25 バッハさん




学校のすぐそばにバッハさんがいる。

と言うか音楽室のバッハの肖像画にちょっと似ているのだ。

少しばかり広い庭のある古い平屋の家に住んでいる。

夏場はランニング一つで庭をうろうろし、

冬場は訳の分からない模様のセーターを着ていた。


そこで飼われている雑種の犬はアリアと言う名で雌犬だ。

とても人懐こく、帰り道の小学生をにこにこと笑っていつも見ている。

犬だから笑っているのかどうか分からないが、

あの顔は絶対に笑っていると皆は言う。

門越しではあるが手を伸ばすとそれを舐めたり

大人しく撫でられている。


バッハさんはいつも穏やかな人で時々私達に話しかけて来た。


「今日はどんな勉強をしたんだ?」

「算数と国語と理科、体育もあったよ。」

「体育は暑かっただろう?」

「ちょっとね。」


他愛のない話だ。

アリアはその横にいてバッハさんに撫でられている。

どの人にも愛想のいい犬だがやはりバッハさんが一番好きらしい。


「気を付けて帰れよ。」


バッハさんはそう言うと手をあげて家に入って行った。


ある時だ。

学校の帰りに犬の鳴き声が聞こえてくる。

それはバッハさんの家の方向だ。


私達は驚いて走って行くとアリアが門の近くで

外に向かって激しく鳴いている。

アリアは私達の顔を見ると門にぶつかるように

激しくきゅんきゅんと鳴く。


何かあったのだ。


「私、家に行ってみる。」

「私は大人を呼んで来る。学校の先生が良いよね。」


と友達は走って行った。

私達は門を開けて中に入った。

焦ったようにアリアが私に体を寄せた。


私は慌てて家の引き戸を開けるとそこにバッハさんが倒れていた。

アリアはバッハさんに駆け寄った。

私は一瞬ぞっとしたがバッハさんが少し動いたので

立ったまま声をかけた。


「バッハさん、どうしたの!」


バッハさんは呻くように言った。


「救急車……。」


そしてすぐに学校の先生が何人かやって来た。

家の電話から救急車が呼ばれてすぐにバッハさんは運ばれていった。


アリアも救急車に乗りたがって鳴いたが犬だから乗れない。

門の向こうに連れて行かれてしまった。


救急車が走り出す。

するとアリアもそれを追うように庭の方に走り、

ついて行けなくてそこでぐるぐると回ると

座り込んで遠吠えを何度もしていた。


私達はそれを見て可哀想でみんなで泣いた。



翌日、帰りに恐る恐るバッハさんの家の前を通った。

アリアはいた。

少しばかり元気がない。


しばらく皆と黙ってアリアを撫でていると、家から女の人が出て来た。


「もしかして昨日?」


若い女の人が言う。


「そうです。その、バッハさんは……、」


バッハさんと言うと女の人は驚いた顔になり少し笑った。


「お父さんの事、バッハさんって呼んでたの?」

「はい。音楽室のバッハの肖像画に似てるから。」


なぜか女の人の目が潤む。


「近くの小学校の子達がアリアを可愛がっていると聞いてたの。

あなた達よね。」

「私達だけでなくみんな可愛がってました。」

「そう……、ありがとうね。」


私はおずおずと聞いた。


「あの、バッハさん、大丈夫ですか?」


女の人の顔が難しくなる。


「その、頭の血管が切れたの。

大きな手術を昨日したんだけどまだ容体がはっきりしなくて。」


お姉さんの目から涙が零れた。

私達は彼女のそばに寄る。


「バッハさん、絶対に治るよ。良い人だもん。」

「バッハさん、いつも今日学校で何したって聞くんだよ。」

「アリアもバッハさんが大好きだから。」


私達は思わず色々な事を言う。

お姉さんはぽろぽろ泣きながら私達の頭を撫でた。

アリアも彼女の足元に来ている。


「本当にありがとう。

みんな心配しているってお父さんに伝えるわね。」


だがその翌日アリアはいなくなった。


帰りに門の外から皆で庭を見ているとお姉さんが出て来た。


「お姉さん、アリアは?」

「アリアは私の家に連れて行ったの。

お父さんが入院した病院は私の家の方が近いの。

そこで世話をするわ。」


私は寂しい気がしたが仕方がない事だ。


「ごめんね、勝手に連れて行っちゃって。」

「あ、ううん、良いの。アリアが元気なら。」

「それでね、今朝お父さんの意識が戻ったの。」


お姉さんが微笑む。


「えっ、ホント?」


私は声を上げた。


「本当よ、みんな心配しているって言ったらお礼を言っていたわ。」


私達は顔を合わせて笑った。


「それでね、お父さん、バッハさんね、」


お姉さんが少しいたずらっぽく笑った。


「本当にね、バッハさんなのよ。」

「えっ、」

「昔ピアノを弾いていたの。」


私達は驚いた。


「前にも病気をして指が上手に動かなくなって

引退してしまったけど。

だからみんながバッハさんと言ってくれるのが嬉しかったみたいよ。」


私達はほっとした。

そしてバッハさんと呼んでいるのを嫌がっていなかったのだと

聞いて嬉しくなった。




それからバッハさんの家には人気ひとけが無くなった。

やがて売り家の紙が玄関に貼られた。


「バッハさんの家、売りに出されちゃったね。」

「うん、バッハさん意識が戻ったとか聞いたけど。」

「アリアもどうなったんだろうね。」


だが小学生の私達には調べようがない。

優しく笑っていたお姉さんの顔を思い出すだけだ。




やがて夏が過ぎ秋が来た。

朝礼の時に校長先生が言った。


「今日は皆さんに手紙が来ています。」


皆が少しばかりざわつく。


「 『こんにちは。私はバッハさんの娘です。』 」


私ははっとする。


「 『皆さんに助けられたバッハさんですが、

先日どうにか退院出来ました。

ですが一人では生活が出来なくなりました。

なので今は私と一緒に暮らしています。アリアもいます。』 」


私は友達と顔を合わせて笑った。


「 『バッハさんはみんなと話をするのが

とても楽しかったと今も言います。

皆さん、助けてくれて本当にありがとうございました。

皆さんも毎日元気で楽しく暮らしてください。

バッハさんからの伝言です。

本当にありがとうございました。』 」


思わず拍手がわく。

みんなが心配していたのだ。




帰り道にがらんとしたバッハさんの家の前を通った。


「バッハさん、助かって良かったね。」

「そうだね、でもいなくなっちゃって寂しいよ。」

「仕方ないけどね。アリアにも会いたいな。」

「私、大きくなったら犬を飼う。

そしてアリアと言う名前にしよう。」

「雄ならバッハ?」

「うん、バッハ。」


私達はおしゃべりしながら通り過ぎた。


その時どこかから犬の声がしたような気がした。

私は振り向く。

でも友達は振り向いていない。


「どうした?」

「あ、ううん、なんでもない。」

「ねえ、今日どうする?」

「とりあえず公園に集まろうか。」

「それまで何するか考えてね。」

「おぉぉっけぇぇぇっ~。」


一人の友達がふざけて言うと皆が笑った。




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