第37話 理想の恋人。


 路地裏に人知れず佇む割烹料理店に続けて入る。政治家の密会にでも使われそうな雰囲気で、紹介が無ければ入れない格式の店だろう。

 

 前を歩く、背広姿の男性。


 この人は本当に「彼」なのだろうか。

 がさつで、自分勝手で、エスコートなんて出来なくて、社交界なんか連れて行けない――優しい人。


 店内は小気味よい三味線の音以外静まり返っていて、案内の女将以外に人の気配を感じない。「貸切みたいね」冗談で笑いかけると、さりげなく頷いた。

 

 そつなく食前酒を選び、料理が運ばれて来る。

 この人は、誰だろう。

 少しぽーっとした頭で目の前の男性を見る。

 食べ方も凄く綺麗。顔もタイプ。振る舞いも凄く紳士的で……

 全て完璧。

 あの人、、、以外にそんな人はいない。

 これは私の夢なのかしら?

 ずっと若い、昔のあの人の前に私がいる……


 幻みたいな冷酒が、喉を潤す度体を優しく温める。ほわほわした夢心地のまま時間が過ぎて、最後に運ばれてきた甘味に寂しさが押し寄せた。

 知っている。

 ――たぶんこのシャーベットを口にしたら夢から覚めてしまうんだわ……

 知っている。

 ――そして全部忘れてしまうのね

 

「葉那」


 躊躇っていると、男性が真剣な瞳で見つめていた。

 パカリと左右に開かれた小さなケース

 夜空のベルベットの中央に煌めくのは

 星の光のようなダイヤモンド



「結婚してほしい」


 

 流れ星に願うことすら躊躇った

 こんな夢を、誰が用意してくれたのかしら

 唇を開きかけそうになって、誰かが閉じる。


 ――霧崎君は?


 ――霧崎君よ。

 

 ――霧崎君じゃないわ。


「わ、私……」


 混乱して

 涙がぽろりと落ちた。

 彼の指が、頬の上でそれを掬って。

 少しだけ寂しそうに微笑んだ。 


「返事はいつでもいいから。――俺の気持ちは、一生変わらない」

 



 

 久方の人肌の温もりが心地よくて

 乾いた砂が水を飲み込むように足りなくて

 懐かしいのか初めてなのか分からない

 感じたことのない感覚の奔流に

 全て手放した


 ゆっくりと優しく導くように

 きっとこうだと思っていた


 答えが間違っていてもいい

 戻っても誰もいないのなら



 隣に眠る人の顔に、朝日が差し込む。

 ――これが、私が追い求めた人なのね……



「霧崎君……」   


 

 私が殺したのかしら




 彼との時間はいつも理想的だった。

 非の打ち所はなく楽しくて全て委ねられた。

 何も悩むことも考える必要もなかった。

 私の理想の人が、間違えることはないことを知っているから。



  ――私、夢の中にいるのかしら

  ――覚めるのが、怖いの


  呟くと、暗闇から答えが返ってきた。


  ――それなら、覚まさせない


 

 



「お父様が貴方と食事をしたいそうなの」

「勿論、喜んで」

「――私たちの今後について、聞かれるかも知れないわ」


 俯いて少し早口で言うと、彼は頷く。薬指に嵌る立て爪のダイヤモンドを落ち着かずに捻ると、手ごと優しく包み込まれた。


「きっと認めてもらえる」


 見上げた瞳は夜の海のよう

 静かだけど温かくて力強い

 幸せだけが待っていることを信じられた。


 

 ***



「夭輔君。暫くぶりだが、本当に若い頃の父君を見ているようだ」

「やめてよ、お父様……彼は喜ばないわ」


 料亭の個室。上座に居る父親が、私の隣に座る彼に向かって無遠慮に徳利を傾ける。配分も考えずに既に赤ら顔で、不遜な態度を取って彼に嫌われてしまわないか気が気でなかった。


「娘は美人だろう。私に似なくて良かった」

「だが厳しく育てたせいか、女だてらに性格はきつくなってしまって。悪い虫を寄せ付けない迄は良かったが、見合いを断り続けるのは参っていたよ」


「変な話は止めてよ――」


 父親を恨めしい目で見るが意に介さず、彼に向かって話し続ける。


「それも君がいるなら、当然だったな」

「話してくれれば――と思うが、私が家督を意識させ過ぎたせいだろう」


「君の父君と話したよ。私としては是非共婿に入って欲しかったが……

 手塩に掛けて育てた娘を駆け落ちさせてしまうくらいなら、諦めるより他あるまい。恥ずかしい話日下家うちの内情は複雑なんだが、あの父君のいる霧崎家と縁戚ができるというなら、本家としての体裁も保てるだろう」


「しかしあの真摯さには、目が覚めたよ。勿論私も娘に不幸を望む訳がない。ただ、言い訳かもしれないが私は婿養子でね――親としての気持ちだけで自由にしてやれる力量が、私にはなかった。いや、自分の不甲斐無さの分だけ娘を縛り付けていた。この凡才を非凡な娘の影に隠してしまおうと、賞賛を我が物顔で享受しておいて、忙しさにかまけて娘を遠ざけていた。……私の卑近さを、聡いこの子に見抜かれないように。――こんな実の親より、余程娘に向き合ってくれた君の父君を慕うのも、当然の結果だろう」


「君には感謝している。幼い頃から日下の籠に閉じ込めてしまった娘が、自ら伴侶を見つけて羽ばたこうとする姿が、今は誇らしい」


 父親の内心は初めて聞くもので、胸がじんわり熱くなる。

 ――そしてあの人も、望んでくれているのね……

 彼は愛想笑いをすることもなく、ただ真剣な眼差しで耳を傾けていた。


「だからここから先は、娘の幸せを願うだけの一人の父親として、聞かせてほしい」


 父親がそれまでの酔いに任せた饒舌さを消して、厳格な面持ちになる。

 不安はなかった。

 家督の問題がないのであれば、「彼」に不足があるはずがないもの――

 

「君は、娘を幸せにできるのか」

「はい、お嬢様を必ず幸せにします」


 正面から見据えた父親に、彼は物怖じもせず即答した。次に父親は自分に目を向ける。


「葉那。この先何があろうと、夭輔君を信じて支えることができるか」

 

 大袈裟だわ。政界の世界とは訳が違うんだから、『何か』なんてある筈ないもの。

 でもお父様を安心させてあげないと。


「はい、お父様」

「……そうか」

 父親は一つ頷き、深く息を吐き出した。



「夭輔君。君はクラブに懇意な女性がいるみたいだね」



 突拍子もない発言に、面食らった。

「何を言い出すの、お父様――?」

 ちらと横目で見るが彼は眉一つ動かさない。

「適当なことを言って試しているなら、失礼よ。謝って」 

  

「無論社交上の付き合い程度なら問題にもしない。ただ、を隠せない君を、娘が本当に支えていけるのか知りたい」


 父親は茶封筒を一つ、テーブルに置いた。

 彼の顔が僅かに強張った気がした。

 緊張が漂う。

 

「何か、勘違いしているわお父様――落ち着いて」 


 そう言いつつも、封筒から目が離せない。とても不気味で、何か異次元にでも繋がっているかのような空恐ろしさがあった。


「これを開けるかどうか含めて、君達に任せる。それが娘の選ぶ幸せなら、何も言うまい。ただ、崩れてしまうなら――やはり籠の中で守ってやりたいと、私は思う」


 父親はそう言い残して、席を立った。

  

 ・・・


 唐突に二人取り残されて沈黙する。

 その異様な存在感を放つ茶封筒に、とうとう手を伸ばした。


「葉那、」


 しかし彼の手が重なって止める。


「俺を信じてくれるなら、開ける必要はないと思う」


 いつもは暖かい手の体温を、何故だか感じられなかった。


「――まるで何が入っているか分かっているような口ぶりね。どうしてこれを私に開けて欲しくないの?」   

「……きっと誤解する」

「私は――開けるわ。お父様に試されていると言うなら、知っても貴方を信じたい」


 その手を払い、一思いに封を切った。


 中からは写真の束が出てきた。

 

 幾つもの場所に同じ若い男女が写っている。レストラン、洋服店、劇場、カフェ、パーティ会場……一見して何も問題のない、ただの恋人達のスナップ写真。それから夜のクラブへの出入りと、ホテルから出てくる――


 見間違える筈のない彼と、腕を組んだ見覚えのない女性の姿。

 

「なに、これ……」 


 指に力が入らず写真が一枚はらりと落ちる。

 水族館に刻まれたより前の日付。


「葉那、違う――」


 必死な彼の瞳を見て、ああ、事実なんだわと思い知った。そうしてたちまち全てに腑が落ちた。今まで霞みがかって、目を逸らしていたこと。


 変化した服装、物腰、表情

 会えなくなった時間――


 どこかで聞いた

 いい女性が男性を変えるのよね

 私にはその器量がなかっただけ


 急速に、心が冷えていくのを感じた。

 いいえ、かつての自分に戻っていく感覚を


 指輪を外して写真の上に留めた。

 この女性の顔を、私は覚えない。



「さようなら、霧崎君。覚ましてくれて、ありがとう」


 

 案外哀しくはないのね

 やっぱり失恋歌ラブ・ソングは大袈裟なんだ

 それか、元々愛してなんかなかったんだわ

 私が愛していたのは自分の幻想

 

 あの人への恋も、終わりにしよう

 それが全部の元凶

 日下葉那を揺らがせた

  

 家の利益だけ考えて結婚しよう 

 一つだけ選り好めるなら

 浮気なんてしてもどうでもいい人と

 

 さようなら、馬鹿な「私」


 雨が降る

 点々と足元を濃く染める








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