パンデモニウムの晩鐘
@TABASCO3RD
千年帝国
魔界帝国の朝
――魔界――
それは人の言う「人の世界」と位相を異にし、流れる時を同じくする「闇の世界」の異名なり。
それは陽に代わり月が凍てつく光で命なき不毛の地を照らす、魔物たちの跋扈する魔境なり。
かの国は「魔王」と呼ばれる君主の下、種族、人種、信仰や思想の垣根を越え、一つとなって平和と繁栄を築き上げてきた。人々は蔑みの言葉である「悪魔」を自ら誇り、国の名としてこう呼んだ。「魔界帝国」と。
かの帝国は数々の困難を乗り越え、遂に始まりの魔王による建国から千年という記念すべき日を迎えることとなる。
魔王の座する帝都、パンデモニウムは祝賀に湧き、至るところで魔王を讃える声が聞こはじめ、黒い風にはためく慶賀の旗が家屋から所狭しと生えている。
時候は未だ早朝、月がようやく地の底から這い上がり、その青ざめた頭を出し始めた。帝国歴、第千年元日、建国の日から数えてぴったり30万回目の日の出……もとい月の出の瞬間だ。
「……ッ!」
そんな薄明るい月光が差し込む屋敷の一室で、身を横たえていた小さな人影が勢いよく跳ね上がった。随分な夢を見ていたのだろう、ゼェゼェと半身だけ起こしたまま肩で息をしながら、怯えきった、見開かれた目で周囲を見回している。
汗に濡れたベッドのそばに置いてある"魔法"瓶から、片手に収まるほどの焦げ茶の硬い木の実を取り出して根本の方をぎゅっと握ると、つるん、と飛び出すガラスのようなみずみずしい実を口の中に放り込み、落ち着くようにと自分に言い聞かせながらゆっくりと噛み締めた。
少しして、その実の薬効が現れ始めたのか、荒かった呼吸も幾分か穏やかになり、果実を飲み下して大きな種をぷっと口から吐き出すと、深い息を吐いた。
「クソっ……まただよ……」
少年がこのたぐいの悪夢に苛まれるのはこの日に始まった事ではない。思い詰めて眠れない日が続き、珍しく眠れる日があると思えばこのように悪夢に心を蝕まれる……そんなことがかれこれ一週間も続いている。医者にかかっても何が原因かは分からずじまいで首を横に振られ、ただ鎮静作用のある果実を処方されただけだった。
「……はァ~あ……」
少年は頭をかきむしりながら気だるそうに立ち上がり、毛布を小脇に抱え、その足で屋敷の浴場に向かった。
「ふぅッ……身体が冷えちまう……」
まだ暖炉の火も焚かれていない廊下は薄暗く寒い。汗で全身が濡れていればなおさらだ。浴場へと向かう足は自然と早まっていく。案の定、浴場には誰もいなかった。綺麗に磨かれた岩でできた一室に、ただ水に変わった湯気が滴る音だけが響いている。
少年は寝間着を脱ぎ捨て、浴室の扉を音を立てずにゆっくりと開けた。中は薄暗いが、床に光る石がはめ込まれていて視界は確保されている。
石鹸を必要なだけ削り取り、水と混ぜ合わせて全身をくまなく洗って流すと、ゆっくりと湯船に体を沈め、また長い息を吐いた。
少年は一連の動作でようやく落ち着きを取り戻し、先程まで自分が見ていた夢は何だったのか、と深く考え込んでいた。それは底なしの暗闇に真っ逆さまに落ちる夢。
ここ数日似たような夢ばかりを見るのには何か理由があるはずだ……そう思って何か覚えがないかを記憶の中から必死に探そうとしても、心当たるものは見当たらない。
よしんばこの夢が「予知夢」か何かなら、近いうちに……
……あれ、なんだか頭がくらくらして……
バタンッ!
突然、浴場の扉が壁と激突し、大きな音が鳴り響いた。
「あーっ! なんで窓開けてないのっ!?」
立て続けに甲高い声も浴場に響き渡る。少年の弟、エレンだ。
「このお湯の湯気は……外の空気と混ざってないと……ウィレム兄ちゃん息ができなくなって死んじゃうんだぞっ!」
「……すっかり忘れてたぜ」
エレンも朝風呂に来ていたらしく、つかつかと勢いよくウィレムと呼ばれた少年の方に詰め寄り、プリプリ怒りながらまくしたてると、少年はバツが悪そうに目をそらしてそう返す。
「エレン、お前も朝風呂か」
「えっ? ああ、うん、ちょっと勉強の息抜きにね。だから早く入って早く出ないとッ……!?」
浴場の窓をすべて開け終えるなりそのまま浴槽に入ろうとしたが、ウィレムに腕を掴まれて大きく体勢を崩した。
「な、なにすっ!」
「湯に入るなら体を洗ってからにしろ……頭洗ってやるからよォ」
ウィレムがパッとエレンの手を離して浴槽から立ち上がると、弟の方もそれに黙ってついていって小さな座椅子に座り込んだ。
「ちゃんとつま先から耳の後ろまで洗えよ? 不潔な男は女の子に嫌われるからなァ」
「わかってるって! おれはもう六歳だぞっ!」
軽口を叩き、弟が海から採ってきたばかりの海綿に石鹸を含ませると、ウィレムは両手に泡を溜めて弟の頭をゴシゴシと擦り始める。体をウィレムが頭を洗っている間、エレンが体を洗えば半分の時間で済むという寸法だ。
「兄ちゃん」
「どうした目に染みたかァ?」
石鹸を泡立て、頭を洗ってやっていると、黙っていたエレンが随分と神妙な口調で口を開いた。
「父上とフリードリヒ兄ちゃん、どこに行っちゃったのかなぁ」
「……なんだそんなことかァ」
二人は数ヶ月前に屋敷を出てから一度も帰ってきていない。六歳になったばかりのエレンにとり、母親も不在で父親と兄までいないとなれば、心細くてしょうがないのだろう、泡立った頭越しに赤くなった耳が見えるし、背中も声も震えている。
「父上は最近任務で別の町に行かれてる。フリードリヒ兄さんは……いや、兄さんもそんな感じだ」
「……また、みんなで一緒に暮らせるよね……?」
エレンは振り返って、目に涙を溜めてウィレムに問いかける。
「なァに言ってんだ。父上も兄さんも元気だよ。それに俺がいるじゃねェか。……もしも何かあっても、俺がお前をちゃーんと守ってやるから。俺でもせめてそんくらいは出来るさ」
「またそうやって自分を卑下してる! おれ、兄ちゃんがめちゃくちゃ強くって、かっこいいのを知ってるから!」
自虐的にウィレムが付け加えると、エレンはムキになってそう叫んだ。
「おれ知ってるもん! 兄ちゃんがいっつも朝早くから修行してるって! あのバカ王子にいっつも振り回されてるけど真面目に従ってるって!」
「……確かに王子は破天荒で、喧嘩も弱ェ癖に後先考えずに行動する大馬鹿ヤロウだけどな……それでも俺たち貴族だけじゃない、平民たちを愛する気持ちは本物だ。だからそう言ってやるな」
「とにかくっ……! 忙しくってもいつでもおれに優しくしてくれるし、かまってくれるから! おれはウィレム兄ちゃんのが一番すきっ! おれは兄ちゃんみたいに強くはないけど……いつか立派な魔法使いになって、父ちゃんや兄ちゃん達と一緒に働きたい!」
「……ふ……」
エレンの言葉でそれまで硬かったウィレムの表情が僅かに緩んだ。
「ありがとよ、エレン。俺もお前がいて……いや、なんでもねェ。俺はもう上がる。のぼせかけてたから丁度いい冷ましになったぜ」
弟の真上で桶をひっくり返すと、ウィレムは立ち上がった。
「え〜…… もっとはなそうよ〜……」
「そう言うなって。こんな大切な日だってのに今日もマルティス王子に誘われてんだよ。まァ、遅くとも昼には帰ってくるから」
「! じゃあおれ! 昼ご飯にウナギのパイ焼くねっ!」
エレンは体が弱かったが、魔法は得意でなによりも料理が上手かった。特に「エレンのウナギのパイ」と言えば、街で知らぬ者はいないほどで、王室から直々に買い付けようと使者が訪ねてきたこともあったほどだった。
「楽しみにしてるぜ。勉強も頑張れよ」
ウィレムは口元を拭いながら嬉しそうに微笑み、エレンの濡れた黒髪をポンポンと撫でてやると、浴場を後にしたのだった。
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