「ありがとう」

譜久村 火山

出会い

 目の前で佐間が鮮やかに血を噴き出して、倒れていく。首を小型ナイフでかき切った感覚が手を震わせる。

 思わず笑いが込み上げてきた。快感だ。胸の奥から熱い何かが広がっていく。ギャンブルで大穴を当てたときとも比べ物にならないほどの喜びが、体の内側で叫んでいた。

 黒野愛は小型ナイフについた血を丁寧に拭き取り、佐間の部屋にある窓を全開にする。夜の新鮮な風が雪崩れ込んできた。思わず手を広げ、刺激的な空気を全身で感じる。深く息を吸い、吐く。心が澄み渡っていく感覚がした。

 この瞬間は、何度味わっても色褪せない。人を殺すって、最高。


 黒野は携帯を取り出し、電話をかけた。

「あっ、もしもし田辺?後処理お願い」

 それだけ言って、電話を切る。田辺は忠実な僕だ。どうやら黒野に惚れているらしいが、黒野は恋愛感情が何か分からない。

 ごく普通の高校生らしい部屋。その床に倒れる佐間も、黒野に惚れていた。でも田辺と違い、僕ではなく付き合うことを望んだ。黒野は恋愛がどんなものか知りたくて、告白を受けた。

 だが佐間は黒野が好きだった訳ではなく、可愛い彼女を持っている自分を愛していたようだ。二人でいるときも、自慢話ばっかだったし。

 それでそろそろ殺したいなぁと思ったから、遊びにきたと言って、佐間の両親がいない日に家へ上がり首元を浮き出る血管ごと裂いた。その瞬間を思い出すだけで、快感が広がっていく。

 玄関が開く音がした。田辺が到着したようだ。

 部屋に入ってきたのは、ザ・オタクと言った感じのチェックのシャツを着て、不気味な笑みを浮かべている男。これが田辺だ。

「盗聴器の回収を忘れないようにね」

 黒野は本棚の横のコンセントを指差す。田辺が頷くのが分かった。後は任せよう。


 黒野は佐間の家を出て、近場の公園の公衆トイレに立ち寄る。念のため、血のついた服を着替えなければならない。

 個室に入り、上に来ていた黒のジャージを脱ぐ。

 冬が近づいていることもあり、肌寒い。そのため、急いで着替えを済ませる。

 そして最後にナイフをしまおうとした。だが、ナイフを持つ手が震えてしまう。

(私、何やってるんだろう)

 黒野は唐突な自己嫌悪に襲われた。いつもそうだ。人殺しはいけないこと。そう分かってるのに、殺してしまう。そして、そんな自分を責める。でもまた人を殺したい衝動が湧いてくるのだ。

(このナイフが私を貫いてくれれば、どんなに楽だろうか)

 そんなことを考えていると、個室の隅で、蜘蛛の巣にかかった蟻がもがいているのが目に入る。巣の主は見当たらなかった。黒野は持っていたナイフでそっと蜘蛛の巣を切り、蟻を解いてやる。自由になった小さな命は、自らの仕事を思い出したのか、せかせかと歩いていく。それを黒野は最後まで見守った。

 それから、ナイフを拭き取って、しまう。秋の外気が持つ冷たさが、頬を刺した。

 黒野はそのまま公衆トイレを出て、防犯カメラの位置に注意しながら公園の出口へ向かう。街灯が必死にあたりを照らしている。茂みから名前の分からない虫たちの声が轟く。

 そのとき、後ろから肩を叩かれた。

 一瞬ビクッと震えた後、振り返って見る。そこにいたのは知らない男の人だ。黒野はすぐに臨戦体制に入り、いつでもナイフを抜けるようにする。男は、黒野と同じく高校生のように見えた。顔立ちはかなり整っていて、髪が肩にかかるくらい長い。

 そこで男は口を開いた。

「あっあの、その………」

 黒野が目を見ると、男は恥ずかしそうに俯いた。

「さっき、公園に入ってくるのが見えて、それで、えーとっ……」

(もしかして、人殺しだとバレた?)

 公園に入ってきたとき、ナイフは隠していたが、人通りも少ないし、夜の闇が隠してくれると思って血のついたジャージはそのまま着てきてしまった。

 黒野は全身から力が湧いてくる感覚を味わう。目の前の男を殺す。そのためなら何だって出来るような感じだ。胸が騒ぎ出し、熱い何かが溢れ出た。思わず口角が上がる。

 だが男はそんな黒野の様子に構わず、顔を上げ、黒野を真っ直ぐ見て言った。

「そのとき、可愛いなと思って。顔もそうだし、その、全体的にっていうか、雰囲気っていうか。とにかく、何もかもが素敵だなって」

「えっ」

 一気に心がクールダウンしていく。この男を殺したいという衝動が、一瞬にして消え去った。

「それは、付き合いたいってことですか?」

 男は頬を赤くするが、まだ真っ直ぐに黒野を見ている。そして、男が無言で頷く。

「私は黒野愛です。名前は?」

「遠山渡と言います」

 街灯が二人を闇から切り取るように照らした。

「遠山さん」

 黒野は彼の名前を呼んだ。結局佐間と付き合っても愛がなんなのか分からなかった。でも、目の前の人は佐間とは違う独特の雰囲気を持っている。

 一瞬だが黒野は、

(この人なら私を、この終わりのない葛藤から救い出してくれるかも)

 と思った。だから、ただ、彼のガラスに滴る雨のように澄んだ瞳を見つめて、頷く。

 その瞬間、遠山の笑顔が弾けた。黒野は遠山に釣られて笑みを浮かべる。

 今度こそ愛を知り、普通の人間になれるだろうか?

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