時空超常奇譚3其ノ壱. ABYS/悪魔はどこから来るのか

銀河自衛隊《ヒロカワマモル》

ABYS/悪魔はどこから来るのか

ABYSアビス/悪魔はどこから来るのか

 かつて、神はこの世界を創造し、神の下僕しもべとして神の姿に似せてヒトを造りたもうた。ヒトは神の創造物であり、神の忠実な下僕であった。神は「ヒトは善なるべし。神の下僕なるべし」とのたまい、ヒトは万物の霊長たる地位を付与され、神の使いとなった。

「ヒトよ、生めよ、増えよ、地上に満ちよ」

 神は、喜びと希望を以てそう言われた。かくして、神の創造物たるヒトは神の使いとなり、加速度的に増殖し、諸有あらゆる動物を従える地球の支配者となった。

 そして、最強の敵であったウィルスとの戦いに勝利したヒト人類は、神の神聖な力たるクローンテクノロジーを得て新たなる生命を生み出し、核融合をして宇宙の無尽エネルギーを、更には重力制御とワームホールを以て無限の時空間を創り出し、遂にはバイオテクノロジーを進化させて死を超越する事さえ可能とした。それは、正に神の世界、神の領域に土足で踏み込むのと変わらぬ所業であった。

 神の領域に踏み込んだ人類は、最早もはや神の創造物、下僕ではなく、万物の霊長であり神に等しい存在としてこの世界の唯一の統治者の地位を確立し、自ら「我は神なり」と愚言を吐くに至った。

 しかし、神への尊厳を失いおごる人類はある事に気付かなかった。地球生物であるヒト人類が地球の根本的な循環システムである弱肉強食という食物連鎖から逸脱する事が、即ち地球生物としての地位を捨て去る事だという事を。

 自ら手に入れた万物の霊長たる地位と生物としての不老不死が、地球生物としての自己の存在を否定し、排除に繋がる事を。ヒトが自ら滅亡し地上から消滅する未来を選択した事を。

 神はヒトの悪が地に蔓延はびこり全てのヒトの心が常に悪を企てるのを見られると、地上にヒトを造った事を悔いて心を痛め、遂に「創造したヒトを地上から拭い去ろう」と決心された。

 神は、いましめを以てこう言われた。

「ヒトよ、喰われよ、しりぞけよ、地上から消えよ」と。 

 そして、遂に神の御心により一匹の漆黒の悪魔が翼を広げ、下界へと飛び立って行った。

 西暦2038年6月9日午前11時11分。東京大学本郷キャンパスにある三四郎池の周りに、キャンパス内のスタバで買った珈琲を片手に読書に勤しむ学生の姿があった。

 突然、学生達が叫んだ。

「あっ、あれは何?」「何だ?」「何だ?」

 池の上空に、ヒト型の黒い翼を広げた何かが浮かんでいる。気付いた学生達や大学関係者で大騒ぎとなり、警察関係者や野次馬で周辺がごった返し、TV、マスコミが押し寄せ、警察関係者以外立ち入り禁止となった。それでも、TV、マスコミ各社は何とかカメラを回して、不思議な事件を放送した。ヒト型の黒い翼をもった何かは、赤い双眼を光らせる、正に漆黒の悪魔の姿をしていた。

 そんな中で、ヒト型の悪魔は黒い翼を広げたまま、地に響く鈍い声で叫んだ。

『我は、神の使いABYSアビス。万物の霊長などとおごる人間共よ、お前達は一人残らず駆逐する。れが神の思し召しだ。今、お前等は種の分岐にいる。神の意に添い、の地の全ての動植物の殺戮を即座にやめるか、或いはお前達自身が我が手に依って駆逐されるかだ。崇高なる神の慈悲により、お前等に1000年間の猶予を与えよう』

 悪魔は、そう言って姿を消した。TV、マスコミ各社がカメラを回していた事もあり、その模様は日本国内だけでなく、全世界に放映された。悪魔の出現によって世界のあらゆる国で「終末の時が来た」「悪魔が現れた、人類滅亡だ」とパニックが起こったが、それも数十年が経つと全ては忘却のベールの中へと失せていった。

 西暦3038年。とっぷりと日の暮れた新宿駅東口を、二人の酔っ払いの男が歩いていた。二人の他に人影はない。ほんの数ヶ月前まで、NYシティと並ぶ国際的な巨大歓楽街として一世を風靡していた新宿シティに、今やその面影はない。不夜城と称された街の幹線道路に走る車はなく、満月が寂しく街を照らしている。その理由は簡単だ、「黒い悪魔アビスはヒトを喰らう」のだ。

 繁華街たる新宿シティの夜は危険だ。何故なら、ヤツが容赦なくやって来る。

「何がアビスだ、来るなら来いってんだ」

「誰もいない通りを歩くのは気分がいいな」

「あれ、何か聞こえないか?」

 ついさっき、政府の自粛要請に抗う歌舞伎町の地下酒場で意気投合し、酒の勢いもあって意気揚々と表通りを歩いている二人の若い酔っ払いは、闇夜に女の悲鳴にも似た何かの声が響くのを聞いた。

 途端に、二人は血の気が引いた顔で、否応なしに正気を取り戻した。

「ヤバい、ヤツの声だ」

「喰われる、逃げろ」

 夜空を我が物顔で飛び、獲物を探して超高層ビルからビルへと滑空する漆黒の躯体と翼を持つ魔獣アビスは、逃げ惑うヒトの気配に敏感に反応し、誰彼の区別なく襲い掛かる。ヤツには躊躇も容赦もない。唯々、ヒトを喰らうのみだ。

 全長10メートル程の黒い翼を広げたアビスは、一気に狙いを定めて地上へと疾駆しっくすると、ミニスカートの黒髪の若い女に姿を変えて、酔っ払いが逃げ込んだ路地裏に降り立ち二人の男に話し掛けた。

「どうかしました?」

「うぁぁぁ、人間かよ。びっくりしたぁ」

「何だよ、脅かすなよ」

 恐怖におののく二人の男に、笑顔が眩しい黒髪の若い女は何事かと訊ねた。

「ヤツだよ、ヤツがいたんだ」

「ヤツって何ですか?」

「ヤツだよ、アビスだよ。知らないの?」

「ここのところ、世界中で人間が襲われ喰われてる、ヒト喰いの悪魔、化け物だよ」

「化け物というのは、こんなのですか?」

 見る間に若い女の顔が溶け出し、その姿はヒトではない黒い翼を持つ獣と化す。獣の赤く光る双眼に、男は悲鳴を上げて身体を硬直させた。

 男の悲鳴が響き渡ったその時、鈍い銃声がした。背後に、短銃を構えた警察官が立っている。吐くような嗚咽とともに魔獣が倒れ込んだ。

「大丈夫ですか?」

 短銃を携えた警察官が駆け寄った。

「あっ、お巡りさん。助かったぁ」

 男は涙声で警察官の登場に歓喜した。

「こんな夜に出歩くのは、危険過ぎますよ」

「はい、気を付けます。本当に救かりました」

 警察官の言葉に男は胸を撫で下ろしたが、もう一人の男が奇妙な事を言い出した。

「いや、もう終わりだよ」

 男の言葉に誰もが小首を傾げた。次の瞬間、倒れていた黒い獣は起き上がり、尻尾を刃物に変化させて弧を描いた。警察官の首が、血飛沫を撒き散らして飛んだ。

 腰を抜かす男の目の前で、もう一人の男の姿が獣に変化した。更に、二匹の獣の腕がスライム状に変異して男の頭部を覆った。男は窒息し、声もなくむくろにされた。二人分の人肉を二匹の獣が旨そうに喰らい尽くした。

 西暦2038年に突然地上に現われて人類に宣戦布告した黒い翼の悪魔アビスは、1000年後の西暦3038年に再び現れた。

『我が名は、神の使いABYSアビスの始祖AGNIアグニ。崇高なる神の慈悲たる1000年間の猶予は過ぎた。相変わらず、万物の霊長などとおごる人間共よ、お前達を一人残らず駆逐する事が神の思し召しとなった。今、神の意に添い我が手に依って駆逐する』

 神の使い魔獣アビスの始祖アグニは、そう告げて人類の虐殺を開始した。悪魔は、人類に姿を変えて世の中に溶け込み、常に人類を喰らうチャンスをうかがっている。

 人類の敵である悪魔を抹殺すべく、警察だけでなく多くの民間戦闘組織が誕生し、延々と壮絶な戦いが繰り広げられた。だが、ヒトの姿に変身する魔獣を見分けるのは難しく、しかも人類の武器には決定的な効果がない。最新の改良型116マシンガンでさえ一時的に活動を停止させる事が出来るものの、一定時間が経つと復活し反撃に遭う。

 結果、今や殆ど全ての対抗組織は壊滅し、人類は駆逐される運命にある。1000年の間に1匹から1000万匹へと分裂増殖した上で更に増え続けるアビス。それに対する人類の存亡を賭けた戦いの結末は、既に見えている。人類が一人残らず喰らい尽くされる日は、刻一刻と迫っていた。

 魔獣アビスを倒して人類を救うには、それ以外に方法はない。白髪の老人は、忙しく立ち回る助手達の前で神妙な顔でアビス殲滅作戦を叫んだ。

「志羽博士、本当にやるんですか?」

「それ以外に方法がないからな」

 助手達は、固い老人の決意に懐疑的な顔をしている。

「でも博士、『過去に戻ってアビスの始祖アグニを殺す』なんて危ない事はやめましょうよ。博士みたいなジジイじゃなくて、他の人がやればいいんですよ」

「そうですよ。世界政府の中に、もっと適任者がいますよ」

「いや、このプロジェクトを推進するには幾つかの前提条件が必要なのだ。アグニの生態や時空間移動の技術、そしてロボットテクノロジーの知識、これ等はワシ以外には対応出来ない」

「じゃぁ、諦めましょうよ」

「いや、それは出来ぬ。ワシは世界政府一諦めの悪い男じゃからな」

 既に、何がなんでも過去に戻ってアグニの始祖を消すという究極の作戦を実行しなければならない、そんな状況にまで人類は追い込まれている。

 老人の名は、世界政府アカデミー名誉教授志羽誠人しばまこと。世界的な医師であり物理学者でもある老人は、世界政府からの命を受けて、今タイムマシンで過去へと翔ばんとしている。

 一度は、高齢の老人である志羽ではなく世界政府内でプロジェクト遂行者を探したが、適任者はいなかった。それは当然と言えば当然のない事だった。まず、適任者は魔獣アグニの生態を熟知していなければならなず、時空間移動の知識と技術、そして何よりも過去で戦えるロボットを造り出せる知識がどうしても必要となる。しかも、過去に遡るタイムマシンに乗る事が出来るのは大人一人がやっとでその他の特別な機械の類は搭載出来ない。その全ての前提条件をクリア出来る者など世界政府内にいる筈もなく、結果的に志羽が一人で対応する以外にない。

「博士、エネルギーの限界で93年分しかありません」

「1945年か、構わん」

 2038年に出現するアビスの始祖を迎撃する準備を一から完了するには、最低でも90年から100年程度は掛かると考えられる。過去世界で老人とバイオロボットが戦ったところでプロジェクトの完遂は望めないかも知れないが、それでも出来る事をやるしかない。プロジェクト成功の確率を最大限に引き上げる為に今出来るのは、志羽が1945年の過去に飛び、2038年に出現する始祖を待ち構える以外の選択肢はないのだ。人類滅亡までに時間の猶予はない。

 最後に残った魔獣アビスに対抗する民間組織リーダーとなった志羽は、強い意志を示した。助手達はそれ以上反論する言葉がない。

「じゃあ博士、スイッチ押しますよ。博士、緊張してます?」

「これは、人類を絶望から救う計画だ。緊張などしている暇はない」

「そうですよね」

「時間がない。万一、ヤツ等がこの研究室に来るような事があれば、迷う事なく手筈通りに全てを破壊するのだぞ」

「了解です」

 志羽は、タイムマシンと思しきガラス製の四角い箱型機械に乗り込んだ。促された助手がタイムマシンを始動する赤いスイッチを押した。ガラスの箱が回転すると、激しい黄緑色の光に包まれたタイムマシンは、あっという間に時空間に消え去った。

 西暦2038年。

「それじゃあ、そう言う事で、解散」

 30年程前に、そんな父親の言葉で始まる中学生のホームレス生活を、お笑い芸人が描いた小説があった。

 森川翔太は、その本を読んで「そんな事、あるわけないだろよ。ネタだよ、ネタ」と笑い飛ばしたが、まさか自らが同じ緊急事態に陥るとは思ってもみなかった。

 個人経営者だった父親が商品取引で失敗し、自身にとんでもない災難が降り掛かった森川翔太21歳は、その現実をどう受け止め消化したら良いのかわからず、唯々途方に暮れた。

 ある朝、何の前触れもなく、父親は平然と翔太に告げた。

「この家は他人の物になったから、直ぐにでも父さんの実家の仙台へ引っ越さなければならない」

「親父、大学にどうやって通うんだよ?」

「無理だ」

「無理って何?」

「無理だ。大学は辞めるしかない」

「そんな」

「仕方がないんだ……」

 そう言って、父親は言葉を詰まらせた。反論しようとする翔太の言葉が、空しく宙に舞っている。

「わかったよ、親父。オレは独りで生きていく」

 翔太は意を決してそう答えた。一体何をどうわかったのか。独りで生きていくという人生設計などある筈もないが、それ以外に言葉が見つからなかい。

 赤子の時に捨てられて養護施設で育ち、小学生の時に引き取られた。その後父親と母親は離婚し、父方で育てられる事となった。父親は田園調布の豪邸に住み、必然的に翔太も同居した。家庭は裕福で欲しいモノは何でも買い与えられたし、再婚した母親は美しく自慢だった。自分がまるで選ばれた人間のようだと勘違いするには十分だった。

 そんな自分、そしてそんな環境の中で「血が繋がっていない」事を揶揄されるのが嫌で、只管ひたすら勉強した。成績は常に学年トップで、高校卒業後に現役で東大法学部に合格し、今は学習塾講師とコンビニのバイトの掛け持ちもしている。四年生で、つい最近まで就活に励み、既に大手商社からの内定をもらっている。そんな、何も不自由なく順風満帆だった筈の船が、ある日いきなり視界不良に陥り座礁した。

「何故だ」と叫び、天を恨んだところで意味はない。唯一の救いは、例えどんなに嵐が吹き荒れようと、次の港まで行ければ何とかなる事だった。幸いな事に、大学生ともなれば何とかバイトで当面の生計を立てる事が出来る。取りあえず、住む場所さえ見つかれば良いのだ。

 無二の親友のパックン、田中修治に事情を話すと、笑いながら一万円札を出して「ある時払いの催促なしな」と言った。やはり、持つべきものは友人だ。バイト先の店長に話すと「ちょっとだけどバイト代上げてやるよ」と言われ、先輩の一人に事情を話すと、豪快に笑い「そんな事もあるさ、住む処がないなら、オレのアパートに来てもいいぞ」と言われた。親友だけでなく、サークルの先輩やバイト先の店長、彼女のような関係の浜崎美香、翔太の周りには良い人が多い。

「あぁ、何て良い人達に恵まれたのか」と悦に入っていると、キャンパスの向こうから浜崎美香が息を切らして走って来た。

 森川翔太、田中修治、浜崎美香の三人は高校からの同級生で、今も仲がいい。三人とも養護施設から養子として引き取られ、それぞれ義理の親に育てられた。

「翔太君。パックンに聞いたんだけど、家がなくなったって本当なの?」

「あぁ、色々あってね。真中先輩に言ったらさ、「オレの部屋に来てもいいぞ」って言ってもらった」

「えっ、あっ、それは絶対ダメ。真中先輩だけは絶対やめた方がいい。この前、翔太君が参加しなかった飲み会で「自分はホモだ」「翔太は可愛い」って言ってた」

「げっ、そうなのか。ヤバイな、どうしよう」

 翔太の狼狽に、美香が言った。

「そうだ、私の家には賃貸マンションの空き室があるから、タダで大丈夫だよ」

 小さい頃から、勉強だけは自慢出来る程した。そのお陰で東大に入学し、現在大学4年で卒業の見込みは立っているし、就活も終わって一部上場企業から内定をもらっている。後は、卒業さえ出来れば何とかなる。だが、どうにも足下が覚束ない。学費はバイト代で払えるだろう。衣は我慢すれば何とでもなる。食費はバイト先の賄いと友人からの借金で何とか出来そうだ。だが、今日の、明日の住処すみかがないのだ。

「私の家に来ればいいよ」と無邪気に笑った美香の家は、かなり裕福で不動産賃貸を生業なりわいとしている。だが、そうは言っても未だ付き合ってもいない彼氏候補如きの分際で、そこまで頼る訳にはいかない。冷静に一から考えてみたが、やはりなんと言っても、衣・食・住の内の「住」だ。住は、何とかなる想定が出来ない。ホームレスのように公園で寝泊まりするのか……いや無理だ。

 甘ったれていると言われようと、それは無理だ。新宿で酔っ払って、喫茶店で正体をなくして朝になっていた事はあった。とは言え、毎日そんな状況を続けていくのはどう考えてみても無理だ。だからと言って、ホモの先輩宅も選択肢には入らないし、美香の家に転がり込むのも精神的に耐えられるかどうか自信がない。 

 残るは、不動産屋に頼る以外にない。アパートを借りるにしても、遠ければ家賃は安いだろうが、余り遠いと交通費がかさむ。近ければ当然高いに決まっているから、家賃として支払える金額は極端に限定されざるを得ない。悩んでいても答えは出ない。

「翔太君、アテはあるの?」

「アテはないけど、バイト先の近くのデカい家に貸室ありと書いてあった。その家は無理だろうけど、その不動産屋に行って聞いてみるよ」

 森川翔太は思った。まずは、駅前の不動産屋に行ってみるのが正しい進め方だ。きっと、そうに違いないと考えてはみたものの、部屋を借りる予算は月2万円か3万円が限度。ここは東京のド真ん中である文京区だ。この予算でこの周辺に賃貸物件などある筈もないし、あったとしてもどんな部屋なのかは想像したくない。

 ダメ元という言葉がある。ダメで元々ならば1パーセントに賭けてみる方が良いに決まっているが、1パーセントも可能性がないならば時間のムダだし、そんな暇もない。2万円と言った瞬間に嘲笑されるのも嫌だ。あれこれ考えていると足が鉛のように重くなってくるが、悩んでいても仕方がない。ちょっと訊いてみて、ダメそうならソッコウで出て来よう。そうだ、そうしよう、それがいい。

 その不動産屋は駅の反対側にあった。店構えは大きくはなく、古めかしい。入るのに多少の勇気が必要だ。

「不動産なんてどこも同じだし、そんな事を気にしている場合じゃない」と自分に言い聞かせて店に入った。

「あの・」と声を掛けたが、店には誰の姿もなく返事もない。店内を見回すと、内装はかなり年季が入っている。壁には「富国強兵」の縦文字が見え、自衛隊でしか見ない旭日旗が飾られている。そんなもの、現在の陸上自衛隊の自衛隊旗、海上自衛隊の自衛艦旗として使用されている以外に見る事はないだろう。

 古いというか、古惚けた感じの内装に違和感がある。カレンダーの今日、6月9日が土曜日になっている。今日は水曜日の筈だ。曜日が違っている理由は直ぐにわかった。令和20年ではなく平成20年のカレンダーなのだ、何とやる気のない不動産屋だろう。

「ん、いや……違う」

 翔太の口から言葉が漏れた。良く見ると、その文字は令和でも平成もない、昭和だ。昭和20年、終戦の年だ。違和感の正体はそれだ。この空間は、明らかに戦前、戦中のもののような気がする。尤も、映画でしか見た事のないその世界が、そうであるのかどうかはっきりとはわからない。もしかしたら、この不動産屋にはその手の趣味があるのかも知れない。

 壁に映画のポスターらしきものが貼ってあるのだが、日本語タイトルと思われる横文字の漢字が読めない。「隊闘戦隼藤加」とは何だろう。更にその横には「ンポロヒ復回と止防の労疲掃一氣眠」なる謎の文字列も見える。ンポロヒとは何か?

 棚の上にはラジオが乗っていて、鉄製の扇風機が回っている。ちょっとばかり暑いのは、エアコンが設置されていないせいなのだろう。どの備品もインテリアもかなり古めかしい、いや情緒ある雰囲気だ。

「あのぅ・」

 再度声を掛けてみた。

「はい、はい」

 奥から中年の男の声がした。

「はい、いらっしゃい」

 出てきた白い開襟シャツに角刈りの背の低い中年男は、団扇うちわを扇ぎながら人懐っこい顔を見せた。

「どんなものをお探しですか?」

「この近くでアパートを・」

「そうなんですか、ご予算はどれくらいですか?」

「あの……2万円以内……」

「えっ?」と言った中年男の身体が、驚きの余り一瞬硬直したように見えた。それは、当然と言えば当然の反応で、あからさまに嘲笑わらわれたり哀れみの言葉がないだけマシというシチュエーションだ。翔太は顔に大量の血が昇るのを感じた。

「あっ、無理ですよね、ある訳ないですよね。ボクのバイト先の近くに白い大きな豪邸があって「空き室あり」の張り紙があるんですけど、あんなに豪邸でなくていいんです。あんまりボロっちい木造アパートはちょっとムリなんですけど、ワンルームでいいです。ちょっと小綺麗ならそれでいいです。やっぱり、無理ですよね、帰ります」

 翔太は、自分の言っている事が嘲笑ちょうしょうされてしかるべき非常識である事を十分に知っている。恥ずかしさを何とか隠そうと照れ笑いを浮かべて、一目散に店を出ようと腰を上げ、同時に右足を出した。

 翔太の頭の中で、運動会100メートル走のスターターが鳴ろうとしたその瞬間、中年の男が「えっと、ですね・あるにはある・」と、意味ありげな事を言った。

「えっ、あるの?」

 翔太は、縋がり付く子犬のように飛び付いた。

「あぁぁ、いやいや。あると言えばあるし、ないと言えばないんですよ」

「あると言えばある?」

 翔太には、「ある」以外の言葉は耳に入って来ない。

「あるなら、紹介してください。ちょっと事情があって、住む処がないんです。お願いします」

 翔太の必死な姿に、中年の男は徐に質問を始めた。

「お客さん、お幾つですか?」

「21歳、東京大学文一の四年生です」

「うん、OK。文一って言ったら法学部、優秀ですねぇ」

「内々定ですけど、もう就職も〇菱商事に決まっています。卒業さえすれば何とかなるんです」

 翔太は訊かれてもいない事まで喋った。必死さの表れだ。

「なる程」

「あの、あるんですよね?」

「まぁ、あるにはあるんですけどね、条件があるんですですよ」

「条件?親が保証人になるとか、そういうのは無理です」

「あ、それは大丈夫。そうじゃなくて……」

 不動産屋の男は、何か言い難そうに口籠り、条件という核心に辿り着かない。

「えぇと、ですね。オーナーは私の古い友人でして、住む人がいなくなったので探してくれって言われているんです。家は人が住まなくなると傷むのが早いっていうじゃないですか。でもね、中々住んでくれる人がいなくて困っているんです」

 不動産屋の男の話は、わかったようでわからない。いつになっても要領を得ない。

「やっぱり、何かあるんですか?とんでもなくボロっちいとか」

「物件は、お客さんが言ったその白亜の豪邸です」

「えっ、あの豪邸ですか?」

「そうです。古い建物ですけど、ボロではないですよ。その昔は、近所で白亜の館なんて呼ばれていたんです。間取りは6LDK 、貸すのは6部屋全部です」

「えっ、全部?という事は、家賃が高いんですよね。そんなのボクには無理ですよ。もうこの際恥さらし序でに言いますけど、事情があって家にいられなくなって、兎に角急いでいるんです。でもお金も保証人も何にもないんです。ボクが払える家賃は、2万円くらいが限界なんです」

「そうだったんですか。それはそれは、大変ですね」

「あのぅ、聞いても意味ないですけど、その白亜の館の家賃って幾らなんですか?」

「家賃はですね、タダです」

「えっ、タダ?」

「はい、0円。でもね、中々入る人がいませんでね」

 何かが変だ。白亜の館で6LDKでタダなのに希望者がいない?そんな事があるだろうか。いや、あり得ない。その条件のみであれば、常識的にある筈はない。アレを除いては。

「今までも、全く希望者はいなかったんですか?」

「いえ、結構いたにはいたんですよ。何せ、白亜の館でタダですからね。確か12人くらいはいたかな。でもね、皆消えちゃうんですよ。短い人は3日で消えましたね」

「3日で消えたって、何かあるんですか?」

「あると言えばあるし、ないと言えばないですね」

 何もない訳はない。大概、物件に比して家賃の安い物件はアレと相場は決まっている。不動産屋は相変わらず言い難そうに話を引っ張り、翔太はソレを聞きたくない。不動産屋は唐突に奇妙な仕草をした。

「お客さん、こっちの方は平気ですか?」

「こっち?」

「そう、こっち」

 不動産屋の男は、両腕を垂らして何かの格好をした。どう見てもアレにしか見えない。翔太は「予想通りか?」と心の中で呟いた。

「これのコレですか?」

「はい、これのコレです」

 やっぱりソレだ。だが、考えてみればそれは当然だ、極端に安い不動産の理由なんて大抵アレに決まっている。どんな事件があったのだろうかと興味は湧くが、アレが得意という人間もかなりマニアックだ。いやいや、それがアレであろうとなかろうと、今の翔太にはそんな事を言っている余裕はない。考え方によっては、渡りに船なのではないか。

「大丈夫ではないけど、大丈夫です。何があったかは聞きたくないので教えてくれなくていいです。でも、ソレってかなりヤバいんですか?足のない髪の長い血塗れの女とか、生首の落武者とか、ゾンビとか」

「いえいえ、そんなのじゃないんですよ。絶世の美人・です……多分」

 絶世の美人、それなのに3日で消えた?翔太が首を傾げる。何か話がおかしいし、辻褄が合っていないし、それでいてタダとは余りにも怪し過ぎるし、反論は湯水のように溢れて来る。しかし、しかし、しかし、そんな事を想像していてもらちかない、意味などない。

「お客さん、本当に大丈夫ですか?」

 不動産屋の念押しに、翔太はちょっと震えながら力強く頷いた。世間では、それを

ヤケクソと言う。その反応を見た不動産屋は「じゃあ、早速今から行きましょう」と言って、そそくさと店を出て行った。不動産屋のこうした対応は、通常ならば余程の理由、裏があると思った方が良いケースだ。

 翔太は、大きく深呼吸をした。男の後を付いて行くしかない。半分は後悔の念を引きずり、半分はそんな場合じゃないと自分に言い聞かせて歩を進める。見覚えのある道を暫く歩いてから交差点を左に曲がり、不動産屋の男が立ち止まって「ここです」と言った。その場所は、その建物は、当然の事だが知っている。大学とバイト先の中間辺りにある、あの白亜の豪邸だ。

 バイトの行き帰りに通る道沿いで、この白亜の大邸宅は特に目立つ。白いタイル張りの二階建てで、どこかの雑誌で見たような大正時代の大富豪の館と言った風情だ。表札には、『INGA』と書いてある。

 インガ?印我?因果?という名字なのだろうか。ここなら理想的、いやそれを超える程だ。流石にドアや窓にほこりが積もっているが、そんな些細な事をかく言える立場ではない。

 不動産屋の男が玄関の鍵を開けると、外気の暑さとは真逆の冷えた空気が頬を撫でた。カビ臭いだろうと想像していた翔太の鼻を、薔薇の香りがくすぐる。安っぽい芳香剤ほうこうざいではない清々しい香りに一瞬、意識が飛んだ。これがアレの匂いなのだろうか。

「ここに居るんですよね?」

「いますよ。いますけど、今日は休みかな」

 翔太は、不動産屋の答えに「休みなんてあるの?」と、小声で不動産屋にツッコミを入れた。

「でも、大丈夫みたいですね。結構、気難しくてね、ダメな場合は鍵が開かないんですよ。お客さん、一次面接合格です。後は、直接お願いします」

「一次面接合格?」

 相変わらず、不動産屋の言う事には謎がある。「それなら、二次面接もあるのか?」「面接官はどこにいるのか?」と湧き上がる質問をまとめようとしている内に、不動産屋は鍵を置いてさっさと帰って行った。何がどうよろしくなのか、誰に言っているのか。さっぱりわからない。仕方なく、部屋なのではないかと勘違いしそうな広い玄関で、きっと不動産屋が用意したのだろうと思われる明らかに場違いに置いてある貧素なスリッパに履き替えて、建物の中へと歩を進める。

 広い玄関に見劣りする事のないリビングの広さに圧倒される。ホテルのロビーを思わせる吹き抜け、極端に高い天井から吊り下がる二台のガラス製シャンデリア、暖炉と燭台、壁に掛かる戦士画、敷かれた絨毯、その他豪邸に見合った家具や調度品の数々が所狭しと置いてあり、それ等が一体となってその豪奢ごうしゃな風景を創り出している。目に入る物は、どれもが高価な特注品に違いない。壁際にある縦2メートル程の時計だけで一体どれ程の価値があるのだろうか。中央に鎮座する巨大な黒い革張りのソファー、まるでベッドと錯覚する。

 翔太は、「まぁ、いいか」と独り言を呟きながら、取り敢えずソファーに座り一日を振り返った。

 朝から父親の激戦地の空爆のような仰天発言と、サークルの先輩の温情とホモ疑惑があり、ダメ元で入った不動産屋に何やら怪しいが別世界のような白亜の館に案内され、アレの一次面接に合格し、今からアレの二次面接があるのだと言う。どうやら、不思議な不動産屋は唯の時代掛かった戦争オタクだったようだ。最早、それもどうでもいい、俎板まないたこい状態になっている。脱力感が波のように押し寄せる。何だか、とんでもなく疲れたような気がする。

 静寂が全身を包み込む。シンとする無音の世界に、時を刻み続ける時計の音だけが染み込んでいく。東京にいて、これ程までに音のない世界を経験したのはきっと初めてだ。どんなに静かと言っても、大概は雑多な音がある。街の雑踏、ヒトの声や車の乱雑な音。東京という大都会では音があるのが当たり前だが、今この瞬間に苛立つ音は何もない、自身の息遣いが聞こえる程の無の世界。

 微睡みに目を閉じる。こんな時、人は脳の錯覚によってある筈のないモノを見るらしい。それを幻覚というのだと心理学の講義で習った覚えがある。こんな無の状態でアレの二次面接が始まるのは、理にかなっているに違いない。

 面接は決して得意ではないが、不得手という程ではない。面接官はまだ来ないのかと思いつつ、浅い眠りの中で曖昧になる意識は次第に混濁して空を舞い、墜ちて行くような錯覚が全身に纏わり付く。急激な眠気に襲われて目を閉じると、漆黒の空間、重力のない遥かな深遠の底から誰かの声がした。

『いらっしゃい・』

 幼い女の子の声がする……という事は、目の前の空間に誰かがいるのだ。きっと、アレに違いない。さぁ、幻覚の中でその正体を見せるがいい。それとも、いきなり取り憑くのか。それにしても随分と可愛い声だ。

『あのぅ、寝てしまわれました?』

 色々な意味で想定を超越する呼び声に、黄昏の微睡みは一瞬にして吹き飛び、目を開けたそこ、アレはいた。

 アレはいたが、それがアレなのか、そうでないのか。瞬時の判断がブレて、意識が定まらないのは、急な目覚めのせいなのか。いや違う、アレ自体のせいだ。不動産屋は、両腕を垂らしてアレと言った。そうであるならば、そこにいるソレはアレでなければならない。長い黒髪の背筋の凍る畏怖の存在、ゾンビのような正視に絶えない不気味な物への恐怖さえも想定済みで、絶世の美人となれば想像を超えた別の怖さはあるが、どれとも違う。

 それはネコだ。黒い毛並みの整った、唯の獣のネコ。全体が黒で背中に大きな白い丸い模様がある。模様が珍しい以外に変わった部分はない、唯の獣だ。その獣に何かを言われたような、気がする。

「あのぅ、ネコさん」

 翔太は、黒いネコに話し掛けた。返事などある筈がないとわかっている。翔太の問い掛けに、ネコは予想を寸分も違えず、小首を傾げてニャァ・と鳴いて翔太の膝に乗った。そりゃそうだ、ネコが喋る訳はない。だとすると、不動産屋の「絶世の美人」とはどういう事なのか。二次面接はどうなったのだろう。先程の呼び声は誰だったのだろう、と考えたが解などある筈もない。ネコは人懐こく膝の上に飛び移り、そのまま丸くなった。

 その時、『私は、魂子たまこと申します』と・声がした。いや、したような気がした。ネコが喋ったとか、どこからか声がしたとか、ではない。声がしたような気がしたのだ。これが二次面接なのか、若しくは面接前のレッスンか。

 翔太は、取りあえず怖いとか不思議という感覚を横に置いて、「ボク、森川翔太です。お世話になります」と言った。独り言のような奇妙な会話?が続く。

『ご自由にお使いください。必要な物があれば、タマに申し付けてくださいね』

「タマ?」

『その猫です』

「あ、そうか」

 黒いネコは、唯の飼い猫だったようだ。

「タマコさんは、今どこにいるんですか?」

『私は霊体で、存在する次元が違うので、目には見えないんですよ』

 霊体という事は、やはりアレだ。アレなのだが、違う。何故なら、お化けの恐怖のオーラがない、脅かそうという面倒臭さも感じない。これは有り難い、翔太には恐怖している暇も驚愕している時間もないのだ。

『見えないのに聞こえるのは、次元がシンクロしている為です。もし、どうしてもと言うのでしたら、可視化する事は可能なのですけど。でも、見る人によって姿が違うらしいのです。ある方は、私の姿を見た途端、悲鳴を上げて逃げて行かれました・』

「なる程、そう言う事か」と言って、翔太は手を叩いた。謎の一つが溶解した。

『本当に大丈夫でしょうか?』

「多分、大丈夫ですよ。尤も、スゴいのが見えたらボクも逃げちゃうかも知れないけど、その時はご免なさい」

 翔太は身構えた。可憐な女の子のような声をして、おどろおどろしい化け物なんて言うパターンだってあるかも知れない。いつの間にか、開け放たれた出窓に架かっている濃緑色のカーテンが風に揺れている。その窓際に、フリルの白い洋服を着た幼い女の子が恥ずかしそうに立っている。間違いなく幽霊だ、身体が透けている。しかも西洋人の幽霊、女の子の髪は光るようなプラチナブロンドで、目は青緑色。西洋人形のようだ。

 一瞬の驚きはあったが、散々あれやこれや想像した事前レッスンのお陰で肝を潰す程ではなかったし、そもそも見惚れる程可愛い女の子なのだから、幽霊であろうと驚いて逃げ出す必然はない。

「オバケに見えますか?」

「いえ、とても可愛い女の子にしか見えないです」

「そうですか、それは良かった」

 不安げな幽霊は、ほっと胸を撫で下ろしているように見える。この可愛い女の子が、不動産屋の言っていた絶世の美人や逃げ去る程の怖ろしい何かに見えたりするのだろうか。まぁ、それ自体は決して不思議な事ではないのだろう、意識のシンクロで幽体を見ているとすれば、その時の個々の感情のベールが異なる像を見せる事は容易に想像出来る。

 翔太に恐怖心がない訳ではない。だが、今日一日の驚く事の多さと疲労に比べれば、幽霊の一人や二人現れても驚く気にはならない。

「あの、改めて自己紹介します。ボクは森川翔太、東京大学四年生です」

『幽体の魂子たまこです』

 翔太は女の子に近づくと、優しく頭を撫でた。他意はない、何となくそうしたい衝動に駆られただけだ。女の子は、突然の翔太の行動にちょっと驚きながら、微笑んだ。笑顔が可愛い。

「あれ?」

 小さく声を出して驚いたのは翔太の方だった。見つめる少女が小首を傾げた。少女の頭に触れた指先に不思議な現実感がある。サラサラとした白金色の髪の感触が指に残っている。

 確か、少女は幽体、幽霊ではなかったか。少女と会話し始めた時には姿は見えず、現れた時は身体が透けていた。しかも、本人も幽体だと言っている。だが、幽体である筈の目の前の少女が実体を備えている事は、翔太の右手の指が明確に教えている。どういう事なのか、翔太の思考領域にまた一つ謎が生まれていく。

「まぁ、いいか」翔太は呟いた。

 展開は想定を超える部分が殆どだが、悪い流れではない。それにあれやこれや言える立場でない事は、自身が一番理解している。

 その時、玄関の呼び鈴が鳴った。来客?と思った次の瞬間に、乱雑に部屋のドアが開き、高齢の男が入って来た。

「やぁ、君が今度の住人か。うぅぅん、今度こそ当たりかな?」

 白髪に白髭の老人が問い掛けた。翔太の口から「あっ」と言葉が漏れた。翔太には老人の顔に見覚えがある。

「森川翔太です。21歳の東大の四年生です」

「ワシは志羽しばという者で、東大で教鞭を執っている。どこかで見たような気がするな。森川君、ワシの未来工学概論、受講しただろ?」

「あっ志羽先生、ボクも今思い出しました。どこかで、見た事があると思ったんです。そうだ、思い出しました。志羽先生の講義『1000年後の世界』凄く興味深かったです」

「それは嬉しいな」

 東京大学物理学研究室教授の志羽誠人しばまことは、眼を細めて嬉しそうに笑った。

「先生は、ここで何を?」

「それはな、同志に挨拶に来たのだよ」

「同志?」

「ワシの研究室は大学別館四の二にあるが、手狭てぜまなのでな。この建物一階の一部を間借りている」

『博士は、良くお茶を飲みにいらっしゃいますよ』

 幽体の魂子たまこが言った。

「そういう事で、同居人同士仲良くしようではないか。そうだ、タマコちゃん、ちょっと研究室に来てくれ」

『はい』

「森川君、廊下突き当たりのドアを開ければワシの研究室がある。一息吐いたら寄ってくれたまえ」

 そう言いながら、老人は幽霊を連れて部屋を出て行った。

 奇妙な展開になってきた。ここまで溶解していない疑問や問題、謎が幾つもあり、更に実体のない霊体に何故触れられるのかの疑問があり、登場した同居人らしき東大教授という新たなアイテムが加わった。それでも、取りあえずは当面の大問題、住処すみかの確保が解決した安心感はある。翔太は思わず黒い大きなソファーに座り、溜め息を吐いた。

 ふと見上げた視線の先、リビングの隅に螺旋階段があり、二階へ上がった所に六つの部屋の扉が並んでいる。特別な理由はなかった、何となく興味を惹かれて階段を上がった。部屋の前に立って勇んで一番奥のドアを開けようとしたが、鍵が掛かって中を見る事は出来ない。

「部屋は使えないか。まぁ、取りあえず雨露をしのげるのだから何の問題もない」

 そう呟いて、翔太が各部屋のノブを回しつつ再びリビングに戻ろうとすると、思い掛けず真ん中三番目の部屋のノブが回り、ドアが開いた。瞬間的に想像が膨らんだ。こんな西洋風の家の各部屋は、どれ程贅沢な造りになっているのだろうか。ワクワクとした思いに心臓が音を立てた。

 ドアは内側に開いた。その途端、翔太は息と声を吞み込んで、心臓が口から飛び出そうになった。ドアの向こう側、一歩先は断崖絶壁、遥か遠くまで大海が広がっている。岩を穿うがつ波の音、天空を舞う鳥の声に血の気が失せて、必死の思いでドアを閉めた。

 閉めたと同時に、再び何事もなかったように時計の音だけの無の世界が広がった。ここは文京区の筈だ、海など、断崖絶壁などある筈はない。何かの勘違いか、幻覚、幻聴、そうだ、そうに違いない。今日は疲れているのだ。

 ソファーに戻った翔太は、膝の上でうずくまる黒猫タマを抱きながら、いつの間にか深い眠りに就いていた。

 翌朝、ダイニングテーブルに朝食が用意されていた。

「タマコさん」と呼んでみたが返事はなく、廊下突き当たりの扉も鍵が掛かっていた。黒猫タマ思い掛けず住処すみかが確保された安心感からか、空は青く高く夏の装いを纏っているように見える。

「おぅい、翔太」

「翔太君」

 偶然、キャンパスで田中修治と美香に会った。心配そうに二人が訊いた。

「どうなった?」

「何とか確保した、それが何と6LDKなんだ」

「6LDK?そんなの良く借りられたな。文京区だから相当高いだろ?」

「いや、タダなんだ」

「タダ?」 

「タダって?翔太君、まさか・」

「まさかって何?」

「女の人……」

 女のカンは鋭い。美香は既に泣きそうな顔をしている。

「そうか。オンナの部屋に転がり込めばタダだよな」

 美香が言葉を詰まらせた。

「美香ちゃん、大丈夫だよ。コイツにそんな甲斐性はないって」

「ないよ。そんなの、ある訳ない」

 翔太は、女の部屋に転がり込むような才覚は持ち合わせていない。女に関しては、唯一それだけは自慢出来る。

「確かにお前にそんな甲斐性があれば、彼女の一人や二人いる筈だもんな」

 ホッとした美香の顔が可愛い。

「でも翔太君、タダってどういう事?」

「うぅぅんとね、中々説明するのが難しいんだ」

「何だか良くわからねぇな。タダの大豪邸か、意味がわかんねぇ」

「じゃあさ、皆で探検に行こうよ」

 名探偵美香が嬉々として言った。その探索に、別の意味があるだろう事は想像に難くない。

「それいいな、乗った。何時にする?」

 翔太は一瞬、幽体の少女タマコをどう説明しようかと考えたが、面倒臭くなってやめた。どう説明しても、理解されるような話ではない。急遽結成された少年少女探検隊は、三時に赤門に集合して「白亜の館の現地調査」に向かう事になった。

 二人と別れた翔太が午前中の講義科目を確認すると、雨のせいか休講になっていた。天候による休講など珍しくもない。どうしようかと思いながら、ふと昨日の志羽の言葉を思い出した。確か「別館四の二に研究室があるから、寄ってくれ」と言っていた気がする。翔太は、興味本位で別館へと足を向けた。

 別館は古い建物なので昼間でも薄暗い。階段を降り、廊下を歩いて行く。異次元へ迷い混んだような感覚になる。最奥のドアに「志羽誠人工学研究室」の文字が見えた。ドアを開けて声を掛けると、助手らしい若い女子学生が応対した。

「志羽先生は居られますか?」

「博士ぇ」と若い女が叫んだ。奥から聞いた事のある声がした。

「おぅ君は、えっと、確か森川君だったな。入れ、入れ」

 老人とは思えない志羽の快活な声に促され、研究室内を奥へと進んで行く。何なのかわからない部品がそこかしこに転がっている、かと思うと、何本も並ぶ試験管からポコポコと酸素らしき気体が立ち上がり、何かを培養しているようにも見える。一体何の研究をしているのか、想像もつかない。

 志羽は、如何にも研究者という白衣に身を包み、一心にパソコン画面を見つめている。そう言えば、昨日も同じ服装だったような気がする。

「先生、ここで何の研究をしているんですか?」

「一言で説明するのは難しいな。簡単に言うなら『有機体と機械及び幽体との融合』の実験だ」

 どういう意味だろうか。有機体とは、機械とは、幽体とは何か。融合させる意味も不明だ。翔太の首がかしいだ。

「要するに、人間とロボットと幽霊を融合する実験だな」

 幽霊とはアレに違いない。人間とロボットとアレの融合?白髪の老人が無邪気な顔で言った。翔太の前頭葉を、意味不明と理解不能、摩訶不思議という言葉が螺旋状にループしている。

「森川君、ここで問題だ。この部屋にいるワシを含む研究者の中に複数のロボットがいる。誰なのか、当ててみてくれ」

「複数ですか。えぇと、博士とさっき応対してくれた女の人はどう見ても人間だから、残りの二人の女の人がロボットですかね?」

「博士、お茶、ここに置きます」

 残りの二人の内の一人がお茶のペットボトルを運んできた。翔太は穴の開く程という表現がぴったりする程に凝視した。人間にしか見えない。

「惜しいな、答えは全員じゃ」

「えっ?」

 翔太の思考領域である前頭葉は、志羽の不思議な回答に拒否反応で対抗せざるを得ない。百歩譲って、ロボットには到底見えない三人の女性がロボットだとしても、幾ら何でも「全員」という答えは正解ではないだろう。全員とするならば、志羽自身もロボットだという事になる。

「博士もロボット?」

「まぁ、そうだな。正確には、ワシは脳のデジタル化はしていないからロボットというよりもバイオロボットと言うべきなのだろうが、どちらにしても完全な人間ではない。尤も、人間という概念をどう規定するかというのは、かなり難しい問題かもしれないがな。彼女達は、全てAI搭載のロボットで、幽体との融合により感情を持っている。人間と何ら変わりはない」

「信じられない」

「佳奈君、森川君にボディタッチをしてみてくれ」

 言われた女性は、翔太の背後から抱きつくように腕を回した。腕が、頬が、胸が触れる。温かく柔らかく、微かに香水の匂いがする。

「どうじゃな?」

「人間にしか思えないです」

 ヒトの温もりを感じさせる女性の柔らかい肌。異性の感触と温もり、美麗な顔。

「どうかな、男として思わず反応してしまうだろう?」

「は、はい」

 志羽は、あたふたとする翔太の言葉に笑いながら、目を細めた。

「博士、何か嬉しそうですね?」

「やはり、わかってしまうか。実はな、やっと完成したのだよ。ヤツ等を倒す武器が完成した、これがどういう意味かわかるかな?人類の滅亡を阻止する事が可能となるのだ」

「ヤツ等、人類滅亡?」

 翔太は、喜びを満面に表す老人に首を傾げた。

「スマん、スマん。君には理解出来ないよな」

 頷いた翔太の返事に、ロボットだという女性が緊張気味に言葉を被せた。

「博士、VIPの方々がお越しになりました」

「おぅ、そうだった。忘れていた、応接室に通してくれ」

 来客のようだ。

「森川君、すまないが大切な来客なのだ。また、夜にでも語り合おう」

 翔太は、早々に研究室を出た。入り口でVIPの来客と思われる数人の男達とすれ違った。スーツにサングラス姿で表情は読み取れないが、日本人ではなく、如何にも西洋人らしい背の高い二人組だった。「何かが起こっている」そんな思いが翔太の脳裏に沸き上がった。

 取り急ぎ結成された『翔太の借部屋探検隊』は白亜の館の前にいた。二人の隊員は、その建物の立派さに感嘆した。

「確か、この家だよな……」

「本で見た大正時代の洋館みたい……素敵」

 鍵を開けて中に入ると、その広さ、調度品の数々に隊員達は驚嘆した。

「中も凄ぇな、一体どれくらいの広さがあるんだ。部屋は幾つある?」

「部屋は6つある。その他にリビングとダイニングとキッチン」

「凄ぅい」

「翔太、本当にここに一人で住むのか?」

「そうなんだけど・」

「何だよ、歯切れが悪いな」

「やっぱり、翔太君、誰かと住んでるの?」

 また、美香が泣きそうな顔をしている。慌てた翔太は、不動産屋の男と同じ仕草で答えた。

「違うよ、美香ちゃん。これだよ、これ」

「これ?」

「これって、これか?」

 翔太は、両腕を垂らして何かの格好をした。

「そうなんだけどさ、実体のある女の子なんだよ」

「女の子、女?」

 美香が、また泣きそうな顔をした。

「美香ちゃん、違うってば。落ち着いて」

「おぅい翔太、電気の点いてる部屋があるぞ。お前一人じゃないのか?」

 いつの間にか、玄関からリビングを出て廊下を探索していたパックンが、声を潜めて言った。

「そのドアは、博士の研究室だよ」

「博士?」

「ボクも昨日知ったんだけど、その部屋がウチの大学の志羽教授の研究室になってるみたいなんだ」

 志羽は既に帰っているようだ。ノックすると扉の向こうから聞いた事のある女性の声がして、ドアが開いた。あの女性だ。

「あ、いらっしゃい」

「博士はいらっしゃいますか?」

「どうぞ。中に入ってください」

 翔太の後ろで「やっぱり、女・」と呟く美香の声がする。志羽はまだ帰っていないようだったが、研究室にいた三人のロボットだという女性がパソコンに向かっている。部屋は想像したよりもずっと広く、同じ一階部分が反対側から出入り出来る造りになっている。部屋には、玄関の他にも幾つものドアが見える。

 暫く三人が待っていると、玄関ではないドアが開いて、「疲れた、疲れた」と言いながら白髪の志羽が顔を出した。

「おぅ森川君、来ていたのか」 

「はい、友達とお邪魔してます」

「あっ、確か志羽先生ですよね?」

「私も思い出した。『1000年後世界』の特別講義の志羽先生だ」

 パックンと美香は、芸能人でも見るような目で志羽を見ながら興奮気味に言った。そう言えば、講義は三人で聞いたのだった。

「森川君、今からちょっとやる事がある。直ぐに終わるから、そのソファーに座って待っていてくれ」

 志羽が別のドアに消えた。

 程なくして志羽が戻ると、森川翔太の質問タイムが始まった。翔太には山程の疑問がある。

「博士、まずはロボットの話ですが、博士自身もロボットだなんてとても信じられません・」

「先生がロボット?」

「意味がわからない」

 パックンと美香は、いきなりの話に目が点になった。

「あぁ、それか。実はな、ワシは以前講義した「1000年後の世界」からやって来た未来人なのだよ」

 即座に、翔太の指摘が飛ぶ。今日日の若者達が「未来人」という言葉に驚く事などない。もう数十年も前から、ネットには未来人や予言、都市伝説の類が溢れている。

「どうやって未来から時を遡って来たんですか、やっぱりタイムマシンですか?」

「まぁ、そういう事だ」

 事もなげに話す二人の突拍子もない会話に、パックンと美香の目が輝いている。

「えっ、タイム・マシン?」「凄ぅい」

 パックンと美香の興味本位の興奮が伝わって来る。

「タイム・マシンと言えばタイム・マシンだな・」

「どこにあるんですか?」

「リビングの上の二階真ん中三番目の部屋だ」

「見てもいいですか?」

「構わんが、君達の想像するモノとは少し違う形態だと思うぞ。それと、時々勝手にスイッチが入って、時空間がどこかに翔んでいるかも知れんから気を付けてくれ」

 志羽説明しようとしたが、パックンと美香はオモチャを買い与えられた子供のようにはしゃぎながら、二階へと走り出して行った。

 翔太は、お茶を啜りながら瞑想した。

「森川君は行かないのか?」

「もう見ました。あれがタイム・マシンなのですか?」

「そうじゃな。この時代から800年程過ぎた頃に、時間と空間の概念が全く違うものになった。わかり易く言うならば、どこでもドアが創造されたのじゃ」

「800年後かぁ」

 遠くで、パックンと美香の悲鳴が響いた。

「だが、既に使い物にはならぬ。あの機械は世界政府が極秘に開発したワームホールを利用した時空間移動装置でな、特別なエネルギーが必要となる。ワシは世界政府の命を受けて西暦3038年を出発したが、同時にその世界に存在するこれ以外の移動装置は全て破壊した。従って、誰もこの世界にやっては来れぬし、新たに装置を造らぬ限りワシも3038年の世界に帰る事は出来ぬよ」

「先生がこの時代に来た目的は何ですか?」

 志羽は、バイオロボットとは思えない切なそうな顔で言った。

「ワシがいた西暦3038年は、人類は危急存亡の時を迎えつつある」

「危急存亡の時というのは、研究室で先生が言っていた「完成したヤツ等を倒す武器」「人類の滅亡を阻止」と関連した話ですか?」

「そうだ。ヤツ等とは、神の使い魔獣アビス。西暦3038年の世界に1000万匹いる魔獣で、ヤツ等はヒトを喰らう。人類が喰らい尽くされてしまうのも時間の問題なのだ」

 翔太は興味深々の顔で訊いた。

「西暦3038年の地球には、どれくらいの人間がいるんですか?」

「世界7ヶ国にあるシェルターにそれぞれ1万人程が避難している事と世界政府組織が存続している事はわかっているが、それ以外はわからない」

「化け物みたいなヤツ等が1000万匹、人類は7万人かぁ」

「ヤツ等には、我々の通常兵器は通用しない。ヤツ等の身体構造は表層が我々と同様の有機体で、その下の骨格は金属で構成されている。更に中心には有機体と幽体の融合した核があり、核だけでも生きる事が可能だし、細胞分裂する事で再生する事が出来る。要は死なないのだ」

「西暦3038年から来た志羽先生は、2038年のこの世界で何をしようとしているんですか?」

「人類を喰らう魔獣ABYSアビスの始祖AGNIアグニを討つ」

「始祖?そうか、その魔獣の始祖アグニが分裂する前に消滅させる事で歴史を変える為に、この世界にタイムワープして来た未来人って事なんですね?」

「まぁ、そういう事だ」

「でも、歴史が変わってしまって大丈夫なんですかね。具体的に何がどう変わって、どんな影響があるのかなんてボクにはわかりませんけど」

「それは、ワシにもわからんよ。歴史を変える事の是非さえわからないが、ワシには人類がヤツ等に喰らい尽くされ、消滅していくのを何もせずに見ている事は出来なかったのだ」

「でも先生、その始祖アグニがいつ現れるのかわかるんですか?」

「西暦2038年6月9日午前11時11分。神の使いを自称し、漆黒の翼を持つ魔獣アビスの始祖アグニは、東京大学本郷キャンパスの三四郎池の上空10メートル程に現れる。これは歴史的な事実であって必ず実現する、必ずだ。そして人類は滅亡する。それが人類の歴史であり、必然なのだよ」

「予言みたいですね」

「いや、君達にとっては予言になるかも知れないが、ワシにとっては現実なのだ」

 志羽は思いを吐き出すように続けた。

「元々ワシは物理学が専門でな、アメリカ政府機関で時空間移動装置実用化の研究に従事していた。ところが、3038年それまでヒトの姿に変異して社会に隠れていた全てのアビスがその姿を現し、人類への最終攻撃の為に国家レベルの侵略を開始したのだ。その為、『世界政府アビス対策委員会』が発足し、ワシはその技術顧問となったのだが、世界7ヶ国を含めた世界中の人々がヤツ等の犠牲になるのに大した時間は掛からなかった。そして、アメリカを中心とする世界政府軍は、ヤツ等に対抗する手段としての核融合爆弾の無差別爆撃を決定した」

「博士、そんな事をしたら、地球自体が破壊されてしまうんじゃないですか?」

「そうかも知れぬが、ヤツ等に対抗する方法が全くない状況では、誰にも世界政府軍を止める力はなかった」

「核爆弾で地球はどうなったんですか?」

「西暦3038年の時点では、未だ核爆弾は使用されてはいない。何故なら、核融合爆弾攻撃の前に、ワンチャンスとして時空間移動装置による最終プロジェクトである『アビス始祖アグニ謀殺作戦』の遂行が決定されたからだ」

 志羽が続けた。

「もしこのプロジェクトが失敗すれば、世界政府軍は核融合爆弾をヤツ等に向けて撃つだろう。そうなった場合、ヤツ等とともに人類もこの地球から消滅する可能性は高い。どちらにしても、ワシはこの作戦を命に替えてでも成功させねばならない。それこそが我等人類が生き残る唯一の方法なのだよ」

「タイムワープに問題はなかったですか」

 翔太が意味不明な事を訊いた。

「・タイムマシンは既にふ完成していたから、時を遡るのは難しい事ではなかった。途中で、質量制限値オーバーという謎のアクシデントはあったが、何とか予定通りに翔ぶ事が出来た」

「勝算はあるんですか?」

 志羽は神妙な顔で言った。

「問題はそこだ。過去に翔んだ後始祖アグニが現れる2038年間に向けて如何に周到に準備するか、どうやって始祖アグニを謀殺するかだった。その為に、1945年の世界に翔び、90年余りを掛けて作戦遂行の準備を整えたのだよ」

「もしかしたら、先日研究室に来た外人も準備の一貫ですか?」

「察しが良いな、あれはアメリカ国防総省の役人じゃよ」

「アメリカ軍にも話を付けたって事ですか?」

「まぁ、そういう事だ」

 老人は口籠り、口をへの字にして顔を曇らせた。

「アメリカ軍に話を付けたと言えば聞えは良いが、要はアメリカ大使館に相応の寄付をしてアメリカ政府を抱き込み、日本政府にも話を付けただけだ」

「なる程」

「色々あったが、結果的には当日アメリカ海兵隊が出動する事になった」

「でも、通常兵器は通用しないんじゃないですか?」

「通用しないが足留めは出来る。ヤツは、通常の鉛の弾丸で撃たれると体の中で鉛を消化する為に動作が止まり、その消化が終了するには多少の時間を要する。多量の弾丸をくらえば、当然ながら相応の時間ヤツの動作が止まる、という事だ」

「なる程、なる程」

「それが、準備の第一段階だな」

「まだ、他にもあるんですか?」

「当然だ、そんなものでヤツを消滅させる事など出来ない。第二段階は、動作の止まったヤツに、火炎放射を浴びせ表層部分を焼き尽くす」

「それは、凄いですね。でもヤツは死なないんですよね?」

「そうだ。表層を焼いても特殊な金属生命体が現れるだけだ。姿を変異させる事が出来る金属生命体だ。第三段階としては、ロケットランチャーから液体ヘリウムを詰めた冷凍弾を撃つ」

「凍らせるって事ですか?」

「そうだ、今頃は、キャンパス内でアメリカ海兵隊が攻撃の準備中だろう」

「それで大学が閉鎖になったのか」

 愈々いよいよ運命の時、悪魔アビスの始祖アグニが出現する瞬間が来た。東京大学本郷キャンパスの食堂の隣にある三四郎池にヤツは現れる。それは恐らくは現実となるだろう。西暦3038年からやって来た未来人志羽の語る未来は、かなり胡散臭いと言えば胡散臭い。だが、人間と見分けの付かないロボットを造れる科学的知識を持っている事を考えれば、それも信じざるを得ないだろう。それでも尚、翔太には本当なのかという思いはある。

 三日前から大学構内は立ち入り禁止となっていた。翔太とパックンと美香は、志羽とともに特別に食堂から一部始終を見ようと見構えていたが、目前のその光景は異様だった。大学のキャンパスに鉄の塊に見える戦車が1台、それを囲むアメリカ海兵隊員達はM16マシンガンとロケットランチャーの照準を合わせている。ここは本当に日本、文京区なのかと思えてくる。時が停止したように時間が長く感じられる。

 志羽がカウンターに銃を置いた。

「先生、それ本物ですか?」

「当然、本物だ。万一の為に海兵隊から借りたのだ」

 そんな会話の途中で、突然、三四郎池の上空に小さな光が見えた。

「あれか?」

 光は次第に大きく膨張し、その周りにプラズマの青藍色の雷光が纏い付く。光の中心に漆黒のヒトの姿が浮き上がり、羽を広げた影を映した。

「あれに違いない、ここから全ての新しい歴史がが始まるのだ」

 志羽は解説者の如く、正に今始まろうとする歴史の転換点を語った。

「Shoot at the target. (目標に向かい攻撃、撃て)」

 待っていたように海兵隊の第一次攻撃が始まった。激しい銃声は窓越しに状況を見据える一同の耳をつんざく程に響いた。四人は耳を塞ぎ、何とか薄目で目前の状況を確認するのがやっとだ。

 海兵隊員達は、中空に浮かぶ黒い翼のある何かに向かって撃ち続けた。広角度から撃ち捲る銃弾の嵐が黒い翼のヒト型の動きを制し、とんでもなく凶暴と思われる黒い物体を蜂の巣のように撃ち砕いた。そして、瞬時に第二次攻撃、トドメを刺す火炎放射を浴びせた。何の躊躇もなく当然の如く発射された劫火は、黒い物体を地上に引きずり下ろし焼き尽くた。燃えた跡にある筈の核さえもなく、 三四郎池には燃え残った黒いカスが落ちただけだった。海兵隊員達は口々に言った。

「It was over too soon. Is this the end?(呆気ないな。この程度なのか?)」

「Rocket launcher is warming the bench. (ロケットランチャーの出番がないな)」

「Metal life form will come after this?(この後で、金属生命体が姿をみ見せるんじゃなかったか?)」

「Well, that's fine. Because it burnt out anyway.(まぁ、いいさ。どうせ燃えちまったんだから)」

「Let's go to yoshiwara quickly. (とっとと、オネェチャンの店に行こうぜ) 」

「Yes. go for there together. (そうだ、早く行こうぜ)」

 海兵隊の攻撃が止んだが、それは未来人志羽の納得のいく状況ではない。何かが違うのだ。西暦3038年の世界で人を喰らい、神の力を備えどんな重火器にも耐える不死身の魔獣アビス。その始祖アグニがこの程度の攻撃で消滅してしまう、そんな事があるだろうか。

「先生、終わりましたね」

「いや、どう考えてもおかしい。こんな事はあり得ない」

「そうなんですか?燃え尽きちゃいましたよ」

「いや、違う。あれはアグニではない。あの程度の攻撃で消滅する事自体あり得ないが、それ以上に細胞核が燃え尽きる事など絶対にないのだ」

「Finished」「Booyah」「Wow」「Yippee」」「Yeah」」「Hot dog」

 志羽が呟く声など掻き消す海兵隊員達の歓声が響く。その中を一人の少女が姿を見せ、白金色の髪を靡かせて海兵隊員達に近付いた。

 海兵隊員達には、場違いな少女がそこにいる意味が理解出来ない。少女は両手に何かを持っている。しかも、少女の身体から不思議な雰囲気が漂っている。

「これを、皆さんに差し上げます。This is presents for you」

 白金色の髪の少女は、首を傾げる海兵隊員達に向かって、その言葉とともに白い金属製の箱を投げた。

「あれは・魂子ちゃんじゃないですか?」

「そうだな」

 魂子の姿に驚く翔太の隣で、志羽は成り行きを凝視している。魂子の登場を予期していたようにも見える。

 魂子の投げた金属製の箱が激しく爆裂し、海兵隊員達十数人が吹き飛んだ。持っていたのは小型爆弾のようだ。歓喜は一転して混乱と狂気と呻き声に包まれた。

「What the fuck・」「Oh My Gosh・」「Holy cow・」「Damn it・」「Jesus・」

 海兵隊員達は、少女に向けて一斉にマシンガンを撃った。少女の身体は撃ち捲られて肉片に変わる筈だった。だが、漂っていた不思議な雰囲気の正体がわかった。弾が少女の身体を透過したのだ。貫通したのではない。身体が透けている。

「先生、何がどうなっているんですか。何が何だかわからない」

 パックンと美香は机の下で震えている。翔太の理解は宙を舞った。始祖アグニは焼き尽くされたが、何故かあの霊体の魂子が現れて海兵隊員を攻撃した。霊体魂子は何者なのか。

「あれは、始祖アグニの創造した霊体戦士だ」

「アグニの創造した霊体戦士って事は、魂子ちゃんは悪者の手先なんですか?」

「そういう事になるな」

 志羽は、研究対象として来た魂子の生体を知っていた。霊体である魂子に、通常の武器で対抗するのは無意味だ。ゴーストバスターでもない限り、霊体を攻撃出来る有用な武器など存在しない。

「先生、何とか魂子ちゃんを止めないと・」

「無理だ、タマコちゃんに意志はない」

「どういう意味ですか?」

「タマコちゃんは霊体ロボットで、操られているのだ。それは、恐らく始祖アグニだ。しかも、霊体にはどんな武器も効かない」

「どうすれば……」

「だが、ワシが魂子ちゃんに物質変換装置を埋め込んだ。一瞬ではあるが、今から実体化させる。それで終わりだ」

「?」

「本当に残念だが、それしかない」

 翔太には志羽の言葉の真意はわからないが、志羽がこの流れを呼んでいただろう事は、その落ち着き払った状況から見て取れる。

 志羽は、携帯電話で誰かに指示をした後、アプリらしき何かを操作した。指示が英語である事を考えれば、その相手が海兵隊員であろう事がわかる。

「先生、何がどうなるんですか?」

「終わりだ・」

 魂子から不思議な雰囲気が消え、透けていた身体がはっきりと見える程に実体化した。そのタイミングで海兵隊員の放った火炎放射の炎は、実体の少女の身体を包み込んで燃え上がった。

「あぁ……」

 翔太は、言葉にならずに絶句した。

 再び、海兵隊員達はほっと胸を撫で下ろし、気勢を上げた。

「This time it's over」「Booyah」「Wow」「Yeah」「Yeah」」「Hot dog」「Finished」「Booyah」「Wow」「Yippee」「Yeah」

 そんな状況の中を一匹の猫が近付き、作戦の完遂を喜ぶ兵士達に抱き抱えられた。その光景を見据えながらも、謎に苦悩する志羽は、見知った黒い猫に疑問を投げた。黒い猫など珍しくもないし、魂子がいた事を考えれば、あれが白亜館のタマである事は間違いない。体の真ん中に白く丸い模様がある黒猫は匆々そうそういない。

「あれは、タマか……何故?」

 その時、突如に黒猫が何かの姿に変身した。

 その姿には見覚えがある。漆黒のヒト型が羽を広げ影を映す。黒猫が悪魔の姿になった。志羽は、その姿に思わず叫んだ。

「あれだ」

 魔獣アビスの始祖アグニが姿を現した。

 次の瞬間、漆黒の魔獣は一人の海兵隊員の喉元に喰らい付き肉と骨を引き千切ると、次々と兵士に喰らい付いた。ある者は頭を喰い千切られ、あの者は腕を喰われ、ある者は刃物に変化した尻尾に首を飛ばされた。突然の事態に狼狽する海兵隊員は、銃を乱射した。魔獣の速さに付いていけない海兵隊員達は互いに撃ち合い、撃たれた数十人がのたうち回った。周辺は血の海と化した。

「我が下僕を倒した程度で、何をいい気になっているのだ、愚か者共」

「It's monster・(化け物め)」

 海兵隊員達が震え出した。

「何とでも呼ぶが良い。態々わざわざ、我が餌と成りに自ら来る愚か者共よ、存分に喰らい尽くしてやるぞ」

 漆黒の魔獣は、100人を超える海兵隊員達に喰らい付きながら、呆然と言葉を失する志羽に向かって言った。それは、意識に直接語り掛ける声だった。

「シバよ、残念だったな。キサマの思う通りにはいかぬよ」

「お前はタマなのか?何故・」

「我は、神の使いアビス。「西暦2038年に時を遡り、我を殺る」などという稚拙な方策を看破するなど容易い事だ」

「何故、タマなのだ?」

「我は、お前がこの世界へやって来る以前にこの世界へ来ていた。そして、あの家にお前をおびき寄せて、猫の姿で十分にお前を監視していた。戦う準備などとうの昔に終えていたのだ」

「そうだったのか・」

「我は、お前にそれを教えてやっていたぞ。表札にAGNIと書いた、それを逆に読んでいたお前が愚かだったのだ」

 タマが、いやネコに姿を変えていた獣が誇らしげに言った。

「そうか、先に来ていたとはな。しかも、あの家に誘き寄せられていたとは……だがまだワシの『稚拙な方策』は終わりではないぞ」

「先生、もうダメです。諦めて逃げた方がいい」

 翔太には勝利の方程式は描けない。

「いや、ここからはワシの子供達の出番だ」

「子供達?」

 志羽の言葉に呼応し、血深泥ちみどろの凄惨なその場所へと近付く者がいた。白い開襟シャツに黒い眼鏡、どこかで見たような中年の男は、強い意思を前面に出して歩いていく。翔太はその姿に驚いた。

「あっ、不動産屋さん」

「あれは、君を白亜の館に案内した不動産屋だ。あれこそは、ワシの造った優秀なるロボットの壱マルだ」

 志羽の造ったバイオロボットと獣の戦いが始まった。

「こらこらアグニ、やり過ぎだよ。始祖なんだから、もう少し節度のある行動をしなくちゃダメじゃないですか。そんなに食べたらお腹壊しますよ」

「キサマは誰だ?」

「私が名乗ってもムダでしょ・」と言い終わる前に、ロボットの不動産屋は右手に持った小型マシンガンを無造作に撃った。獣は、瞬時に音を超えるスピードで移動し、造作もなく弾を避けた。

「私のスピードには付いて来れまい」と誇らし気に見縊みくびる獣。ロボット壱マルは、その姿を内蔵する高感度カメラで捉え、数値化した上で移動予測位置を弾き出す。

「そこですね」

 ロボット壱マルが、獣が移動する予測位置に特殊な細工をした弾を放った。弾は当然のように獣の身体に正確に命中し、獣の動作が停止した。

「そんなものは通用せぬ・よ・」

 獣は何とか言葉を発し必死に抵抗するが、身体が動く事はない。特殊な細工、獣の弱点である水銀を含んだ弾は、獣の神経系に作用し動きを確実に止めた。

 ロボット壱マルは躊躇なく第二段攻撃に移る。左肩に携えた火炎放射器が炎を吐き、劫火は獣の翼と身体を焼き尽くした。

「・馬鹿め、我が体を焼けば水銀の弾は消える。キサマの敗けだ」

 焼かれた炎の中から、薄笑いを浮かべ銀色に輝くヒト型金属生命体が姿を見せた。瞬時に獣の反撃が始まるのは必然だ。

「先生、やっぱりヤバいですよ」

「いや、予定通りだ」

 反撃が始まった。と同時に、海兵隊員に紛れていた全身ピンクのバトルスーツに身を包んだ二体のバイオロボットが銀色の生命体を羽交い締めにした。

「あれはワシの造った優秀なるロボットその二、弐マルと参マルだ」

「あっ佳奈さん達だ」

 身動き出来ない銀色の生命体に向かって、壱マルは小型ロケットランチャーの引き金に指を掛けた。有無を言わせず放った冷凍弾は金属生命体に至近で当たり、確実に銀色の生命体を白い爆煙に包んだ。

「う・動か・ぬ・」

 銀色の金属生命体は凍り付いた。「やった」と翔太が手を叩いた。

「いや、まだだ。マズい、ヤツの三倍体での反撃が来る。もっと冷凍弾を撃て、撃つのだ」

 志羽の言葉通り、凍り付いた銀色生命体は膨張を始め、三倍程にまで膨れ上がると突如として猛烈な勢いで火炎を吹き出した。壱マル、弐マル、参マルが全身に浴びた炎で燃え上がった。

「先生、今度こそダメですよ。もう手がない」

「いや、まだだ。取って置きは最後に残しておいた」

「取って置きって、まだ何かあるんですか?」

 最終手段のロボット三体が炎の中で燃え上がっている。どう見ても、未来人志羽の敗北が確定しているように見えるが、志羽が諦める事はない。何故なら、志羽は世界政府一の諦めの悪い男なのだ。

「ワシだ、ワシがやる。ヤツは今はまだ完全には動けん筈だ」

 そう言って志羽は走り出したが、カウンターの上に銃が置かれたままだ。翔太は、銃を渡すべく後を付いて走った。

「先生、忘れものですよ」

「これが取って置きじゃ。三倍体のヤツの核に、この水銀製の冷凍弾を撃ち込む事こそがアビス唯一の弱点なのだ」

 志羽は、切り札の短銃で三倍程にまで膨れ上がった獣の身体の中心に向けて、水銀弾を撃とうとしたが、銃がない。銃がなくては切り札が出せない。

「先生、銃を忘れてますよ」

 走り寄る翔太が、置き忘れた銃を持っている。志羽は咄嗟に叫んだ。未だ獣の動きは緩慢なままだ。

「森川君、撃て。ヤツの身体の真ん中を撃つのだ」

 翔太は、言われた通りに引き金に指を掛けた。冷凍水銀弾はパン・と破裂音を響かせて真っ直ぐに飛び、獣の身体の中心にある核に命中した。アビスは立ったまま一瞬で凍り付いた。

 その瞬間、神の使いアビスの始祖アグニ、そして1000年後約1000万匹に分裂するクローン魔獣が人類を喰い尽くす悲惨な未来が崩壊した。

「やったぞ、やった。命懸けでやって来た甲斐があった……」

 白髪の老人志羽は、拳を握り締めて一入ひとしおの喜びを表した。長い旅が漸く終わったのだ。目の前の悪魔の細胞核は冷凍保存され、いつの日か確実に葬り去られるだろう。1000年後の西暦3038年以降も、きっと人類は繁栄を続けていけるに違いない。一人の科学者の命を賭した人類救出計画が完結した。

「先生、良かったですね」

「うむ、有り難う・」

 翔太は優しく志羽の肩に手を添えた。喜びに老人の身体が震えているのがわかる。

「ひひ・」

 翔太が何故か笑い出した。嫌な笑いだ。志羽の肩に掛けた翔太の腕がスライムのように溶け出し、白髪の老人の身体を覆っていく。老人は、突然の現実を受け入れる事が出来ない。

「お、お前は……誰だ?」

「ボクですか、ボクはアビスの進化型ですよ。でも、今頃気付くなんて遅過ぎですよ。過去に遡ってボク等の始祖をするなんて、いい作戦だったのにな」

「何故だ……何故アビスがここにいる?」

「そんなの簡単。先生と一緒にタイムマシンに乗って、時を遡ってこの世界に来たんですよ。ボクは細胞核だったのに、途中でタイムマシンが質量制限値オーバーで止まったのには驚きましたけどね」

「まさか、タイムマシンに進化型の細胞核が乗っているとは……」

「気が付かなかった先生が愚かだったという事です。それにしても、今日まで長かったですね。細胞核の時から、今日まで90年以上も掛かっちゃいましたからね」

 老人志羽は、強気に言い返した。例え進化型がいようとも、始祖は殲滅したも同然だ。当初の予定通りに、目的は達している。

「だが、キサマ達アビスの始祖は死んだも同様。ワシの勝ちだ・」

 アビスと化した翔太は、再び嘲笑わらいながら言った。

「人間が始祖を殺れば良かったのにね。そうすれば、始祖とその細胞分裂から生まれたボクを含めた全てのアビスは必然的に存在しなくなる。でも、残念ながらボクが始祖を撃った事で、この世界はタイムパラドックスに堕ちて、永遠にループする事になる。このループから抜ける為には、始祖を生かしつつボクがこの世界を支配して歴史を繋げていくしかない」

 志羽の顔に悔しさが滲んだ。

「恐らく、タイムパラドックスはお前の考えるようにはいかぬぞ」

「ボクの目的は最初から先生と始祖を殺る事だったんですよ。その目的を達成する為なら、タイムパラドックスなんて屁でもない。あの白亜の館に住めるように不動産屋に頼んだのも、先生の出方を見る為ですからね」

「何と・」

 進化型アビスは、スライムのように志羽の全身を包んだ。志羽の身体が見る間に溶けて消えた。パックンと美香は既に逃げて、その姿はない。

「さてと、ボクが始祖になる目的は達成された。ボクが始祖になれば、3038年を待たずに、この世界の人類は滅亡させてアビスの世界にしてやる。ボクは1000年も待ったアグニ程優しくはない」

 アビスの進化型が増殖する事で、神の慈悲による1000年間の猶予さえなしに、人類は滅亡するに違いない。未来人志羽誠人がいなければ、人類滅亡を阻止する方法はもうない……と思われる。 

 翔太の背後で、ドン・と鈍い発砲音がした。

 建物の影に、何故か消え去った志羽が立っている。高笑う翔太に向かって、志羽の銃から発射された冷凍水銀弾が命中した。

「何故・たった今・溶けて消えた筈……」

「残念だが、ワシは死ぬ事はない。今溶けたのはワシのロボットだ。お前がいる事は既にわかっていた。だから、あの家に呼び込んだのだよ」

「知っていたのか?」

「当然だ。ワシがバイオロボットである事は教えた筈だ。つまりワシは一体ではない。それに、残念ながら、ワシの勝利は初めから決まっていた」

「どういう意味だ?」

「お前を巻き込む事で、始祖をする確率は倍になる。ワシが始祖を殺れば全ては終わる。お前が殺ればタイムパラドックスに堕ちる。どちらであっても、ワシの勝利は揺るがない」

 翔太は、悔しそうに負け惜しみを叫んだ。 

「先生、アナタはきっと後悔する。人間程愚かな生物はいない。所詮、人間には正義など理解出来はしないのだ……」

 全ては完了し、志羽誠人の『アビス始祖アグニ謀殺作戦』が成功裡に終了した。

 西暦2038年に現れた神の使い漆黒の悪魔の始祖アグニとは、果たして何だったのだろうか。そんな根本的な疑問を残して、未来からやって来た救世主志羽誠人は満足げな顔で1000年後の世界へと帰って行った。

 時空を超えた究極の戦争に勝利し、人類滅亡という歴史は書き換えられた。再び、永遠に続くであろうヒト人類の新しい歴史が始まるのだ。

 西暦3254年、世界政府統一定期評議会が開催された。

 その席上で、世界政府名誉顧問であり世界政府アカデミー名誉教授の志羽誠人は、恒例となった『ヒトと神との契約』について情熱をもって語った。

かつて、崇高なる神はこの世界を創造し、神の忠実なる下僕として自神の姿に似せてヒトを造り賜うた。ヒトは神の創造物であり、神の絶対的従者であった。神は喜びと希望を以てこう言われた。『ヒトよ、生めよ、増えよ、地上に満ちよ』と」

 志羽は続ける。

「神はまた『ヒトは善なるべし。神の下僕なるべし』と宣い、ヒトは神の使いとなり万物の霊長たる地位を付与された。かくして、神の創造物たるヒトは加速度的に増殖し、諸有あらゆる生物を従える万物の霊長たる地球人類となった。

 そして、最強の敵であるウィルスとの戦いに勝利した我等ヒト人類は、更に神の力たるクローンテクノロジーを得て極限なる新たな生命を、核融合をして宇宙の無尽なるエネルギーを、重力制御とワームホールを以て無限なる時空間を創り出し、遂にはバイオテクノロジーを進化させて死を超越する事さえ可能とした。

 それは、正に神の世界、神の領域に土足で踏み込むのと何ら変わらぬ事であった。神の領域に踏み込んだ人類は、最早神の創造物、従者ではなく、万物の霊長であるとともに神に等しい存在として、この世界の唯一の統治者の地位を確立し、自ら「我は神なり」と愚言を吐くに至った。神への尊厳を失い、傲り享楽を貪る人類は、ある事に気付かなかった。地球生物である人類が地球の根本的な循環システムである弱肉強食という食物連鎖から逸脱する事、それは即ち、地球の生物としての地位を自ら捨て去る事だという事を。そして人類はある事を知る事となった。自ら手に入れた万物の霊長たる地位と生物としての不老不死、それは地球生物としての自己存在の否定、排除に繋がる事を。それは即ち、ヒトが自ら滅亡し地上から消滅する未来を選択した事を意味していた。

 神は、ヒトの邪心が地に蔓延り全てのヒトの心が常に悪を企てるのを見られると、地上にヒトを創造った事を悔いて心を痛め、遂に『ヒトを地上から拭い去ろう』と決心された。神は戒めを以てこう言われた。『ヒトよ、喰われよ、斥けよ、地上から消えよ』と。崇高なる神の御言葉は、言霊となり、漆黒の翼を広げた悪魔へと姿を変えたのだ」

 更に志羽は続けた。

「これこそが『神への贖罪』なのだ。人は決して驕らず、神の下僕たらねばならぬ。嘗て、我等ヒトは神との契約に依りて生きる資格を得た。神は我等にこう言われたのだ『ヒトの子よ、ヒトを殺めてはならない。神を崇めよ』と」

 志羽は、世界政府の基本方針に資すべく、世界政府評議会の通例に従い、悠久の時を紡ぐキリスト教の本義であり崇高なる神からの啓示、本来ヒトがあるべき姿を全世界の人々へ説々と語っている。

「我等はヒトであり、それ以上たり得ない。ヒトは神の下僕であり、神の御言葉に従い下僕としてのその生を全うする事が唯一生きる必然である。そして神はこうも言われた・」

 志羽誠人の講話の途中で、突然声がした。声に悪意が満ちている。

「もう良い、もう良い」

 壇上に同席する神聖地球軍司令長官ファビアス・ガナルは、見下し顔で志羽の要訣を遮った。

「志羽博士、アナタの語るお伽噺はもう聞き飽きた。神の言葉など腹の足しにもならなぬよ」

「ガナルよ、神の御言葉をお伽噺と表するなど以ての外、神の鉄槌が下るぞ」

「面白い、出来るものならやってみろ」

「許し難い。控えろ、ガナルよ」

 志羽の言葉など歯牙にも掛けず、ファビアス・ガナルはいきなり語り出した。

「煩い。我等は、イデオロギーその他の汎ゆる意識の違いを融合し、幾多の絶望的な天災や文明の断絶をも乗り越えて統一世界を実現して以来、革新的科学の進化を実現させ、光速航行、時空間移動手段の開発、重力制御及び高密度重装甲によるバリア、核融合、等の先進テクノロジーを得る事で太陽系を支配圏に治めた。そして、近い将来には銀河系を、更に全ての宇宙をも超越する最強文明ヘと成るのだ。必然として、我等地球軍は開拓者という名を冠する神となる。事実、我等は既に太陽系の各星々を統一した」

 志羽は即座に反論した。

「違う、それは開拓という言葉で誤魔化した侵略戦争に他ならぬ。完結した開拓の対象となった太陽系の星々には、相当数のヒトの住む星があったと聞いているが、現在その人々はどこにもいない、その矛盾をどう説明するのか?」

 志羽の言葉に、不満顔の大柄な男ファビアス・ガナルは言った。

「実に下らぬな。開拓プロジェクトには数々の解決すべき難問題が多々あった、それを果敢に乗り越えて、今我等は太陽系を越え大いなる宇宙へと船出しようとしているのだ。大事の中の小事、もっと大きな目を以て目的の遂行に邁進すべきなのだ」

 志羽は、ガナルの根本的な間違いを、正論をもって否定した。

「違う。何度でも言おう、我等は神の下僕であり、神の御言葉に従い命の尊厳を失う事なく生きるべきなのだ。それが例え地球人でなくとも、決してヒトを殺めてはならぬのだ」

「煩い、戯れ言など聞く耳持たぬわ」

「神の鉄槌が下るぞ」

「片腹痛い」

 大柄な男はすっくと立ち上がり、会場内に向かって声を張り上げた。

「皆良く聞け、神とは崇高なるテクノロジーによって宇宙を支配する存在を言うのだ。今、正に我等はその神となる事が出来る、太陽系を越えて天の川銀河、そして全宇宙をこの手に掴もうではないか。我等は神となるのだ」

 西暦3255年、太陽系の星々の開拓が始まった。だが、それは開拓プロジェクトという名の異星への侵略と異星人の虐殺に他ならなかった。

 西暦4250年、太陽系から天の川銀河系へと宇宙開発の空域を広げた地球人類は、星々に住む生物達をことごとく排除し、当然の如く人類と対抗する他星人との戦争は激化した。地球政府は「地球人類こそ神の存在、地球人類は天の川銀河系、そして宇宙を統一する」との大義と信念に基づき「銀河系に存在し地球人類に敵対する全ての生物の殲滅」を宣言し、「これは正義の戦いだ」と叫んだ。

 正義とは曖昧だ。他星を侵略し、他人類を惨殺する行為を正義と呼ぶ者はいない。だが、その悪魔の所業は大義名分を付加するだけで正義の戦いに姿を変える。所詮、正義など力を持った者の言い訳に過ぎないのだ。

 宇宙の侵略に狂奔する地球政府に異議を唱える者達は、地球人であると否とを問わず容赦なく粛清された。

 唯一、残った反政府政治結社『ABYSアビス』議長の志羽誠人も例外ではない。志羽は、銀河系の星々を侵略し、星々に住む生物を次々に惨殺していく地球人類を根本的に阻止する『地球人類殲滅プロジェクト』の遂行をせざるを得ない。

 助手のロボットが言った。

「博士、本当にやるんですか?」

「当然じゃ。本来的にヒトは神の下僕でなければならない。神を愚弄するヒト人類は、最早善なる神の創造物ではなく悪でしかない。神は、かつてヒトの悪が地に蔓延はびこり全てのヒトの心が常に悪を企てるのを見られると、地上にヒトを造った事を悔いて心を痛め、「創造したヒトを、この地上から拭い去ろう」と決心された。そして、神は、いましめを以て、「ヒトよ、喰われよ、しりぞけよ、地上から消えよ」と言われたのだ。ワシは、古の昔にヒトを喰らい滅亡の縁に追い込んだ神の使いを研究し尽くし、その力の全てを知っている。その力を以て、ヒトをしりぞけ、地上から消す事こそが神の御心じゃ」

「博士、時空間移動装置の準備完了。西暦2038年への発進が可能です」

 政治結社アビス議長志羽誠人は、目的完遂の意欲に燃えた目で力強く言った。志羽の姿が次第に漆黒の悪魔へと変化し始めた。

「全てを止めるにはこれしかない。過去の世界で、不死身となったワシに敵う者などおらぬ。神の御心に従い、神の使いABYSアビスとなりこの世界から悪たるヒトを消し去ろう」

 助手が言った。

「じゃあ、スイッチ押しますよ。博士、緊張してます?」

「これは人類を滅亡という絶望から救う計画じゃ。緊張などしている暇はない」

「そうですよね」

「時間がない。万一、ヤツ等がこの研究室に来るような事があれば、迷う事なく手筈通りに全てを破壊するのだぞ」

「了解です」

 志羽は、ガラス製の四角い箱型タイムマシンに乗り込んだ。促された助手が始動の赤いスイッチを押すとガラスの箱が回転し、タイムマシンはあっという間に激しい黄緑色の光に包まれた。

 そして、神の御心により一匹の漆黒の悪魔が翼を広げ、時の彼方へと飛び立って行った。


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時空超常奇譚3其ノ壱. ABYS/悪魔はどこから来るのか 銀河自衛隊《ヒロカワマモル》 @m195603100

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