第7話 第二章 奮闘②

 目が覚めた。ぼやけた視界と意識。良い目覚めにはほど遠い。標準がずれたスコープに転生した気分だ。


「う、んん」


 完全に覚醒したいのに、まどろみの手が、ヒューリの意識を未練がましく掴んで放そうとしない。だからヒューリは、拳を握り締め、自らの眉間へ振り下ろさんとした。――だが、


「起きたのね、ヒューリ。って、駄目!」


「う、むう」


 手首を掴まれる感触。それに加え、唇が柔らかな何かに包まれた。


「む、しい(苦しい)」


 ヒューリは瞼を開けて、さらに目を見開いた。心臓が不自然なほど高鳴る。


 甘い花の蜜のような香り。空に溶けるような麗しい青い髪。そして、ヒューリの唇を奪う女の頬。――とんでもない寝起きの挨拶をしているのは、小鞠であった。


「おむうううううううう。ひ、そおお(おまええええええええ、ば、それは)」


「んん、むううで(もう、暴れないで)」


 ヒューリは、彼女の両肩を掴み、引き剥がした。


「な、なな何してんだよ。お前、ちょ、マジで、何してんだよ」


「落ち着いてヒューリ。二回同じこと言っているわ」


「大事なことだから言うよね二回も! お前は、俺の幼馴染で社長だ。でも、それだけ! 彼女でもないし婚約者でもない」


「……素直さが欠けている。照れているのね」


「違ええよ。事実、真実、真理」


「そうかしら? こんなにも私を心配させて、そんな戯言、聞く価値ないわね」


「……すまん」


 言われて、思い出す。


 港での死闘。焼けるような痛みが、肩から脇腹にかけて走る。


 次元決闘を行う者として、幾度となく危険な思いをしてきた。いい加減慣れたものだと思っていたが、そんなヒューリをしても底冷えのする出来事であった。


 ヒューリは疲れたように吐息を漏らし、周囲に視線を巡らせる。


 真っ白い壁に、桜の木を臨む窓。ここは闘技者専用病院の個室だ。


 超人的な身体能力、異能、特殊スキルを有し、種族・出身世界も異なる闘技者を治療するには、一般の病院では荷が勝ちすぎる。ゆえに、設立されたのが闘技者治療病院【キュワー】だ。


 ドア、窓には、対超自然現象無効化加工が施された超強化素材が使われており、医師の許可を得ないと開けられないようになっている。なかば刑務所の趣があるが、こうでもしない限り他の闘技者と乱闘騒ぎを起こす輩――特に手酷く負けた者――がいるので仕方がない。


 ヒューリは、ベッドから上半身を起こし、前腕に刺さっていた点滴の針を抜き取った。


「まだ、付けていたほうが良いと思うわよ?」


「嫌だ、鬱陶しい。で、俺はどのくらいここで爆睡してたんだ?」


「だいたい、一週間ってところかしら?」


「い、一週間だあ?」


 裏返るヒューリの声。


 リベンジマンと戦った日が、オールワールドフェスティバルの開催三日前だったのだ。大会に向けて闘志を漲らせ、修練漬けの日々を送っていたヒューリにとって、その事実は肝を冷やすに値する。


「大会はどうなった?」


「そうねぇ、どこから説明しようかしら。……今回はね、参加企業が多かったの。だから、三ブロックに分けての大規模なトーナメント制になった」


 小鞠は、穏やかに笑ってヒューリの顔にハンカチを当てた。


「会場が三つしかないから、なかなか試合も進まない。今は、一回戦を無事に突破したところよ」


「突破……じゃあ、二回戦はいつ! が、痛って!」


「興奮しないの。傷に響くわよ。護の手当てのおかげで、命に別状はないけど、手術したんだから、しばらく安静にしなさい」


「ざっけんな。二回戦から出るぞ」


「無理よ。魔考医療を駆使してもすぐには治らないし、間に合わない。だって……」


 小鞠は、三本指を立てた。


「あと三十分もすれば二回戦始まるから」


「な! さ、三十」


「そう。あのね、お医者様からの話によると最低でもあと一週間くらいは、大人しくしてないと駄目なんだって」


「聞いてられるかやぶ医者の話なぞ。むう!」


 小鞠が人差し指をヒューリの唇に押し当てる。


「社長としての絶対命令、そしてあなたの婚約者としてのお願い。聞いてくれるわね」


「いや、だから……」


 言葉はしりすぼみする。


小鞠の綺麗な瞳に少しずつ涙が溜まり、ついに零れた。悲しそうな表情は、見ていて胸が痛い。


 ヒューリは、舌打ちをして、そっぽを向く。


「チイ、分かったよ」


「ほんと! 嬉しい」


 パッと小鞠の顔が華やぐ。彼女は、物静かで大人の色香を感じさせる女性だが、時おり少女のような表情をする。魅力的な二面性は、多くの男性を魅了してきただろう。


 ヒューリは、顔を明後日の方向へ向けつつ、小鞠を盗み見る。


「もったいない。どうしてこいつは俺なんぞを」


「ん、何か言った?」


「いや、何でも。あ、お前、ちょいちょい婚約者だとか言ってるけど、他の奴が聞いたら勘違いするからやめろ」


「え、事実だから問題ないと思うけど」


「いや、違うから」


「え?」


「へ?」


 キョトンとした顔で見つめ合う二人。小鞠はクスリと笑い、ヒューリはまたそっぽを向いた。


「もう、おかしいったら。あ、それよりもね、ヒューリ」


「あ?」


「あなたを傷つけた男の話してもらえるかしら」


 小鞠は、背を正し、そう告げた。凛とした鈴のような声と衣類に皺さえ生まぬような美しい佇まいに、自然とヒューリの背も伸びた。


 ヒューリは、包帯が巻かれた体に手を当て、ポツリポツリと事の経緯を説明する。


 最後まで聞き終えた小鞠は、目をぎらつかせた。


「ひとまず言えることは、リベンジマンは極刑に処すべきってことかしら」


「お、おう」


「許せないわ。私のヒューリを害したのがもう生きる価値がない証拠。腹が立つわ。そいつ、何者?」


「さあな。放浪永礼流の使い手なぞ、心当たりがない」


「一子相伝だもの。そうでしょうね」


「チィ、にしてもあの野郎。知らない誰かなのに、俺よりも何段も上の使い手だと……」


 ヒューリの声に、怒りが滲む。放浪永礼流の開祖である祖父、師匠である父……。偉大な彼らに比べてちっぽけな己。


 自分が嫌いだ。勉学も武術の腕前も、全てがあまりに貧弱で、自分なんぞこの世にいる意味はあるのか、と卑屈な言葉に膝が折れそうになる。


 それでも、と叫ぶ。だからこそ、前に進み続けてきた。――なのに、今度はとうとう見知らぬ存在に、己が一番負けられない分野で敗北したのだ。


 ふざけやがって、と言葉が漏れ出た。


「大丈夫よ」


 傷だらけの手に、温かな手のひらが重なった。


 横を見れば、穏やかに微笑む小鞠の顔がある。……ああ、何度目だろう。重圧に沈む心に、救いの光が差し込む。


「あなたは壁があっても、その壁を叩ける人よ。叩けるならそれは、実体のある壊せる壁ということ。なら、壊せない道理ってある? あなたは前を向いて歩む。こけたら私が手を差し伸べる。歩いて転んで起き上がって、壁を叩いて。そしたら、いつか壁にヒビが入って崩落するでしょう。――ただ、それを繰り返すだけ。イージーでしょ?」


(コイツ、簡単に言いやがる)


 ヒューリの顔に苦さが広がり、反比例するように彼女は笑みを深める。


「ま、それに、リベンジマンってふざけた名前の壁に関しては、私自身があらゆる手を使ってぶっ殺すから大丈夫」


「いや、俺が何とかするよ」


「えー? ……じゃあ、二人で何とかしましょう」


「駄目だ。俺が超えないと意味がないっておい」


 聞いていない。


 小鞠は、人差し指で自らの唇をなぞり、しばらく黙考する。まったく、都合の悪い情報は、鼓膜が弾き飛ばすらしい。


 ――一分ほど、その様を見守った。


 彼女は目を細め、迷いを秘めた声音で口を開く。


「リベンジマンの正体……考えられるとしたら、あなたのお爺さんが関係しているんじゃないかしら?」


「あ、ジジイが?」


「そう、永礼 ハルカゼさん。次元決壊――つまり、異世界同士がゲートでつながる以前から、あらゆる異世界を旅することができた能力者。ご本人曰く呪いだと語っていたそうね」


「まあな。でも、俺は一度も会ったことがない。俺が生まれた時には、死んでいた。病院で息を引き取ったらしい。――あ、そういや親父が妙なこと言ってたな。不思議なことに、その遺体は消えちまったって」


 オカルトじみた言葉に、小鞠は首を傾げた。


「ん、誰かが盗んだの?」


「いや、文字通り消えちまったらしい。親父の目の前でな。次元を渡る能力が関係しているかもしれないが、正直、親父も呪いのことはよくわかってないらしい。今も行方知れずだ」


「……そう。まあ、行方はともかくとして彼は、英雄。ハルカゼさんはあらゆる異世界を旅して放浪永礼流の開祖となった」


「ああ、確かにその通りだ」


 ヒューリは、回顧する。


 イワサは、武術の稽古をつけた時、必ずと言ってよいほどハルカゼの話をする。


 いなくなった祖父の歴史は、いつも静謐な道場で紐解かれた。


 あらゆる異世界を旅した祖父は、いつも誰かのために戦った。結果として、英雄として名を広めることになったのだと。


 祖父は、異世界から帰還するたび、イワサに自らの冒険譚を語り聞かせた。そして、最後に必ず言う言葉がある。


『絶対の善と悪は存在しない。どの価値観に属しているかで、善と悪は逆転するもの。だからこそ、己の善と悪を自らの意思で決定するべきだ』


 その言葉をアルバムを手繰るように反芻するヒューリ。小鞠は、「聞いてる?」とやや不服そうに言った。


「悪い、聞いてはいたよ。ま、ジジイは、放浪永礼流を駆使して戦い続けた。その結果、世界が繋がる前から、あらゆる異世界で有名人になってたわけだ」


「うん。異世界人で知らない人はいないくらいのビックネーム。そんなに有名なんだから、きっと沢山の冒険をしたんでしょうね。……それで、可能性の話なんだけど。ハルカゼさんの教えを受けた人がイワサさん以外にいたんじゃないかしら?」


「親父以外に放浪永礼流をか」


「そう。異世界を旅している時にね」


 いや、それはないだろう。ヒューリは、首を振った。


「親父が言ってたんだ。放浪永礼流は、ジジイが異世界中を旅しつつ磨き上げた戦闘術だ。ありとあらゆる異世界の武術、サバイバル技術が詰め込まれている。


 我、無なり。無とは、万物の始まり。ゆえに、いかな事象が生じようとも変化する無限なり……ってな。


 どんな出来事が起きようとも対応できちまうほど万能な武術ってことなんだが、強力すぎる。魔法や妖術、馬鹿げた身体能力をまるで持たない俺が、それらを使う相手さえも倒せてしまえるほどにな。だから、ジジイは一子相伝にしたって話だ。悪用されないように、けれども自分が生きた証を残すために、子孫だけに伝えようってな」


 小鞠は、口に手を当て「ああ」と頷いた。


「随分昔にあなたが話してくれたことがあったわね。覚えている。……でも、もしもよ。一子相伝にしようと思った発端となる事件が、異世界を旅している時に起きた可能性はないかしら?」


「ハア? あー、なーる。例えば誰かに教えたけど、そいつが放浪永礼流を悪用したとか?」


「うん。そういう事件があったから、誰にも教えない門外不出の武術にしたんじゃないかしら」


 その発想はヒューリにはなかった。可能性としては十分にありえるかもしれない。


 ヒューリは、サイドボードの上に置かれていたペットボトルを手に取ると、グイッと傾け喉を潤す。


「お、この水冷えてうめぇ。……可能性は否定できないけど、結局あの男が誰なのかわからないな。ま、並々ならぬ殺気と憎悪ってのは感じた。なんで俺を狙っているのか知らんが、いい迷惑だぜ」


 リベンジマンの姿を思い浮かべる。不吉さを体現した格好に、全身から発せられる恩讐のオーラ。粘り気があって、背筋が凍るような殺意だった。


「リベンジマンとラーラ・キューレの関係性は不明だけど、あの倉庫にいたのが偶然とは少々考えにくいわね。今後、ラーラを探る際は、リベンジマンにも注意しなければならない。……頭が痛いわね」


 小鞠は、袖から小さな筒を取り出し、薬を何錠も口に放り投げた。


「お、おい。その量はやべえだろ」


「ただの胃薬と頭痛薬よ。心配性ね」


 日頃の小鞠を思い浮かべ、お前が言うなよ、とヒューリは内心ツッコミを入れた。


 当の本人は、どこ吹く風といった様子で前髪を手で撫でつける。


「……ねえ、護があの倉庫を去る前にね、ギアの残骸みたいなパーツを目撃したらしいのよ」


「ギア? ああ、民間軍事会社の持ち物か」


「恐らくは。パーツの形状から見るに、ロボティック製の軍用ギア【ポイア】かもしれないわ」


 その名前は聞き覚えがあった。確か、大量生産のために極限までコストを抑えた低スペック機のはずだ。あまり日本の民間軍事会社は用いない機種である。


 小鞠は、目を細め地面を睨んだ。


「変よね? 日本の民間軍事会社は、異世界へ行く人を守るために設立された組織よ。建前だったとしても、ポイアを使うのはおかしい。


 あれは、爆弾を積んで特攻させる際に使うことが多い、言わば攻撃特化のギア。どちらかといえば、テロ目的に使う代物よ。なんで、そんなものが?」


「……分からん。結局のところ、ラーラの調査を続行しないと判明しないってこった。面倒だぜ」


「そうね。とりあえず後で考えましょう。もう試合が始まるわ。あなたは休んで……無理か。だったら、大人しく私の隣で見てて」


 ヒューリは言われた通り、ベッドの手すりに体重を預けながら、病室の壁に目を向けた。


 小鞠は、病室にあるテレビには目もくれず、左手の薬指につけた指輪をなぞるように触れる。その瞬間、病室の壁に闘技場の映像が映し出された。


 彼女は、耳にインカムを差し込む。次元決闘では、選手のオペレートをすることが認められており、大抵は社に雇われたトレーナーが行う。――だが、エンチャント・ボイスでは、小鞠が担当していた。


「前から思ってたけどよ、なんで社長自らオペレートするんだ? 他の奴にやらせろよ」


「駄目よ。トレーナーを雇うお金がないし、そもそも大切な選手の指示を他人任せにするなんてありえない。良いこと、ヒューリ? 一流は、大事なことを人任せにせず己で成し遂げるものよ」


「……どっかで読んだことあるような。あ! 休憩室にあった経営者のバイブル三ページ目だろ」


「な!」


 小鞠の表情が固まり、みるみる真っ赤な色彩に彩られていく。真っ赤な花弁の如き頬に、汗が幾重にも流れていった。


「気のせいじゃない」


「声裏返ってるし。別にカッコつける必要ねえじゃねえか」


「か、カッコつけてなんか……いや、つけてたけど。あなたに、凄いって褒められたくて」


「あ? なんて」


「なんでもない」


 ヒューリの肩を叩き、小鞠は画面を睨みつけた。どうやら拗ねているらしい。


 傷む傷口が、からかいの代償だ。


 ヒューリは涙を拭うと同時に口を固く結び、彼女へ倣うように画面を眺めた。


 どうやら、二回戦はチーム戦らしい。

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