第29話 オフィス・レディの朝は早い


「ちゃんと言えよ」


 薄闇を終える朝日が差し込む頃、カウンターに手を付く彼女の口を塞いで迫った。


 ***


 朝の六時。ふと目が覚めて時計を見ると未だ早朝だった。それなのに隣にある筈の姿が消えていて、胸騒ぎがして寝室を出る。

 玄関へ向かう廊下で鉢合わせた。身なりを全て整えた葉那は、出勤に向かうようだった。


「おはよう、霧崎君。起こしちゃった?」


 ほっとして、力が抜けた。


「おはよう……もう出んの?」

「ちょっと早く目が覚めちゃって」

「俺も。じゃあ、もうちょっとゆっくりできるな」


 欠伸を噛み殺して引き返そうとするが、葉那は動かない。


「もう支度しちゃったし……」 

「コーヒー一杯だけ」


 彼女の家のキッチンで、ハンドドリップでコーヒーを淹れる。マシンを置くようなスペースはないが、葉那はこの家をとても気に入ってる。戸棚には磨かれたガラスコップに整然と並べられた食器類。塵一つない床。

 葉那は全て自分で手入れをしている。


 父親に言われたからではないだろう。少女が持つドールハウスのように、この部屋を大切に扱っている。与えられたのが1LDKの部屋なのは、自分で切り盛りできる範囲を考えてのことなのかもしれない。それでも葉那は、自室より広いと言っていた。

 彼女がくつろげる『家』が自室だけだったと思うと、どこに向けたらいいか分からない遣る瀬なさを感じる。

 

 カフェに置いてあるみたいな丸テーブルを挟んで、マグカップのコーヒーが冷めるのを一緒に待つ。俺もこの家は好きだ。全体的に、距離を近くに感じられる。

 スーツを着て髪を結び、大人びた化粧をした勤務姿。甘えるようになった近頃とは印象が異なる。


「出勤時間が徐々に早くなってないか?」

「ん……」 


 何故か曖昧な音を出し、掛け時計の指す針を気にしている。


「親父はこんなに早くなかったけどな……」


 と、ぼやいた言葉にピクリと反応した。


「真次さんて、何時頃に出勤されるのかしら? 全然、会わないの」

って言うんだろ、それ。仕事が楽しそうで何よりだな」


 図星のようで、ちょっと照れている様子も可愛い。俺にはストーカー気質だとか言っておいて。


「重役出勤なんだろ。家に居た頃はいつものんびりしてたぜ」

「家族の時間を大事にしていたのね」


 頷く彼女はわざわざフィルターを掛けて解釈する。逆なら仕事のかがみとか言い出すだろう。


「見習って、彼氏との時間を大事にしとく?」

「そうね……遅くは行けないし」


 諦めたように、ふぅっとコーヒーに息を吹く。濃茶の波紋。熱さを確かめるように縁に口付けて啜る。揺れるポニーテール。

 一コマ一コマ映画のシーンのように釘付けになる。まさか自分にもフィルターが掛けられているのだろうか? いやこんなに間近で見たら世界中が虜になるだろう。

 

「じゃあ彼氏さんにクロック・マダムでも作ろうかしら?」


 マグカップをシンクに運んで、冷蔵庫をパタンと開けた。


「葉那は朝食を取ったのか?」

「いいえ、コンビニエンスストアで済まそうと思って」

「お嬢様がコンビニで朝食を?」

「今は普通のオフィス・レディなの」


 誇らしげに言う彼女。本当に可愛い。

 テレビで見た世界を現実に手に入れたと言わんばかりだ。


「俺は葉那が食べたいかな」 

「卵は半熟よりちょっと固めが好きなのよね」  


 聞き流して彼女は取り出した卵をコロンと置き、バターに小麦粉ハムと取り揃えていく。自分も飲み干した空のカップを持ってシンクに並べた。これもいつか夢見た現実。ペアカップではないが同じ柄のマグが隣り合う。


 誘うように揺れるポニーテールに手を伸ばした。一つにくくった髪束が露わな首筋を見え隠れさせる。


「こんなにうなじを見せるのは良くないと思うぜ」

「見るのは貴方だけよ」

「この無防備さ、家から通わせたがるのは道理かもな」


 キツく縛らないとゴム紐がするりと落ちてしまう、滑らかな髪をさらさらと指通す。


「代わりに俺が守らないと」

「まさしく親の心配を貴方が叶えていると思うけど」


 腰に添えていた手が勝手にタイトスカートの裾から忍び込み腿を這い上がっていた。滑らかな生肌の感触。


「……」


 卵液を掻き混ぜる手は止まっている。

 辿り着いた柔らかな双丘に手が吸い付いて離れず揉んでいると葉那の手が台に付いた。ちょっと指を伸ばして脚の間をなぞるとびくんと震える。

「……ッ」

 ちょっと心配になるくらい、感じやすい体になってしまった。初めこそ夜まで待ってとか照明を落としてベッドでとかそんな暗黙の決まりがあった筈だが、重ねるごとになし崩しになっていった感はある。

 心配になるのは基本的に彼女が受身体質の傾向があることだ。思えば「仮」付き合いの時もキスや体を触らせるのを拒まなかったし、痴漢にしても拒めなかった事実がある。気の強さとは裏腹に、説明付けるならば我慢に対する耐性が強過ぎる。


 ――もう止めろ、と頭のどこかで警鐘が聞こえる。


 だがそれは掠れ声のように微かで根拠も示さない。何の問題がある? 想いは通じ合っているし、彼女は我慢している訳じゃない。今後もずっと彼女を大事にするのは自分だ。


 ブラウスの中に手を入れて、胸に触れる。

 ショーツに伸ばしていた指も何度か往復しその中に滑り込ませた。

「……っ」 

 彼女は声が漏れるのを我慢するのに精一杯だ。

 意じゃないなら一言拒んでくれればいい。

 自分だけじゃない、彼女としている行為だ。

 ――痴漢とは違う。もし過ぎるなら――ちゃんと言い合える関係だ。

 指を一本、挿し込む。

 濡れた粘膜の中に容易に受け入れられる。 

 横顔に、羞恥と快感が入り混じる絵に描いたような官能的な表情が見えた。本当に映画でも見ているような。監督なら絶賛するだろう観客なら恋するだろう一画だ。

 指でくすぐっているとびくびくと体を震わせて反応する。どこからか怒りに似た強い感情が湧き上がった。 


 ――絶対に、彼女は他の男と二人にしてはいけない。見合いを受けるのも危険だ。


 特に自分が何か優れている訳ではない。

 こんな表情を彼女に触れた誰かにさせるのが許せない。許すのが許せない。責めるように指の動きは強く激しくなっていた。

「ん……あんっ」

 遂に我慢できなくなった声を上げる。

 

「何でお前はそんなに淫乱なの?」


 びくっと背筋を震わせて、彼女は恐る恐る後ろを振り向いた。


「ご……ごめんなさい」


 生理的な涙を浮かべ、叱られた子供のように一方的に謝った。

 自分が口走った酷い言葉が信じられない。

 ゆっくりと指を抜いた。 

「あ……」

 所在ない間が流れる。

「何でこんな風になっちゃうのか、分からない……」

 彼女は言い訳するように俯きながら呟いた。

「やっぱり……馬鹿になっちゃったんだわ。もう辞めないと……」

 ――ざわり、と。今度は真っ赤な警告音で頭がいっぱいになる。それなのに子どもが手を振り切って飛び出していくように。

「葉那は……本当に淫乱ってこと?」

 彼女は泣きそうな顔をする。


「俺じゃなくても――誰だっていいんだろ」


「違う」裏切られたように目を見開いて。

「何でそんなに酷いこと言うの……?」   

「お前が言ったんだろ」

『約束』で彼女が俺を脅した日。

 ぼろりと大粒の涙が澄んだ瞳に浮かぶ。

「私……ごめ「違うなら謝るな」

 口に手を被せた。その上を涙の粒が転がり落ちていく。

「ちゃんと言えよ」


「――俺だけだって、言えよ……」


 こくんと彼女が頷き、手を離す。

「霧崎君……霧崎君の手だと、どうしようもなくなるの」

「もっと触れてほしくて、もっと欲しくて、それしか考えられなくなる」

「……いつか私になる誰かが許せなくて、離れてしまうのが怖くて」

「貴方が欲しくてたまらなくなる」


「馬鹿よね」

「馬鹿だな」


「お前が誰かになることは絶対にない」

「俺は一生、お前以外を欲しくならない」

 彼女は切なげな顔をする。 

「――だから、なんていうか、ちゃんと断ってほしい。それで離れることは、絶対にないから。俺には我慢、しないで欲しい」


「……うん」


 頷いて彼女は目元を拭う。表情は和らぎ視線を交わして、キスをしようと屈んだ。


「出勤前は、やめて?」

「ごめんなさい」



 

    

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