♰Chapter 21:思いの在り処
オレは水瀬の洋館のテラスにて常夜灯に照らされたガーデンを見下ろしていた。
頭に過ることといえば〔幻影〕の甘さだろうか。
昨日の午後から〔幻影〕はすぐに伊波の足跡を追ったという。
そこで最初に彼に接触した諜報員と戦闘が得意な魔法使いの混成部隊が全滅した。
風の噂程度に絶命した彼らが馬鹿正直に伊波に対し詰め寄ったということを聞いた。
「伊波が黒だと分かっていながら正面から詰める人間がいるとはな」
〔幻影〕は組織なりに裏切りの対応には慣れていると思っていたが大きな勘違いだったらしい。
オレが伊波の逃走の隙を与えないように最短で裏切りの証拠を挙げたにも関わらず、詰めで対応を誤ったのだ。
たとえオレが伊波の立場だったとしてもスパイ工作がバレたなら追っ手を巻くか排除するだろう。
人数の有利にあぐらをかいたか、あるいは余程裏切りが許せなかったのか。
いずれにせよ、みすみす伊波の逃走を許してしまったといえる。
日付が変わりそれから丸一日が経とうと水瀬と顔を合わせる機会がそうなかったのは彼女自身も追跡対応に追われていたからだと聞いている。
「……いや確かに〔幻影〕サイドのミスはあったがそれ以上に伊波の能力が高かったと考えておくべきか」
今までの情報を総合すれば伊波は位階で言うところの『第三位階』――通用魔法のみしか行使できない魔法使いだ。
本来なら同じ第三位階の魔法使いを二人、多くとも三人も送り込めば身柄の確保ができると踏んでいても不思議はない。
それでも処理しきったということは『魔法使いの力』の方ではなく『暗殺者の力』の方を使ったのだろうか。
水泡が弾けるように散発的な思考が浮かんでは消えていく。
実際は分からないが近いうちに相まみえることは想像に難くない。
ふとバルコニーの扉が開けられる気配を察し、半身で振り返る。
夜空を凝集したような美しい黒髪は薄く湿り気を帯びているようにも見える。
爽やかな風に乗って柔らかな白檀が香った。
「こんばんは。何度もノックしたけれど反応がなくて……バルコニーに出ていたのね。隣り、いいかしら?」
「構わない。悪かったな、返事が出来なくて」
オレが軽く頭を下げると水瀬は微笑みつつ、横に並んでガーデンに視線を落とす。
「手入れは欠かさないんだな」
オレは珍しく自分から話しかけることを選んだ。
「えっと? それはどういう……」
それを聞いた水瀬は目を丸くし、それからほんのりと頬に朱が差す。
オレはそれを見て自分の言葉が勘違いに足るものだと理解する。
「オレが言っているのはガーデンのことだ。……日常生活で言葉が足りないのはオレの短所だな」
「そ、そういうことね」
水瀬は納得したように言葉を続ける。
「ええとガーデンのことならそうよ。この季節だとタイムにオーニソガラム、デイジーにネモフィラもあるわ。本当は長閑な午後が一番綺麗に映るんだけどね」
「夜は夜で趣があっていいと思うけどな。静かな夜に見ているだけで癒える。それに落ち着いた気持ちにもなれる」
ここからの景色を見ていることも悪くはない。
水瀬が無理に微笑んでいる気配を察したからこそそう思ったのだが。
「――ごめんなさい」
自ら切り込むことを選んだようだ。
「私は――私は伊波くんのことを全然理解できていなかったのね。本当に馬鹿よ。もう二年くらいは近くで戦ってきたけれど、彼の本質を見抜けていなかった。八神くんはたった数日で見抜いていたのにね」
信じきれなかった異端審問の場とは異なり、水瀬なりに裏切り行為を消化しようとしているのだろう。
伊波を責めるのではなく自身に責苦を与えるあたり彼女らしいといえばそうなのかもしれない。
「オレが思うに水瀬は責める方向を間違えているぞ。お前は今自分を責めるべきじゃない。お前の立場だったならオレも、他の人間だって長い間隣りにいた人間を疑いたくはないだろう。悪いのは騙そうと思って近寄ってきた伊波本人だけだ」
「いいえ、私に責任がないなんてことはないわ。気付こうと思えば気付けたはずだった。そうすれば何人も犠牲者を出すことなんてなかった……っ」
思わず声量が大きくなった水瀬は慌てて口元を抑える。
「ごめんなさい」
「謝ってばかりのお前に――というよりは〔幻影〕全体に一つ言いたい。さっきオレはお前も〔幻影〕も悪くないと言ったな。確かにそれは事実だ。だが伊波が裏切ったと分かった後のあの対応は正直に言って杜撰だったと思うぞ。反省をするならその点だろうな」
「読みが甘かったのね。実は伊波くんは『第三位階』じゃなくて『第二位階』の魔法使いだったことが分かったの。今まで彼は固有魔法を隠して〔幻影〕に協力していたのよ」
だとすれば〔幻影〕の追っ手が壊滅したことにも納得がいく。
全員が『第三位階』だけの編成だったと聞くからな。
一通りの毒は吐き切ったのだろう。
しばらくオレと水瀬の間には風のそよぐ音しか存在しなくなる。
どこか不自然で、ぎこちない。
だが決して居心地の悪いものではない。
彼女はさらに一呼吸おいてから視線を向けずに尋ねてくる。
「八神くんは私がどんな人間か――知りたいと思う?」
水瀬の表情は変わらない。
ほんのりと微笑みを象ったまま止まっている。
それだけ緊張していることの表れでもあった。
東雲に嫌われていること、人一倍自分を責めがちなところ。
どれも水瀬の人間性が関わっていることが必然だ。
だからこそこれに対する答えは当然イエスだ。
「ああ、知りたい」
「そう」
その言葉を受け取った水瀬は直後にオレに向き直り、両手に魔力を凝集する。
そこから具現したコバルトブルーの刃を持つ漆黒の大鎌はいつかも見た美しい武器だった。
「私の固有魔法は〚
突然に暴露された内容はオレの興味を引くには十分だった。
固有魔法が己の願望や人生の具現化であるのなら、余程彼女の抱く闇は根深いのだろう。
ただ傷を負わせただけで生命活動の停止に至らしめる力など、対人兵器の究極と言っていい。
それほどのものが存在してしまえばあらゆる秩序が崩壊しかねない。
だがこれから水瀬が伝えたいことがそんなことではないことは分かりきっている。
「それは凄い異能だな」
「いいえ、全然凄くなんてない。むしろこれは私にとっての呪縛よ。私が望まなくても人を傷つけてしまう」
形のいい細眉を憂い気に歪め、大鎌の横腹に触れる。
つい最近彼女の願望を聞いたときと同じく踏み込んでいいものかを躊躇する必要はない。
任務の前日であること、そして二人しかいない静寂な空間であるからこそ、話せること聞けることがあるはずだ。
仮にオレがこのまま〔幻影〕に所属するのであれば、相棒となる水瀬のことはできるだけ知っておくべきなのだから。
「何か、あったのか?」
「ええ……私に対する朱音の態度を見たでしょう?」
「ああ、記憶に新しいな。あれだけお前を邪険にしていれば何かあったのかと邪推することも簡単だ。実際に聞くことはしなかったが」
「それは私にとってはよかった……いいえ、ただ先延ばしにするだけだったのかもしれないわね。こうしていつかは話さなければならないから」
一度言葉を切ると大鎌を魔力に帰す。
それだけの行為で場を取り巻く圧力が消失したように感じるのは気のせいではない。
水瀬の固有魔法が死を司るのだとすれば本能で息苦しくなるのも当然のことだ。
「二年前の夏、工場地帯で爆発事故があったことは覚えているかしら?」
唐突に持ち出された月日の指定に記憶を辿る。
するとすぐに印象的な一つの事故を思い出した。
「ああ、覚えている。かつてこの国で起きた爆発事故のなかでも最大規模のものだったからな。原因は確かガスタンクの老朽化で内部の高圧可燃性ガスが漏出したことだったはずだ。さらに真っ当に管理されていた他のガスタンクに引火して連鎖的な大爆発を起こしたともな」
あの歴史的な大事故のことは鮮明に覚えている。
当時のオレはすでに組織に飼われる暗殺者を辞めていたが、現在のオレと同様に社会の規則で裁けない犯罪者を狩っていた。
そんな状況にあって、蒼い閃光が視界を走り途轍もない爆風に圧倒されたものだ。
受け身を取っていなければ全身打撲は免れなかったに違いない。
のちに周辺の工場地帯で爆発事故があったこと、そしてその二次被害状況を小耳に挟んだのだ。
「オレが認知している情報と現実に起きた事実は違うのか……?」
「ええ。あの出来事は表向き事故とされているけれど、実際は魔法テロの実行犯とその鎮圧に動いていた私が衝突したものなの」
その言葉と声音に宿った悲壮感、そして強張った表情から良くないことがあったことは想像に難くない。
「その時の私の固有魔法の暴走で一般人四人が亡くなったわ。そして当時〔幻影〕の守護者だった一人が傷を負ってしまった」
「その人は――」
「彼はもういない……いないのよ」
水瀬の口調にはその守護者が死者になってしまったことを言い含めるような印象があった。
後悔、惜別、贖罪への渇望。
それはオレを普段から蝕んでいる昏い闇と同質のものに近い。
「八神くんはこんな私の相棒になってくれる……?」
「それを聞くなら屋上で仮相棒の話を持ち掛ける前に話してほしかったな」
「ごめんなさい……。あの場では私の心構えが未熟で、上手く話せるか分からなかったの。でも今は断られる覚悟も出来ているから」
碧眼の双眸には揺るぎない覚悟と決意が滲み出ている。
遅くとも真摯に向き合おうというのならこちらも相応に向き合うのが筋というものだ。
「オレの答えは仮相棒契約のときから変わらない。水瀬にどんな背景があろうと一週間程度は仮相棒だ。正式な相棒になるかは〔幻影〕のこと、そしてお前のことを見極めてから決めたい」
「なら、私の過去は大きなマイナスね」
「そうでもない。オレはお前の誠実なところが好ましいと思うよ」
「そう……ありがとう」
今度は安堵したような微笑みで、張り詰めていた雰囲気が緩む。
昏い過去は程度の差はあれど、誰もが持ちうるものだ。
それはオレだって例外ではない。
オレが話が終わったと判断し背を向けたときだった。
「八神くん」
今日はこれで彼女と顔を合わせるのも最後だと思っていたのだが清澄な声が呼び止める。
「まだ夜も浅いでしょう? 色々あって遅くなったけれど貴方の衣服とアーティファクトを今から選ばない?」
いまだ完全な気持ちの切り替えができたわけでもないだろうが、水瀬は平常を装ってそんなことを誘ってきた。
とはいえ、確かに明日は夜から作戦決行だ。
午前中に衣服やアーティファクトの選定もできるだろうが早めに下準備を済ませておくことも大切なことに違いはない。
バルコニーから部屋へ戻ると別の部屋へと案内されるのだった。
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