第30話 プラトニックに恋しましょう
その日の晩にレストランに呼び出された。
何でレストラン……何で個室に?
別れを切り出されることは?――あり得る。
極端に、元を断つところがあるから……
朝のことが
もう絶対に青信号以外を進まない。細心の注意を払って標識を見逃さない。だから――
「や……やあ」
待ち合わせた時って何て言うんだっけ。
先に席にいた葉那に声を掛けて椅子を引く。
「何飲む?」メニュー表を開いて目を滑らせた。柄にもなくウィスキーショットでも呷りたい気分だ。
「炭酸水をお願いするわ」
冷や汗が首を伝うのを感じながら、炭酸水を二つ頼んだ。料理メニューを見ようともしない。ドクドク打つ心臓が胃を叩き潰して吐きそうだ。
「大丈夫? なにか、顔が白いけど――」
「大丈夫」
勝手に早口で答える。しまった、とりあえず日を改めて貰えば未だ、
「それで、今後のお付き合いなのだけど」
がん、と頭をテーブルに打っていた。多分夢だろ。覚めてくれ――
「ちょっと、」と葉那が驚いて席を立つ。ちょっと、現実的過ぎる。
「何でもするから――考え直してくれ。せめて猶予を」
「変なの、霧崎君。別れ話みたいに」
ぷっと葉那が吹き出した。
「別れ話じゃない?」
「貴方が良ければ」
「良い」
金縛りのように硬直していた全身が弛み、顔を上げた。葉那はちょっと可笑しそうに口元を緩ませている。照明が凄く明るくなったようだ。ジャズミュージックが流れていて雰囲気の良い店だし、美味しそうな匂いもする。
「何頼む?」
「霧崎君、話を聞きなさい」
「はい――何の話だっけ?」
「もう」
葉那は呆れる。それでもちょっと緊張した面持ちになって口火を切った。
「もうちょっと、節度あるお付き合いにしたいの」
「そうしよう」
「……本当に伝わってる?」
「えーと……もっと色んなところにデートしに行く?」
「そう言えば、日本に居た時間の方が短いわよね。御免なさい」
葉那は居ずまいを正して一息吐き、意を決したように告げた。
「しばらくセックスをやめましょう」
「――
「性交渉」
「え……」絶句した。
「今朝……言ってたわよね」
不安げに揺れる瞳に慌てて言葉を繋げる。
「勿論――俺は全然別にそんなの関係なく――全く?」
「しばらく」
「そう……しよう」
抜け殻になった、てこういう時の表現かな……
「あの……難しいわよね、日本語って。嫌とかじゃないんだけど、適度って言うと混乱させると思って」
「外人扱いするなって。ちょっと感情が乱高下して追いつかなかっただけだ」
そのニュアンスに安堵する。
「嫌じゃなくてよかった」
反対に葉那は心配げな顔をした。
「そこが問題なのよ。私がしっかり線引きできれば良いのだけど、何故かおかしくなっちゃうのよね。だからむしろ私が変になっても貴方に止めてもらいたくて」
「難しいこと言うな……。誘われても断れってこと?」
「そうね。なんか……ダイエットみたいな感じかしら」
「する必要が?」
「これ以上変になったら困るの。つまり、淫乱にね」
自己分析から導き出された答えを最後にシートに書き込むような冷静さで彼女は告げる。
「悪かった――本当に申し訳がありません。心にも無いことを言って傷付けました」
「怒っていないわ。私だって貴方に嫌なことたくさん言ってきたし」
「外人崩れとか?」
「意外と根に持つのね……謝ります。御免なさい」
「初対面だったからな……」
彼女はふいと懐かし気に目を細めてから、律儀に腰を折って頭を下げた。降ろした髪の毛が真っ直ぐに下を向く。
根に持つ訳じゃないが、年を経るごとに薄ぼやけて遠ざかって行く記憶の中にも、センセーショナルなその台詞は鮮烈に情景と共に思い出される。置き残された道着や防具から漂うツンと
足音も無く場違いに佇んでいた、美麗な女子学生。一輪の薔薇のように凛として――棘々しく放たれた耳を疑う台詞。
――ねえ?外人崩れさん――
モノクロな活動写真に初めて色が差し込んだような衝撃だった。
もし人生を章立てするのであればあの日が始まりだろう。自分と登場人物と、とはまた違う。観測されることで初めて輪郭を持った自分の存在。
『霧崎君』
『霧崎君?』
『霧崎くん――』
幾度呼ばれたか分からない。いつまでも他人行儀にわざわざ苗字を付けて、そう呼ばれた回数は今日に至るまで間違いなく彼女が一番多い。
そして俺はと言えばその視線を
「私はずっと見てたんだけどね」
「敵意を込めてな。俺も別に怒ってない。
葉那はくすっと笑った。
「本当に、まさか私達がこんなことになるなんてね。十年前の私が見たら卒倒しそう」
「十年前の俺になったらお前の
「話が通じないのは事実でしょ」
「俺が大人になったんだな……可愛いと思えるなんて」
しみじみと言う。
「さ、お腹が空いたわね。何か頼みましょうか」
棘の中で固く
再会を挟んでその仮面の剥がれを垣間見せてくれた、神がいるなら幸運に感謝を。
「俺も。お腹が空いた」
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