第5話 第一章 不穏な空気④
「ここ、入れそうっすね」
護が指差したのは、倉庫の側面上部にあるガラス窓だ。恐らくは採光のために取り付けられたものだろう。
正面の荷物搬入用のドアは、あまりに巨大で派手過ぎた。そこを開けて入るのは、潜入の目的を考えれば悪い冗談といえる。
ならば、と探して見つかったのが、あの窓だった。人が潜れる大きさで、幸運にも全部の窓が開かれている。
「おい、誘われてるんじゃねえか?」
「まさか」
「……そのまさか、とか?」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
護が、怯えた顔で首を振った。
ケラケラとヒューリが笑う。
「うるさいっすよ。先輩、僕の妖力を周囲に散布しています。これで、監視カメラや監視用魔道ナノマシンがあったとしても無力化できているはずです。長くは持ちませんから早く行きましょう」
「おうよ。つっても、俺じゃ侵入が難しいな。頼むわ」
護は頷き、ヒューリを肩に担いだ。
窓は、十五メートルほど上部に取り付けられている。この高さを道具もなしで攻略するのは無謀だが、あくまでそれはただの人間であるヒューリの話。
護は鬼の亜人との混血である。
妖術と並外れた体力……そして、
「先輩、投げますよ。ほい」
「おっし、って。うおおお」
舞うヒューリ。それを成したのは、護の超人的な腕力。
力加減は絶妙であった。ヒューリは、危なげもなく窓枠に手をかけると、慎重に中を覗き込み、スルリと侵入する。
倉庫の中は、窓から差し込む光で予想以上に明るかった。ヒューリが立つ場所は、天井裏に設けられた資材置き場だ。なかなか老朽化が激しいようで、床は所々穴が開いており、カビの臭いがムッと鼻を刺激する。
ヒューリの武器は懐にしまったナイフのみ。闘技場で勇敢に戦うヒューリであっても、こんな装備での戦闘は避けたいところだ。
(見つかんなよ。めんどいから)
祈るような気持ちを抱き、一歩を踏み出す。床は、頼りない。力を込めれば抜けそうな感触を返す。
ヒューリは、頬をひくつかせ、歩くのをやめた。まずは周囲を見渡す。
(寂しいもんだ)
天井裏は、古びた鉄骨が一本あるのみ。何かあるとすれば一階だろう。そう当たりを付け、床に開いた穴――恐らく錆のせいで開いたものだろう――から下を覗き込もうとする。
――ドッスン!
「~~~~~~」
「あ、すいません先輩」
衝撃、痛み、鉄の臭い、そして、頬から伝わる床の感触と体にのしかかる重み。
ヒューリは、上体を起こし、自身を座布団代わりにしている後輩を睨む。
護はヒューリの背中に乗ったまま、申し訳なさそうな顔で頭を掻いた。
さすが鬼の血を引くだけあって、ジャンプだけでここまで到達したのだろう。それは大いに結構なことである。――だが、これはない。
「お前、潜入つったろ。静かに入れ」
「す、すいません。どうも、細かいのが苦手で」
「じゃあ、外で待ってろって」
「そうしたいのはやまやまですけど、先輩が無茶しないように見張ってろって社長からの指示がありまして」
「ハア? 無茶なんかするかよ」
「説得力ないっすよ。ただでさえ、普段暴走しがちな先輩が、大嫌いなお父さんがらみの仕事をするとなったら、見返してやるって気持ちでブレーキ壊れるに違いないんですから」
「き、決めつけんなよ。チィ、お前といい小鞠といい、過保護過ぎんだよ。お前らは俺のオカンか」
「いえ、後輩と社長です」
「真面目か! ったく、静かにしろよ。どけ、ほら」
「うわっと」
ヒューリは立ち上がり、今度こそ床に開いた穴から下を覗き込んだ。一階は、窓がないのか薄暗い。だが、夜目が効くヒューリの目が、何もない地面をしっかりと捉えた。
「先輩、どうです?」
「何もいねえし、何もない」
「ええ? おかしいですね。確かな筋から手に入れた情報だからって、小鞠社長はおっしゃっていたんですが」
「んー? 情報屋か。そいつが嘘ついてなけりゃ、合ってるんだろうけど、こりゃ一体どうしたもんだ」
もう一度周囲を見渡してみる。やはり、何もない。……いや、壁際に手すりがあるのが見えた。
「一階に下りられそうだな」
「先輩、気を付けてくださいよ」
後輩の声に頷き、ヒューリは歩き出す。懐からナイフを取り出し、すり足で手すりへ近づく。
――そっと、目を閉じて耳を澄ませる。
物音はない。人の気配もない。安全のはずだ。しかし、どうしたことだ? 胸の鼓動が、早鐘のようなリズムを刻んでくる。
(気持ちわりいな)
毒沼を啜っているような感覚。頭を振って紛らわせる。
ヒューリは、一歩、また一歩と慎重に歩みを重ね、手すりに触れた。
「ふう」
息を吐き、階下を覗く。誰もいない。古びた鉄の階段が一階へ続いている。
ヒューリは、目を細めた。階段を下りてすぐ右側に、鍵のかかったドアがある。
(頑丈そうな鍵だな。なんか、怪しくねえか?)
ヒューリは、手招きをするために背後を振り返る。焦った顔をした護と目が合った。
「先輩、危ない!」
「ッ!」
火花が舞う。響く金属音と手に感じるシビレ。――そして、交錯する視線。
ヒューリの眼前に、煤けたローブの人物が立っている。
(何だ、こいつ。気味わりぃな)
ヒューリは、油断なくナイフを構えながら、煤けたローブ姿を上から下へ眺めた。
異世界同士が繋がった現代において、価値観は多様化・細分化の一途をたどっている。
このローブ姿の人物のように、一昔前ではゲームや映画くらいでしか拝めなかった格好が、日本で流行することも珍しくない。
だが、それを考慮しても、目の前の人物は異様と評するに値する。
煤けたローブとボロボロの麻布のズボン。それと相反する高級の黒手袋と手首のアンクル。チグハグなスタイル、加えて幽鬼のような雰囲気が人らしさを剥奪している。
「ほう、防いだか。重畳重畳。妙な被り物をしとるが、永礼 ヒューリで間違いなかろう。動きで分かる」
見た目とは違い、愉快さを滲ませた声音だ。
煤けたローブ男は手を叩いた。
「俺の名を……いや、それより、お前、どこにいた? 気配すら感じなかった」
「さあの? 答える義理はなし」
「あの一階にある施錠された部屋はなんだ?」
男は、おどけたように肩をすくめた。
「知らん。誰にも知られんように見張っとけと言われたがな。食糧庫かもしれんし、兵器かもしれん」
「テメエ、馬鹿にしてんのか」
「……フフ、悪く思うなよ。我は口下手でな。口はよう回らんのだ。――代わりに、こちらで語らうとしよう」
ローブ男が指を鳴らすと、どこからともなく刀が出現した。
太い大型動物らしき骨を薄く研いで作った刃。赤い鱗で覆われた柄。
男に負けず劣らずの異様な刀だ。
男は刀を右手で持ち、腰を深く落とした。その瞬間、ヒューリの視界からローブ姿が消失してしまう。
「――ッ!」
考える時間さえない。ヒューリは焦りに突き動かされるように、右側に刃を振るった。
(え!)
硬質な音。見ることも感じることもできなかった斬撃を、ヒューリのナイフが受け止めている。
どうして、俺はコイツの斬撃を止められた? まぐれか。
その疑問に答えは出ず、また考えている余力もない。――だって、ほら、眼前の異様な形をした死が笑っているのだから。
「クハハハ、愉快痛快。ならば、これは?」
男の刀が消えた。――否、消えたと見間違うほど、高速で振るわれた。早い、あまりにも早すぎる。男の前では、一秒さえ愚鈍だ。
あまりにも男の動きは常軌を逸していた。まるで追えない、剣士としての力量が違いすぎる。
だが不思議なことに、ヒューリは攻撃に対し、右に払い、しゃがみ、半身になって躱せた。
――なんだ? この動きを知っている? 既視感が血潮に溶けていく。
技量の違いは、絶望的で。既視感だけを頼りに、命を紡ぐ。
「こ、のおお」
ヒューリは、首に迫った閃きを躱し、後方へ飛び退った。パッと首から血が流れ、ヒューリの顔が歪む。傷は浅い。……だが、死を実感するには十分であった。
「ほうほう、なるほどな」
男は身体を揺らしながら笑う。冷や汗で顔が濡れるヒューリと違って、随分と余裕がありそうだ。
ひとしきり笑い終えると、男は刃が地面すれすれになるほど低く構えた。
「この構えは!」
――全身に緊張が走る。
「先輩!」
「護、ジャンプしろ」
護とヒューリは、同時にジャンプする。その瞬間、刃が空気を裂く音が響く。次いで、暴風が巻き起こった。
「うあああああ」
「クッソぉおお」
倉庫が破裂する。
ガレキと一緒に空へ放り出されたヒューリたち。
このまま上空へ飛ばされていけば、落下による死は免れない。
ヒューリは、宙に舞っている瓦礫を三個ほど蹴って自らの軌道を変えると、地面へ激突。何度かバウンドしたが、慣性を殺しきることに成功した。
「痛ってえな。――ッゥ!」
頭上にナイフを掲げると、岩のような斬撃が降ってきた。
受け止めた手が、破裂したと見間違うような重い斬撃。手、前腕、それから全身へと衝撃が駆け抜けていく。
「己が命を助すくのが巧みよの。だが、危機を脱したわけではない。手に力を込め、足腰を踏ん張れ。このままではお前の全身は、そのみすぼらしい刃ごと真っ二つぞ」
「うるせえ、言われるまでもねえんだよ」
鍔迫りあう刃と刃。
ヒューリの顔のほんの数センチ先に、ローブ男の頭があった。深くかぶったフードのせいで、男の目は見えない。だが、その瞳は間違いなく射抜くような殺意が秘められているのを、ヒューリは確信していた。
「お前、さっきの風は、どうやって起こした?」
「ん? 剣に宿る魔力を爆発させた。貴様もそれくらいできるだろう?」
「アホか! できるわけねえだろ」
「……ほほう、やはりまだか」
「何だ、何を言ってんだテメエ! それにあの技は……」
この男の言動、正体。全ては霧に包まれ、輪郭さえ掴めない。だが、彼の使う技だけは既視感を超え、もはや確信に至る。
男の体裁き、構え、フェイントのかけ方、これは、まさに。
「……な、なあ。俺の、気のせいじゃ無けりゃよ。お前の動きは……」
「フフ、言わずとも分かっておるくせに」
「嘘だ」
「確かめてみるか?」
「……ああ、ぜひお願いしたいね」
互いに相手を弾き飛ばし、着地と同時に身構える。
深く深く、息を吸う。骨身に染み付いた放浪永礼流の技を遺憾なく発揮するために。
相手は動かない。こちらの動きを待っているのだろう。ならば、遠慮することなど何もない。
ヒューリは、ナイフを投げ、自らも前方へ飛んだ。
「【放浪永礼流 二者択一の風】か。面白い技だが、もっと面白くしてやろう」
男は、刀を投げ、自らも前方へ飛んだ。
息を呑むヒューリ。ナイフと刀が宙で激突し、地面へ突き刺さる。
「おおおおおお」
ヒューリの蹴りと男の蹴りがぶつかる。次いで放った拳と拳が、鈍い音を鳴らして衝突した。
みるみるとヒューリの目は見開かれる。
互いに離れざま得物を拾い、また構えを取った。まるで鏡写しのように、ローブの男は同じ構えを取る。
【放浪永礼流 基本の型 三転斬刃】
【放浪永礼流 刺突の型 戦塵突き】
【放浪永礼流 奥義の型 泣き雲】
――全てだ。ヒューリが繰り出す技は、数ミリの狂いもなく同じ技で相殺された。
ヒューリは、目出し帽を投げ捨て、乱れる呼吸に舌打ちをした。
「嘘だ! 放浪永礼流は、一子相伝の武術。ジジイと親父、そんで俺しか使えないものだ。どうして、お前が使えるんだ」
「どうしてだと思う? おいおい、何だその顔は? 甘えんでくれ。答えは誰かがくれるとは限らん。さあ、我が誰か、考えろ。貴様の父親の隠し子かもしれんぞ。真面目そうに見えて、案外遊んでるかもしれんなあ。――ああ、それとも、貴様の祖父か? 異世界中を放浪する者が、今も生きていた、とか?」
「嘘つくんじゃねえ」
ヒューリの叫びが、青い空に轟く。
「ジジイは、俺が生まれる前にとっくにくたばってた。それが、生きていただと? ふざけやがって」
「ふざけるなど、とんでもない。そんな余裕など、我にはないのだよ。下郎が」
消失、出現、斬撃。一秒未満で、ローブ男はそれらを実行した。
度し難い理不尽に、ヒューリは辛うじて食いつく。刃を受け止めたナイフに、己が生命の行方を託す。
「が、ああああ」
少しずつ、男の刃がナイフを押し込んでいく。全身の力を振り絞っても、体が九の字に折り畳まれていくのを抑えきれない。まったく馬鹿げた膂力である。
火花を散らしながら刀を防ぐナイフに、ヒビが入り広がった。
「し、ぬ」
冷たい感触に全身が蹂躙される。――だが、男の背後を見やり、ヒューリは笑った。
「せ、んぱああああい」
護が、ローブ男の背後に組み付き、バックドロップの要領で空へ投げる。
「護、その程度じゃ」
「分かってますって! 【オヌ、遊ぶは賽の河原】」
護が合掌をすると、周囲の瓦礫が浮かび上がり、男へ殺到する。
妖術による瓦礫の弾丸。音速で飛ぶそれらは、死ぬには十分すぎる凶器だ。しかし、男は危なげもなく凶器を狂気の斬撃で処理し、着地した。
「カカ、こんなもので我を葬ろうなど。ヌ、ヒューリの小僧がおらぬ……」
ローブ男は強い。だが、強者であるがゆえに脆い。あの男は油断をしている。
――油断、それは己を殺す毒であることを教えよう。ヒューリは、舞っている。護が飛ばした瓦礫の中に、緩やかな速度で飛来する瓦礫を目ざとく確認していたのだ。
三段跳びの要領で、瓦礫を蹴って、飛んで、飛んで、飛んで。ヒューリは、ローブ男の背後に回り込むと陽光を弾くナイフを閃かせ、無防備な男の背中に突き刺した。
「な!」
「どうだ、俺のナイフの味は? おまけもやるよ」
ヒューリは獣のように空中で身を捻り、ナイフの柄頭目がけ蹴りを放つ。ゾブリ、と深々とナイフが突き刺さり、男はあっけなく膝をつく。
護が、ホッとした顔で手を振ってきた。
「先輩、やばかったすね」
「馬鹿野郎! 油断するな」
咄嗟にヒューリは、空へ飛んだ。
男は、口から血を流しながら、刀を水平に構える。
「おのれええええええ。死の風に連れさられるがよい。【放浪永礼流 旋風車】」
男は身体を自ら回転させ、斬撃を放った。俯瞰してみれば、飛ぶ斬撃が男を中心に波紋のように広がっていくさまが見える。
飛ぶ斬撃は猛烈な勢いで空を切り、塵を切り、護へ襲い掛かった。
「こんなもの、先輩の斬撃に比べれば空気みたいなもんだ」
護は飛んだ。舞う彼の靴底を斬撃が舐めるように掠る。
「護、一の太刀だけで終わると思うな」
ヒューリは、顔を引きつらせ、妖力で浮かぶ瓦礫を次々と蹴って後輩のいる方向へ駆けていく。
(間に合え、間に合ってくれ)
祈るヒューリ。護は気付いていない。
――背後だ。
斬撃によって巻き上げられた砂埃に紛れ、男は護の背後へ移動していた。
着地した護。
背後から刀を振り上げる男。
ヒューリは、最後の瓦礫を蹴り、男と護の間に割って入った。
刃が鳴らす風切り音。鮮血が吹き荒れた。
「え……あ」
護の呆けた声が聞こえた。
焼けるような痛みが、肩から脇腹にかけて喚いている。
血の流れる感覚と共に、意識が遠のいていく。駄目だ、まだ安全じゃない。気を失うな。
ヒューリは、急速に離れていく意識を手繰り寄せる。だが、体が言うことを聞いてくれない。
「せ……い」
護の声が、途切れている。まったく、いつの間にそんな通信状況の悪いスマホみたいな声になったのか。そう思って、ヒューリは微笑む。
「……フン、つまらんわ。小僧、興ざめよな」
――やはり、狩るには時期尚早。酔生夢死はよせ。次にまみえる時は、我が憎悪に相応しい者となっておけ。
やけに、男の声ははっきりと聞こえた。
「お、まえは、誰、だ」
たどたどしく言葉を投げる。
煤けたローブの男は、背中のナイフを抜き取ると、ただ一言――我はリベンジマン、とだけ名乗った。
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