昨日見た夢・つれづれ短編集
ましさかはぶ子
85 空飛ぶクジラ - フアンタジー -
その日の午後は霧雨が降っていた。
暖かい雨だ。
俺はあまり話したことがない
別の課の課長と商談に出ていた。
なぜかその日、自分の課の課長に
「今日彼、借りていいか。」
とその課長が言って来た。
転勤したばかりなので知らない事が多い。
勉強してこいと言われてついて行ったのだ。
俺は窓から海が見える会社に勤めている。
その建物は海の近くにある。
この春、全国にある支店の一つのここに俺は来たのだ。
知らない街だったので不安はあったが、
ビルに入って外を見たら港が見えた。
なかなかいい景色だ。
一度で気に入り、
そこから海と空を眺めるのが毎日の楽しみになった。
商談は無事終わり、二人で傘を差しながら
駅まで歩いていた。
梅雨時だ。
空は雲に覆われて街中はしっとりとしている。
「手間をかけさせて悪かったな。」
課長はにこりと笑って俺を見た。
挨拶をするぐらいの間柄だが元々印象が良い人だった。
「いえ、こちらこそいろいろと勉強になりました。」
「どうだ、喫茶店にも入るか。」
「あ、ありがとうございます。」
と課長は言うと傘をずらせて空を見た。
「あ、」
彼はじっと空を見た。
俺もつられてそこを見た。
周りには高いビルが建っている。
その間に白っぽい大きな何かがふわりと浮いていた。
俺はしばらくそれを見ていた。
「課長、あ、あれって……、」
俺は課長を見た。
彼と目が合う。
「君、やっぱりあれが見えたか。」
「見えたって、その、あれはクジラですか?」
「クジラだよ。
雨の日にしか出ないクジラだ。」
彼はにやりと笑った。
俺はその後課長に連れられて喫茶店に入った。
店名は『くじら』だ。
店内に入るとクジラの置物や写真が
所狭しと飾ってある。
その喫茶店のマスターに課長が手を上げて挨拶をすると、
マスターはにこりと笑った。
課長は常連のようだ。
「課長さん、また見つけたの?スカウト率が一番だね。」
マスターが課長に言う。
「うちは転勤者が多いからね。
この人は元々目をつけていたんだ。」
と課長が俺を見た。
「す、スカウトってどう言う事ですか?」
中年の女性が水の入ったグラスを持って来た。
「見えたんでしょ?あれ。」
俺は先ほどのクジラを思い出した。
ビルの間の遠くの空にふわりと浮いている白いクジラ。
霧雨の中を幻のように音もなく通り過ぎていく。
ビルの間だ、ほんの少しだけ姿があり
クジラはビルに隠れて見えなくなった。
「クジラ、ですか?」
「そうよ、クジラよ。」
彼女は俺と課長がいるテーブルに着いた。
「あれは見える人と見えない人がいるの。
この課長さんは見える人。
そして私と旦那のあそこにいる喫茶店のマスターも
あれが見えるの。」
カウンターの向こうからマスターが手を振る。
「君、暇があれば外を見ていたよな。
海とか空が大好きだろ。」
課長が悪戯っぽい顔で俺を見た。
「え、あ、まあ。
昔から空を見るのは好きです。
海も好きですね。
だからここに転勤になって景色がいいんで
いいなといつも見てました。」
夫人がにこりと笑う。
「クジラが見える人が集まる『くじら』にようこそ。」
それから俺はそこの常連になった。
この街では都市伝説のように雨が降る日には
クジラが見えるという話があった。
だがただの噂だ。
見たという人は極めて少ない。
見たと騒いでもただの嘘つきと言われてしまう。
「だから私も子どもの頃から嘘つき呼ばわりよ。」
夫人がため息をつく。
元々ここの出身らしい。
「それでいつの間にか言わないようにして、
空も見ないようにしていたわ。
でもある時、ぼーっと空を見ているこの人に会ったの。」
夫人はマスターを見た。
「広い公園で空を一人で見ているの。
だから私も上を見たらクジラがいたのよ。
しばらく二人で空を見ていたわ。
そしてこの人が私に振り向いて
子どもみたいに笑って言ったの。見た?って。」
夫人は顔を赤くしてほほを手で押さえて恥ずかしそうに言った。
二人の馴れ初めだろう。
「それでお二人は結婚したんですか?」
「そうよ、この人も子どもの頃から
クジラの話をして色々と言われたらしいのよ。
でも私と会って他にも見える人がいたって
嬉しくなったんだって。
それでもしかすると他にもいるかもしれない、
寂しい思いをしてはいけないからこの店を開いたの。
そんな人達は店名で何か感じるかもしれないし。」
「なんかすごいですね、運命だ。」
俺が言うのを聞いて二人はにっこりと笑った。
「あなたを連れて来てくれた課長さんも
ここに転勤して来てクジラを見たのよ。
最初は自分がおかしくなったのかと悩んだらしいの。
それでたまたまこの店名を見てやって来たのよ。
それから会社でこの人は見える人かもと
目星をつけてここに連れて来るの。
転勤の人はこの地方に来て気が付くからね。」
「全国にあれが見える人って多いんでしようか?」
「分からないわ、でもあの課長さんも
最初は部下の様子がおかしいと気が付いて話を聞くと
クジラが見えるって言うからそれからここに連れて来るの。
まあここに来て仲間がいると気が付いたら
元気になるんだけどね。
だから最近は早めに目星をつけて連れて来るのよ。
やっぱり悩んでからだと可哀想でしょ。」
「俺はいつも空と海を見てるだろと言われました。」
「やっぱりね。
クジラが見える人は空とか海が好きな人が多いのよ。」
夫人が笑った。
「でもあのクジラって一体何でしょうね。」
マスターがサンドイッチを作ってテーブルにやって来た。
「僕もよく分からないな。」
マスターはサンドイッチを食べながら俺にも勧めた。
一口食べる。
とても旨い。
「あれは雨の日にしか出ないんだ。」
「そうなんですか。」
そういえば俺は晴れた日の空が好きで、
雨の日は嫌いではないがあまり外を見なかった。
だからクジラに気が付かなかったのかもしれない。
「それもいつも出る訳じゃないから。
それで僕はあれはクジラの魂じゃないかと思ってる。」
「魂?霊魂ならある意味クジラの幽霊?かな。」
「まあクジラも哺乳類だからね、
僕達と近いと言えば近い。だから見えるのかもしれない。
人の幽霊も見える人と見えない人がいるからね。
それと同じだよ。
それで僕が考えたのはクジラは他の星を目指しているという説だ。」
マスターは真剣な顔をして言った。
他の人が聞けば噴飯物かもしれない。
だが俺は真剣にマスターを見た。
「他の星の海ですか?」
「ああ、太陽系の地球以外の星には地球のような海はないが、
もしかしたら将来的に火星へクジラがたどり着いたら
そこに自分達が住める環境を作るかもしれない。
それかもっと遠い星に行くのか……。」
「フロンティア精神ですか。開拓者ですね。」
「そうだよ、いずれこの星が住めなくなった時に、
新しい所に移住するための偵察だ。」
いい大人が三人集まり夢のような話をしている。
人から見たら異常だろう。
だが俺はそんな話がとても楽しかった。
それから数年した時だ。
喫茶店にいると課長が一人の若い女性を連れて来た。
顔色の悪いひどく痩せた人だった。
暗い顔をしている。
話を聞くと女性は雨の中をとぼとぼと歩いていたらしい。
そして空を見て立ち止まったそうだ。
「空を見たらあれがいたんだよ。
だから見えているって思って。」
課長は笑いながら言った。
女性は店内をきょろきょろと見ていた。
「クジラばっかり……。」
課長は俺の肩を叩いた。
「私はもうすぐ転勤予定だ。彼女をよろしく頼むぞ。」
課長はにやりと笑った。
それからまた何年か経った。
俺の横にはあの時の女性がいる。
お腹が大きい。
「あの時はもう何もかもが嫌になっていたの。
昔から変な子と言われて。」
会った頃は暗い表情でがりがりに痩せていた。
だが今は全く面影はない。
「クジラが見えると言ったんだろ?」
「そう。見えるのに嘘つきとずっと言われて。
それで就職もうまく行かないし、
とぼとぼと歩いていたら課長さんに声をかけられたの。」
「もう課長じゃないよ、転勤先で部長になったよ。」
「すごい、出世したんだ。」
彼女は笑う。
「それで私がこんなにはっきり見えるのにとクジラを見ていたら、
部長さんがクジラがいるねぇ、って。」
「それで喫茶店に来たんだ。」
「そう。見えている人がいるのを知って本当にほっとしたのよ。」
と彼女は俺のそばに来て体を寄せた。
「結婚も出来たし。」
結婚式の時には喫茶店の夫婦と部長も来た。
部長にはスピーチを頼んだ。
「縁結びは私です。」
と威張っていた。
そしてもうすぐ子どもも生まれるのだ。
あのクジラは一体何だろうか。
幻のように空を音もなく飛ぶ白いクジラだ。
喫茶店のマスターは他の星への開拓者だと言った。
これから生まれる海を探しに行くのか。
そして俺もあれから数人あの喫茶店に連れて行った。
みんな転勤者だ。
そして皆空と海が好きだ。
そして俺は思う。
あのクジラは人の縁を結ぶものかもしれないと。
男女の縁だけでなく人の縁も結ぶ。
俺と彼女の間には子どもも出来た。これも一つの縁だ。
だから今度喫茶店に行ったら
マスターにそう言おうと俺は思う。
多分真剣に聞いてくれるはずだ。
だがそれは勝手な人の思惑だ。
クジラはきっと何も考えていないだろう。
単に広々とした青い空をゆったりと飛んでみたいクジラの思いが、
白いクジラとなって飛んでいるだけのような気がする。
あれから一度だけ雨の日に
海から浮き上がってくるクジラを見た。
クジラはどこから上がってくるか分からないらしい。
だから雨の日には必ず海を見るようにした。
だが仕事もある。
ずっと見ているわけにはいかない。
そして一度だけ海から出て来るのをたまたま目撃した。
灰色の海から静かに浮き上がる白い幻のクジラだ。
音もなくゆっくりと昇っていく。
ゆったりとひれを動かして天空へと。
その時俺の隣に同僚が来た。
「なかなか雨が止まないな。」
「そうだな、止まないな。」
「そういえば二人目、生まれたって?」
「ああ、女の子だ。」
「おめでとう。可愛いだろう。」
「そりゃもう。ありがとうな。」
気の良い奴だ。
だが彼にはクジラは見えていないのだろう。
俺はクジラが見える幸せを噛みしめながら返事をした。
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