遠回りは一番の近道!!


八雲やくも〜。早く準備しないと、学校に遅刻するぞぉ」


 高齢男性の低い声が、朝の縁側に反響していく。立派な平家の家の障子がスッと開くと、眼鏡をかけた八雲が顔を覗かせた。


「もう、準備出来てるよ。じーちゃん!」


 縁側の周りでは綺麗な桜が風に揺れ、舞い散る花弁の新しい季節の訪れと共にそう告げると、一度部屋に引っ込んだ。綺麗な高校生の制服に身を包んだ八雲は、学生カバンにツヤツヤした教科書を詰め込む。そこに、祖父である二瓶猛生にへいたけきが、和室に入ってきた。


八雲やくもぉ、入る部活とか決めたんかぁ?」


「部活……? どこにも入らないけど——何でそんな事聞くのさ、じいちゃん」


「先週な、担任の先生から連絡が来たんだ。八雲やくもの体力テストの成績は、学年一位……是非、運動部に入って欲しいって話だ」


「……」


「……テコンドーは、もう無理で構わねえ。だが、他の格闘技とか、スポーツでもやってくれりゃあ、じいちゃんは……」


「ごめん……じいちゃん。僕はもう、誰も傷付けたくないんだよ」


 強面の猛生に、控えめな表情で返した八雲の背には、格闘技を極めた栄光のトロフィーが並んでいるが、どれも埃を纏って輝きを失っている。その理由を家族として理解しているのか、猛生はそれ以上部活をやる事を追求しなかった。


「うむ……八雲やくものやりたいように、やればいいさ」


「ありがとう……じいちゃん」


「ほら、早く行け。くれぐれも、


「心配しなくても大丈夫だよ、ここは学区外だから」


 優しい笑みを浮かべて、八雲は手を振って部屋を出た。古い床木を踏みしめて、気持ち新たに玄関に置いてあるピカピカのローファーを履いた。


 ガラッと昔ながらの引き戸を開けて、八雲はすぅと桜の花弁に溶けた空気を吸い込んだ。高校生の始まりを胸に登校を開始すると、すぐ目の前に尻込みするほど長くて、下りるのを躊躇ためらいそうになる急勾配の石段が麓に向かって伸びている。


「うーん。確かに、遅刻ギリギリかな……」


 ブレザーのポケットに入っているスマホで、時間を確認した八雲は、少し慌て始めると軽やかな足取りで一歩踏み出した。ほぼ垂直と見紛う程の急勾配の石段を、飛ばし飛ばしで駆け下りていく。


「よ……ッ、ほ……ッ」


 落下と変わらないスピードで、軽快に階段を蹴っていく八雲。バランスを崩した瞬間、大怪我では済まされない危険な下り方を、難なく続けていく。彼にとってこれは造作も無いのか、表情に余裕が見える。


 普通なら五分以上はかかる階段を、あっという間に下りてしまった。加速した重量を上手く足踏みで相殺し、五メートル以上の高さからスタッと地面に着地した八雲は、後ろを見る。彼の家は山の中腹に位置しており、人が数分で行き来できていいものではない。


「いってきます、じいちゃん」


 穏やかな表情を浮かべる八雲の横でバサァッと、学生カバンが落ちる音がした。そこにいたのは、同じ制服を着た、細身の男子学生である。彼は目を丸くして、口をあんぐりさせながら、人間離れした階段降りをした八雲を見つめてフリーズする。


「…………ッ!」


(うわわわ、みッ、見られた!)


 そこは人通りの無い丘の道路。流石に誰もいないだろうと思っていた八雲は慌てるが、もう遅い。常識から逸脱しかけた身体能力を見て、驚かない訳がないのである。どんな言い訳も通用しない空気感の中、男前なソフトモヒカンの髪をした男子高校生は、遂に起動する。


「すッッッッッげぇ、足だぁ……ッ!」

「え……ッ、えぇ……?」

「俺に足を見せろッ!」


 目を輝かせた男子高校生は、八雲の足に飛びつくと、ススッッと右足側ズボンの裾を膝上まで捲り上げた。突然の事に、八雲もぞわりと怯える。


「ひいぃッ! き、君はだだッ、だだ誰⁉︎」


「俺ぁ、一年の服部快晴はっとりかいせいだッ。 お前って同じ学校だよなぁッ?」


 服部快晴はっとりかいせいと名乗る男子は、おもむろに八雲の生足を頬擦りしたり、ペタペタ触れたりし始めた。同性とはいえ、セクハラ紛いのスキンシップに八雲も弱々しい声が上がる。


「ひぁあ……ッ急に、なッ、なにぃ……」


「最ッ高の足だ……ッ、なあ、お前名前はッ⁉︎ 何年、何組だッ⁉︎ 部活やってんの⁉︎」


「ふ……ッ、ぼ、僕は……ッ一年三組の、二瓶にへい八雲やくも……ッ、部活は——やってないよぉ……ッ」


「マジかッ! ならお前、『セパタクロー部』入れッ! この足なら、俺ら三人で世界ひっくり返せるぞッ!」


 快晴かいせいは、ギュッッと八雲の右足に抱き付いた。初対面の人間から、ここまで密着された事の無い八雲は、訳が分からず頭が沸騰していた。


「世界……ッ⁉︎ せ、せぱた……くろぉ?」


ってェのは……マジっぽいなッ、決めた! 俺これ一生、座右の銘にするッ!」


「へぁ……ッ、よッ、よく分からないけど、僕の足、そんな風に触るの、やめて……ッ、くださいッ!」


 くすぐったい感触に耐えられなくなった八雲は、しがみ付いている快晴の腕から一瞬で足を引き抜いた。それを間近で受けた快晴は、更に目が輝く。


「うっはぁあッ! なんだ今の足使いッ、無理矢理力でやった感じしなかったぞッ!」


「とッ、とにかく……ッ学校、遅れるからッ、僕はもう行きますッ!」


 上げられたズボンの裾をアタフタ戻した八雲は、遅刻を口実に、そこから一目散に逃げ出した。人間離れした階段下りをやってのけた足は、一気に加速して快晴との距離を伸ばしていく。


「どぉああッ! 足、はやッ⁉︎ 今日の放課後、俺とまた話そうぜ! 約束だからなーッ!」


 逃げる八雲を捕まえるつもりはないが、口約束だけでも追いつこうと、快晴は後ろから大声を上げる。


 車すら滅多に通らない、学区外の山道に突如現れた服部快晴はっとりかいせいという同級生。聞こえない、聞こえないと、八雲は足音で耳を塞ぎながら、猛ダッシュで学校を目指した。

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