第15話 クラウディ・ロックグラス
ホテルフロントには背を向けて急いでタクシーを走らせる。
部屋に帰り着くとバスローブ姿の葉那が呑気にソファで寝そべっていた。やはり『そんなこと』ある訳ないが胸を撫で下ろした。
「ん……」
目を覚ます仕草が可愛い。
「あら、霧崎君……帰って来たの。今夜は……静かに過ごせると思ったのに」
眠そうにしながらしっかり嫌味を言うのが可愛い。
「そんなところで寝たら風邪を引く……」
そう言うと葉那が半眼で腕を伸ばして来るので抱き上げて寝室に運んだ。
可愛い。俺への態度は変わらず辛辣だと思っていたが、やはり一年前より大分恋人らしくなってきた気がする。
「霧崎君……シャワーを浴びて来て。私は浴びたから……」
添い寝で入ろうとすると葉那が薄く目を開けて言った。
二度目の熱いシャワーを浴びる。追いかけてスパに行った事がバレているのか、それとも……もう一歩関係を進めていいサインなのか? と勝手に顔が熱くなる。ただの期待に終わるのには慣れているが。
髪をがしがしと拭いてから櫛で整える。ちゃんと黒い自分の目を確かめた。一週間は付けっぱなしでいいコンタクトレンズを誰かに開発してもらいたい。
寝室に戻ると葉那がウィスキーの牛乳割りを差し出して来た。少しは機嫌を直してくれたのだろうか。
「乾杯しましょう?」
コツンと合わせて口に付けると、大分濃い。父親が風呂上がりに傾けていた濁ったロックグラスを思い出して嫌気が差した。弱いくせに強い酒を飲みたがる理由。大方の元凶はいつもあいつだ。
「スパで霧崎君に似た人を見たわ……」
「奇遇だな、俺も葉那に似た女を見た」
お互い様だろ。投げやりな気持ちになって嫌味が口をつく。
「紳士と話せてリフレッシュできたか?」
「別に……幼い頃から年上の方と接する機会が多かったから、苦手がないだけよ」
茶器のように両手で持って啜るグラスを取り上げた。好んで飲む訳じゃなく感傷に浸りたい時に酔おうとする。
「怒っているの? 霧崎君……」
「別に……」目を逸らして答える。葉那は泰然として微笑みを浮かべていた。
「私はね、全然怒っていないわ。貴方がこれ見よがしに女性を口説いていたのを見ても……」
「口説いていない。あれは、」
見られていた。首に手を回された時遠目には抱き合っていたように見えたかもしれない。誤解されて当然だ。俺だって葉那がもし他の男にそんなことを許しているのを見たら――
自分の迂闊さに今更苛立っているとそれを知ってか知らずか彼女はくすりと
「全然、何にも感じなかったわ」
詰るような響きはどこにもなかった。
「こういうのって、普通嫉妬するものなんでしょう? でもやっぱり私、貴方の事なんとも思っていないみたい」
「俺だって何とも思っていない。お前が年上を侍らせる趣味があったとしても。
「そう、まあそういう解釈もあるかもしれないわね……」
そう言いつつも何も感じなかったと言われて何も感じないではいられなかった。
「葉那、」
抱き寄せて唇を合わせる。酒なんか飲ませたくなかった。
「ふっ……あ……」
人形のように染みひとつ無い肌に散らす。すぐに消えてしまう花びらを。彼女は何も抵抗をしない。求めもしない。ただ腕の中で鳴いている。押し潰してしまいたかった。
「葉那……」
背を向けて寝付く頭に、額をこつんと当てる。
「お前この前な……眠っている時、」
「うん?」
「俺に抱きついて来た。すごく幸せそうに笑っていた」
「嘘」
「本当」
自分の声が誰か他の人間になって告げる。
「親父の名前を呼んでいた」
「――そう……」
「どんな夢を見たんだ?」
「さあ……夢って覚えていないわ……。夢の私が羨ましいわね」
「俺は
「無理でしょ……分かっているくせに」
「でも葉那を幸せにしたい」
「……」
「な……結婚しよう」
「――どうしてそんなに結婚したがるの?霧崎君……貴方は未だ若いわ」
「お前が逃げていきそうだから……。お前は蝶みたいに舞ってどこかに飛んで行ってしまったと思ったら、蜘蛛の巣に絡まれてどこにも遠くにいけないで捕まっていそうだ」
「随分詩的な事を言うのね、霧崎君……。それで、貴方が蟲籠に私を入れて飼ってくれるの?」
「いや……俺はお前を守らせて欲しい。お前よりずっと
「そう。でも私、芋虫って嫌いだわ……」
葉那は静かに呟いた。
「貴方が蝶になることはないの?」
「俺は……そういうのにはなれないから」
「私、知っているわ。どうして貴方が私を得ようとするのか……」
「葉那に憧れている?」
「違うわ……貴方が父親にコンプレックスを抱いているからよ」
白肌に残る跡を可笑そうに眺めて。
「だからね、父親を崇拝する女を自分のものにして、征服欲を満たしたいの……」
胸を深く突き刺されたようだった。
すぐさま否定できたら良かったのに、喉に血が詰まったように言葉が出ない。その沈黙を肯定と取ったのか彼女はふいと目を逸らして告げる。
「――そろそろ終わりにしましょう。一度だけ抱いていいわ。それで約束を果たせるなら」
彼女はとても残酷だった。
これは彼女が受けてきた仕打ちなのだろうか。実らないまま踏み潰されて散っていく。
これは彼女の復讐なのだろうか。
「果たさなければずっと付き合ってくれるのか?」
「無理よ。子どもみたいなことを言わないで」
「それでもお前の気持ちがないなら抱かない」
「ありがとう。私も本当は気持ちがない人に抱かれたくない」
それは変わらず綺麗で、彫像のように凍り付いた微笑だった。
契約の期限が告げられたのは、それから間もなくのことだ。
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