始まる抵抗には無力だった。省吾は不安の影が頭を過ると忽ち煩悶に落ちこんだ。その回路がもう内部に出来ているようだった。


 中秋の名月が見られる晩、省吾は二階の居間に酒肴の膳を据えて、月見と洒落こんだ。落ち込んでいる自分を風流で寛がせようとしたのだ。しかし、作為では興はやはり起きなかった。窓枠のなかの夜空をしだいに上昇していく名月を、省吾は悲しく眺めた。省吾の心は風雅に浸れず、依然として貸金問題の不安に搦め捕られ、踠いていた。ああ、俺はウツになっている、と彼はこの時自覚したのだ。


 愛犬ツムジの死もその頃だった。この年の四月に、ダニが原因で起きるアカラスという皮膚疾患の治療を受けてから、ツムジの体調は急速に悪化していった。予て指摘されていた心臓弁膜の閉鎖不全症が進行し、膵臓にも異常が現れて、あれよあれよという間に衰弱していった。死に近づきつつあるツムジを散歩させる時、省吾の気持は全く悲痛だった。二年前にこの子の親が逝った。その悲しみがまだ残っているのに、こんなに早くこの子の死が訪れてくるとは。悲しいことばかり起きるじゃないか。しかも俺はウツに陥っていて、この子の死に静かに向き合えそうもない。ツムジが死んだ時、省吾は泣けなかった。泣いてやりたかった。涙を流したかった。しかし頭は痺れたようになって、心は乾いていた。ウツに陥り、ウツと闘っている心には涙を流すような余裕も情感もなかった。火葬の時も涙は出なかった。省吾は心の中でツムジに詫びた。ウツが俺を泣かせないのだと彼は思った。義兄を恨んだ。

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