第39話 夜明け前。


 葉那君……葉那……


 聴こえる……呼ぶ声が。

 ほっとする温もり……

 沈み込んだ意識を昇っていく

 瞼を開けた……


 霞む目が、朧げな灯の中の姿を捉える。

 傍らに人がいる。私の顔を覗き込むように。


 ――前にもこんなことが、あったような

 この後どうしたのかしら


 徐々に輪郭が一つに重なる。


「霧崎君……」


 ぶわりと涙があふれる。次々と落ちて行く。

 忽ちに視界がぼやける。

 

 ――そう、それで――


 ハッ、と頭に警告音が鳴り響いた。

 は、出会ってはいけない――


「――行かなきゃ」


 横たわっていた身を起こす。

 もう一度、しかし今度はハッキリとその顔に焦点が合い、目をしばたいた。



「霧崎君――よね?」



 痩せこけた、骸骨のような男性がいた。

 頬は痩け目元は隈が濃く縁取り、髪は白髪になっている。

 特殊メイクでも施さないとこうはならないだろう。思わず吹き出してしまった。


「今日はハロウィンだったかしら?」


「葉那……大丈夫か?」


 滑稽な姿で、骸骨男がこちらを本気で心配している。

 同じ映画を見たかしら。ゾンビかマッド・サイエンティストかーー

 無性に可笑しくて思わずお腹を抱えた。

 涙まで出てくる。


「やめっ……てよ、」


 一頻ひとしきり笑った後、グラスに注がれたミネラル・ウォーターの水面を見ながら心を落ち着ける。


「――それで、失恋のあまり骸骨になったと言うのね」 

 

 先ず心配をするべきなのに、あまりに変わり果てた姿に現実味が無さすぎて、未だドッキリなのではないかと疑ってしまう。直視しないよう、念の為軽く唇を噛みながら、部屋の方へ視線を逸らした。


 ソファ横のスタンド・ライトだけで部屋は薄暗く、よく見ると周辺が荒れていた。

 物が少ないので散乱していると言う程ではないが、酒瓶が転がり、空気は埃っぽく湿っている。 


 生真面目に部屋はいつも片付いていたし、お酒も進んでは飲まない筈……

 

 途端に現実味が帯びてきて、居心地が悪くなった。

 ――姿を見せないどころか、一歩も部屋を出ていないのでは。

 お願いはしたけれど、まさか監禁でもされていた? 食事もろくに取っていないだろう。

 とはいえ、自分が心配するのはお門違いだ。これ以上彼の人生に関わってはいけない。


「あの――……それじゃ、そろそろおいとまするわ」


 瞬く間に埃があらわに浮かんだ水には口を付けず、立ちあがろうとしてよろめいた。

「葉那、」

 彼は支えようとして躊躇い結局已め、中途半端に腕を伸ばしたまま真剣な眼差しで問いかける。


「何があった?」

「何って――」


 ずきん、と頭が痛む。

 あれ……

 とにかく人目を避けて、暗い夜道を歩いて、歩いて……

 くたびれて


「公園で、横になって――」

「何してるんだ」

 

 記憶を確かめるように呟くと、怒った声が被さった。


「貴方に言われたくないわ」


 冷めた声で言い返すと彼はハッとして押し黙った。


「――とにかく、シャワーを浴びよう」 


 ――ああ。

 土埃で服が白んでる。足元はストッキングが黒ずんでいるし、そもそも破れている。


「いいの。どうせ汚れているから」


 彼は無言で今度は手首を引いて、そのまま浴室へと連れて行く。逆らう気力はなく、仕方なく脱ごうと上着に手を掛ける。

 扉が静かに閉められた。


 面倒で冷水のまま、でも殆ど冷たさは感じずにただ水が流れて行く感覚に目を閉じた。

 

 ポタポタと水滴を垂らしながらシャワーブースを出ると、汚れた衣類が片付けられ見慣れた白のワイシャツが畳まれて置いてあった。

 溜息を吐いてそれを羽織る。

 男性用のそれは確かに腿を隠すくらいの丈はあるけれど。


 匂いが付いたら嫌なのに――


 シャンプーすら無視をして水だけで流した。

 とはいえまさか裸で出ていく訳にも行かない。

 なんだか、羽衣はごろもを隠されて帰れずそのまま男の妻にされた天女の話があったわね。天女のまま命を絶つなり選択肢はなかったのかしら、と思ったものだけど。絶つタイミングっていうのも難しいものなのかも。

 結局、天に帰って行ったんだったかしら――?

 まあ、現代になぞらえるような話じゃないけど。



「電話を貸してもらえる?迎えに来させるわ」

「ない」

「何でよ」

「失くなってた」

「そんな訳――」


 ある筈ないと言いかけて、思い当たる節があったので追求するのは辞めた。

 敵にだけは回したくないと言わしめる判断・実行力の無比さ。ランプの魔人の如く、どういう結果になろうと願った者の責任なのだ。きっとですら公平に。

 彼の目を潰してほしいとかの滅多な比喩をしなくて良かった。 


「お前のは?」


 今日で何度目の溜息だろう。 

 携帯電話とカードがないんじゃ、本当に無力な子供ね。私たちは。

 ただこの深夜に裸同然の格好で出て行って騒動を起こさないだけの分別はある。


「悪いけど、泊めてもらえないかしら。ソファを貸してもらえれば――玄関でもいいわ」

「余っているベッドがある」

「いいの。じゃない方がいいわ」


 反射的に拒絶していた。

 今はベッドを見たくない

 

 立っているのも疲れて倒れ込むようにソファに横になると、しかし彼もすぐ傍の床に座って動かなかった。

 ああ、本当に疲れているんだけど。


「指――戻したけど、脱臼していた」

「え?――ああ」


 言われて初めて、ジンジンと痛んできた。

 左の薬指に、何も付いていないけれどその根元に輪状の跡が残っている。


「それはありがとう」


 短くそう言って背を向けた。

 無理矢理抜かれた時に、指が外れたのね。

 当然エンゲージ・リングの痕だと気が付いているとは思うけど


「ちょっと診せてくれ」


 寝た振りをするには間が短か過ぎたし、それとも寝ていても構わないと思ったのか指先が肩に触れる――瞬間に体を仰け反って、身を起こした。


「触らないで」


 しかし彼は険しい顔のまま、そのままシャツのボタンに指を掛けた。躊躇いもせずに外していく。すぐに上半身は露わになった。

 その眼差しは、患者を診る医師の目そのものだった。


「これは?」

 

 紫の痣に問いかける。色白い肌の上に隠しようもなく、幾つも散らばっていた。


「関係ないでしょ」

「通報する義務がある」


 職業倫理を持ち出して――


「勘弁してよ……」


 不自然な痕だって、言うのね。殴られたみたいに――


「そういう、プレイよ。痣は出やすい体質なの」

「Play?」


 彼には解らない言葉のようだった。多分、私以上に偏って知識に乏しいんだわ。

 英語と解した発音が腹立たしい。


「暴力を振るうことで興奮する性的嗜好があるの。foreplay、前戯よ」

 

 彼の瞳は霜が落ちたようにさっと冷たい色に変わり、すがめられた。

 軽蔑されようと構わない。


「帰るわ」


 ボタンを留め直す。

 大通りでタクシーを捕まえられれば。もう多少の騒ぎは仕方ない。

  

 立ちあがろうとする前に、袖が引かれ――そのまま、捲っていた余分の裾が椅子の背に結び付けられた。まるで拘束着でも着たように。締めつけるところもないのに脱ぎようがなく動けない。


「ちょっと、」


 これこそ犯罪じゃない。

 何なのこの動作の自然さは

 精神病患者が見上げる医師の目は、こんなにも無慈悲に映るのかしら。

 ――私はオカシクなんかない――

 

「葉那はここにいた方がいい」


 彼だけが立ち上がる。

 まさか、こんな状態で置いていく気じゃ――


「どこに行くの?」

「殺してくる」


 ゾッとした。

 飲み物を買ってくる、みたいな声の調子で。

 多分この人達の言葉に比喩はない。

 説明が足らなかったようだ。


「同意よ」

「関係ない」


 関係ないのは貴方でしょう、と諭して油を注ぐのも怖かった。でも冷静に考えればそもそも相手を知るよしもない。

   

「日下家との接触が禁止された訳じゃない」


 こんな時は人の気持ちが読めるんだから――


「貴方が犯罪を犯したら、どれだけの人を巻き込むのか考えて」

「犯罪?」


 彼は冗談でも聞いたように口元だけ微笑した。


「司法が無ければ犯罪は起きない」


 裁く者がいなければ、裁かれることも無いというのね。嗚呼この人って、紛れもなくあの人の――『霧崎家』の血が流れているんだわ。

 

「……私に聞いた方が早いでしょ」 


 観念してそう言った。

 夜明け前の暗闇へ 



「私も連れて行って」





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